過越の祭り 第二神殿時代のセーダーの晩餐 主の晩餐の実際のやり方 1 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過ぎ越しの晩餐=セーダーの様子を書いてみたいと思います。

 

1世紀、イエシュア、弟子たちとしてパウロや、ユダヤ人、

異邦人イエシュア信者ナザレ派の人達は、皆変わらずに

過越を祝っていた事実に目を留めてみてください。

途中から神の言葉も、トラーも何も変わらない。

神の言葉は人に取って堅固な櫓、永遠の礎だからです。


これは、イスラエルの伝統的な”晩餐”でイエシュアが生まれる

前からありました。それをイエシュアもされていたのです。

昇天後も同じく過越の祭りを代々祝い続けているのです。
聖書には細かい内容は書かれてはないですが。

まず皆でテーブルについて、それぞれの役割を決めます。
人数が多いグループでやる場合は、テーブルがいくつにもなりますから、一人の女性がそのテーブルのお母さん役、男性がお父さん役と決めます。仮の家族をテーブル毎に造るのです。お母さん役の人がまずキャンドルに火を付けて、それを吹き消す。そして、その煙をテーブルに付いている皆に手で振りまく仕草をします。これは、シャバットの夕食の時もこれをやります。

これは、喜びを家中に振りまくと言う意味が、あるのです。
シンボルとしてするのです。神のみ言葉の光を、振りまくと

言う意味です。神のみ言葉の光が、私達の人生にもっと入って

来るようにと言う意味を表している動作なのです。
象徴的に、手をキャンドルの上にかざすのです。

そして、みんなで、一緒に祈ります。過ぎ越しや、その他の祭、

またシャバットに、どんな祈りをするのかが、全て書かれて

いる本がイスラエルの書店、アマゾンにもあります。私の手元

に有るものを見て書いてみます。

祈り

全宇宙の王の王である、われらの主 神に祝福あれ。

私達に、代々に渡りこの過ぎ越しの祭りをするように教えられ、

この世の光である、イェシュア、購い主を私達に与えて下さった
お方に祝福あれ アーメン

まだ、イエスさまを救い主として、知らないユダヤ人は
この祈りの最後の部分はしませんが。

1 その後、お父さん役の人が次の品を準備します。
ワインかグレープジュースを、それぞれの、カップに
少しだけ注ぎます。

聖書には書いていないのですが、ユダヤ人には、4つの杯を飲む伝統があります。過ぎ越しの祭りに、4つの杯のワインを

飲む慣わしがあります。イエシュアが生まれるずっと前から

ある伝統です。イエシュアも弟子と過ぎ越しを祝った時、

その伝統に従い その慣わしを同じ様に守られたのです。

これは出エジプト6:6−7の内容を表すものです。


春の時期は、ブドウの収穫時期ではないですから、太古の時代は

もちろん缶詰、瓶詰めなどのブドウジュースはありません。
全てワインなのです。

神がイスラエルに語られのは、①エジプトを出て、きよめ

②あなたを自由にし、③解放し ④わたし=神のものにする。
4つの素晴らしい約束です。4つの杯はそれぞれ意味があり

この4つの杯は、神が言われた4つの約束、それを思い出す

ためにワインを飲むのです。出エジプト6:6−7


過ぎ越しの晩餐が、その4つの約束の順序にしたがって、
行われるのです。
そしてそれを、セーダー=オーダー=

順序の晩餐と、呼ぶのです。主の晩餐と訳されていますが。

過越の”セーダー”の晩餐。

出エジプト6章
6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。
わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、
労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによって
あなたがたを贖う。
7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしは

あなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがた

の神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から

連れ出す者であることを知るようになる。
8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った
その地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの
所有として与える。わたしは主である。

ワインを用いるのは、聖書の中には、ワイン=喜びの印、祝福として、書かれているからです。ワイン=喜び、神の祝福の印です。
イスラエルでは、至る所にブドウの房を運ぶ、あのヨシュア記
の斥候の姿が書かれた絵があります。
グレープジュースでも良いのです。お酒の飲めない人、子供は
ジュースで乾杯して下さい。

しばらく皆で歓談した後、私達個人の霊的な発見、主の真実、

救い、購いなど、話し合いながら、それぞれの約束に従い、

その後儀式の始めから終わりまでの間で、4回グラス、コップを

掲げて、乾杯します。

大勢いる時は、結婚式の祝宴のようにこれが行われます。
皆で、楽しくおしゃべりをして、主が奴隷=罪人の状態から
引き出して下さった事を思い出し、乾杯するのです。

出エジプト6章 第一の杯①引き出す。

神の元に聖なる者として、引き寄せられている事。
始めから主の福音は”修復された新しい人””聖なる人”なのです。
祝いの初めに 今夜を聖別してこの夜を聖別し、特別な時と

してするのです。神が私達を、聖別して下さったことを
思い出すのです。

第一の杯、聖別の杯。皆で、最初の杯を一緒に飲みます。

2 ここでこの伝統的により、決められた祈りをします。
 

”我等の神、主よ 宇宙の王である方に祝福あれ。
私達をすべての国民の中から選び出し、すべての言語、
話言葉の中から選び出して下さり、私達を高めてくださり
主の仰せのゆえに、聖別してくださった神、主であられる方よ。
永遠の契約の愛を持って、この喜びの特別に定められた時を、

与えて下さり、この季節、祭りを喜びのために、私達に過ぎ越し

の祭りを与えて下さった。私達を奴隷からの解放の季節、

愛と恩恵のゆえに、あなたは楽しみ、嬉しさ、喜びを与えて

下さった主であられる方に、祝福あれ。過ぎ越しの祝いとお祭り

にイスラエル(神の子達)に祝福あれ。

ここで、次の祈りをします。

3 全宇宙の王の王、われらの神、主であるお方に、祝福あれ
私達を生きながらえさせ、養い守り、この季節まで運んで

下さった方に、祝福あれ。


この時、手を洗う儀式があるのですが、シンボルとして意味が

あります。イエシュアが、弟子達の足の泥を、洗い流した

あの箇所、良い知らせ=福音を思い出すためにするのです。
イエスさまが過ぎ越しの祭りを、弟子と祝った時、

弟子一人一人の所に行き、彼らの足を、洗った場面が

あります。そしてイエシュアはこう言われました。

”もうあなた方は聖い、きよめられている。しかし日々の

歩み中で汚れが付いてくる。” この夜する儀式的手洗いは 
それを思い起こさせるものなのです。
私達はイエシュアによって、すでに聖められている
=修復された元の姿になっているのですが、日々の歩みの中で 

この世の環境から来る、埃、泥の中で汚れる、パン種を自分の中

に取り込んで別物の姿に膨れ上がるので互いにその塵、泥を洗う必要があるのです。”

4 お父さん役の方がそこで、水の入ったボールを掲げて、
一人一人の所に行き指を、水に入れてください。その後、

ナプキンで手を拭いてください。

ここで祝福の祈りをします。

全宇宙の王の王、神、主であられる方に 祝福あれ。
私達をイエスの血で聖めて下さった方に。

もちろん、イエシュアを救い主として知らないユダヤ人は、

イエシュアの御名で、イエシュアの血でとは言いませんが、
私達イエシュアを救い主として受け取っているのでこれを

伝統劇なユダヤ人のセーダーの晩餐の中に加えるのです。

 

続く