主の晩餐 過越のセーダーの流れ 2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過越の晩餐は色々な”ハガダ”(語り)があります。どんな内容を話すか、重きを置くかそれぞれのグループでも違いますが、共通して同じ事は、出エジプトの回想をする事、その中でエジプトの苦役、まやかしの喜びや、子羊の贖い、マッツア、4つの杯、

2つの浸水など、意味のある食べ物を順番に食べて行き、

その内容について考え話し合いそして子供達にゲームをさせたり、寸劇をしたり色々な形で行います。

 

イエシュアの最後の晩餐でもそれをしていたのです。

だからマッツアを食べ、贖いの杯と呼ばれる三杯目の杯を食後に

飲んで、これらの意味、マッツアと贖いの杯はイエシュアの体

血、子羊の血で人が贖われ新しくされ新しい契約=頭脳に割礼を

受けて=聖霊が内側に住まい神の契約=教え=トラー=モーセの五書に記された神が創造された神の似姿の本来の生き方をする事

それが再更新された契約=新しい契約=エレミヤ31章で語られる、新しい契約です。誰も主を知ろうと言わない、なぜなら

頭脳に割礼を受けて神の教え=トラーを理解して生きる事を皆が

知っている状態になるからであると語っているのがそれです。

 

イエシュアがされた最後の晩餐は、この過越の祭の晩餐であり

過越の晩餐以外でクリスチャンが行う聖餐式と言う名前の付いた種ありパンでの儀式ではないのです。

これは代々永遠に祝われる神の記念日であり、過越の一連の出来事を回想しイエシュアを覚えて記念してこれを行なってとイエシュアも遺言されました。その声を言葉を聞いてこの過越を祝う事に参加することは祝福です。

 

明日5日の日没に過越の晩餐が来ますが、過越の週の中で何度でも行う事が出来ます。過越の晩餐の祝い方の例を載せて行きます。昨日の記事がの続きなので続きとして読んでください。

 

順番は前後左右しても自由です。晩餐を進める前に、出来れば

大きなタオルか、布切れをそれぞれ用意して衣に見立てます。

エジプトを出て荒野を旅する、衣です。そしてその布の4角に、

青い糸を付けます。

聖書に書かれている出エジプトは、同じく私達個人個人の
歴史
でもあるのです。私達イエシュアを信じる人達は全員

エジプト=奴隷の王の国から脱出したのです。


そして、荒野の中で本物の主の声を聞く旅に出たのです。
それを、過ぎ越しを祝う度に、この事実を皆で再現して追体験するのです。奴隷=この世の闇の王から、私達のまことの主人=
本当の親、主人であるイスラエルの神に引き渡され、買い戻された事、そして私達のID、現実、姿は既に聖なるものとされていると、主は始めから言われているのです。


その印である、衣の房=主の命の生ける水をたたえて四角=世界の四角に運ぶ器=主の証人である事を思い出す、自覚するためです。それぞれが置かれた場所で、生ける水を周りに運ぶ人である事をいつもいつも思い出すために、”衣の房”の教えがあるのです。
出エジプト6を読んだ後、2杯目のワインの杯を乾杯します。

”自由人にされた”印の杯です。
飲み過ぎると酔うので、少量で、薄めて少々が良いと思います。

グレープジュースでも良いです。

テーブルの真ん中に置くマッツアですが、そのマッツアは
3枚重ねします。

マッツアが手に入らない場合、小麦粉と水だけでつくった、
薄いお好み焼きを焼けば良いです。それを、3枚重ねにして、

テーブルの真ん中に、置いておきます。

白いナプキンを、下に敷いて、その上にマッツアを乗せます。
白いナプキンは そこに見えるように置きます。
真ん中のマッツアを出して、ちょうど半分に割り、半分を、別のナプキンの中にいれて、横に、置いておきます。このことについて、その時は何も言わないまま、こうするのです。

これが、後でとても大事になります。子供たちの興味を引き出すためにこうするのです。

伝統的には、この真ん中のマッツアこれを隠すのです。 
そして、後でゲームをするのです。
マッツアを子供たちに探させるのです。小さい、子供が、いない場合は、若い人達にこれをさせます。
隠す時は、子供たちに、目を閉じさせて、部屋のどこに、
隠したか分らないように。見つけた人に懸賞=チョコレート

などを上げます。

その後に、食べ物に付いての説明をします。
苦菜=マーローそしてハロサットはエジプトでレンガを積み重ねていたものとして見てください。
ハロセットは甘い食べ物です。ジャムでも良いです。
物事の両面、コインの両サイドです。苦悩の食べ物、エジプト

で 食べたものです。
苦悩もあるけど、その中にこの世的な楽しみ、代替えで、まやかしで心を埋めてた事を思い出すのです。

次の文章を声に出して読んで下さい。
 

”おなかがすいたら来て食べなさい、必要があるなら 過ぎ越し

を祝いなさい。今ここ奴隷の国にいる。エジプトにいて奴隷で

あるが、来年約束の地に行くかもしれない。来年は自由になる

かもしれない。”

 

これは何の意味があって読むと思いますか?
このマッツア=種無しパン=苦悩の食べ物=苦菜=マーロ=苦悩の食べ物。奴隷だった事の、苦味を表している食べ物です。
ここに神の招きがあるのです。


お腹のすいている者は全て来て食べなさい 苦菜を食べなさい。
時々この苦菜を食べて自分たちが、まだエジプトにいる事を
思い出すのです。
苦菜、苦悩の食べ物を食べて、何が私達に苦痛を与えているか
思い出す必要があるからです。

必要がある者は来て食べる。苦悩が取り除かれる必要がある人は
来て食べなさい。
 

何があなたの苦悩なのでしょうか?
まだエジプト=奴隷の国に居て、何があなたを苦しめている

のか考えるのです。今の自分の内側の状態、生活で何があなた

を苦しめているのか、直視して考えて見るのです。

おなかのすいているもの、全て来て食べなさい。
必要のあるものは、苦悩を取り除かれる必要のある人は
全て来なさい。まず、自分の苦悩を、知る必要があるのです。

ここのヘブライ語で、貧しい、貧しい人、苦悩の意味は
マタイ5章の中にある言葉と同じです。
心の貧しい人は、満ち足りると書いてある所に繋がります。
自分たちが、何によって苦痛を与えられているのか。
それに気がついて求めれば満足する満たされると言われた

のです。私達の苦悩、貧しい部分を思い出すのです。

神の義に対する乾き飢え。義に対する飢え渇きは必ず満たされ

るのです。今読んだものは神からの招きです。

この過ぎ越しの晩餐に対する招きです。
 

今神からの招きがあるのです。この晩餐の一番初めに食べる
食べ物は苦菜です。今、私達の一部はまだ、エジプトに居ます

が、神からの招きが、希望があるのです。

来年は自由になると言う希望。

神が私達の命、生活に働きかけて、何が私達を常に苦しめて
いるか、神の約束=救いを受け取った後の、喜びを十分に
楽しむために、私達が本当に喜びを知るのを妨げている物、

何が取り除かれなければならないのか、気がつくようにするのです。古い人の中にある、過去の記憶?傷?隣人による不当な扱い壊れた人間関係?そのために、苦菜をたべる。
痛みが取り除かるため、それが自由をもたらすからです。

苦菜、はっきりしています。
奴隷の辛苦、苦い経験、痛みをもたらす経験。
ハローセット=を食べる事は甘くて、美味しいけれど
それは私達の苦悩の生活を思い出す事でもあるのです。
エジプトに食べ物、家も、収入もあった。しかし、これは苦悩を覆い隠すだけのものだった。なぜなら、私達の真実は本当はこの世の奴隷であったと言うことです。肉には両面あります。


苦悩=苦い。しかしその中にも美味しい物、甘いものの側面もある、楽しいものもある、これが欲しい、あれもやりたいと思うものです。大変な生活の中で、美味しいものを食べ、旅行にも行き、あれやって、これもやってと、これも買ってと楽しみもあると言うような事です。でも、これは 希薄な只のまやかし。希薄、巧妙な食べ物、本当は無意味なエジプト=この世の奴隷として、

苦菜の甘さを味わい、実のところは只のレンガを積み重ねて

いるだけだと、そういう事を思い出すのです。

 

全ての喜び楽しみは、神の子らとされて神の性質を生きる時に

初めて本来のデザイン通りのものになるのです。それ無しに

この世の楽しみだけを求めたら、それらはただただ飢え渇きを

増して飽くなき欲求を生み出し続けるだけのものです。

これを一番最初に食べるのです。そしてこれは初めにして思い起こさせるのです。神の晩餐への招きであるのです。
そして,この食物を頂いて、一番始めに思い起こす内容です。

続く