過越の祭りを祝う ハガダ  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

4月22日、月曜日日没から過越の祭りです。

種無しパンを食べる7日間です。

祭りを祝うとは、祭りを準備する事から既に始まっています。

過越の祭りを祝う事をする人達は、この祭りに向けての準備の中

祭りに向けての様々な事などを話し合って祭りに向けて、この祭りの意味を考え回想し始めているからです。

 

日本でも祭りがある時には隣近所町内会で話し合い、準備し、

ご近所さんとたくさんコミュニケーションを取り、一緒に作業して準備し、親しくなる機会を持つ時でもあるでしょう。

皆で力を合わせて祭りに向けて準備する事は意味がある事です。

 

まして全世界を造られた創造主が、神の子らのために創造された

記念日を祝う意味が今はもうなくなったなどとどうして考えられるのでしょう?神がそう言ったからですか?それとも人間が言ったからでしょうか。

しかも聖書を読めば=神の言葉をその通りに読めば、神が創造された記念日は神に取って、とても重要であり、それは神の子らに取り同様に重要であり、代々永遠に祝われる”わたしの記念日”と伝えているのです。ユダヤ人だけの祭り!などと神は1度も紹介しませんでした。ユダヤ人の祭りと思うのは、神の教え=記念日日を代々に渡り忠実に祝い続けているのはユダヤ人が主だから

そう考えてしまっているだけです。異邦人は神の招きに応答していないからです。しかも異邦人クリスチャン達もイエシュアが祝っていた神の永遠に祝われるべき記念日を祝う事を2世紀以降やめたのです。1世紀は異邦人イエシュア信者も同じシャバット、新月、祭を祝っていたのですあなたは”はじめの愛”=婚姻契約=トラー=父の言葉=モーセの五書に記された神の教えから離れた”と言われた5つのグループと同じ事をしたからです。

 

”わたしの記念日”神を中心に神の子らが1つの大家族として全世界のどの場所に住んでいても永遠に祝う喜び、楽しみ溢れる、

福音の中核を皆で思い出し賛美し感謝しイスラエルの神がどんなに偉大なお方であるか皆で追体験するものだからです。

 

”主を喜ぶことはあなたの力!”と言うネヘミヤ8:10での言葉も

仮庵の祭りに時、仮庵の祭りを祝う、神の創造された祭りを祝う事がいかに祝福溢れ喜びに満ちたものであるのか、体験して、

そしてその喜び=神の家族として1つになり神と祝う事が、

どれほど栄光に満ちたものなのか、それを話しているのです。

 

イエシュアが祝っていた春の祭りは、この過越の祭から始まる

7日間の種無しパン、初穂、そして穂を数える7週間、7回のシャバットを祝い、シャヴオート=ペンテコステ=トラー=シナイ山で婚姻契約を受け取った記念日を祝っていたのです。

 

この時期春の祭りの一連の暦と、出エジプトの記録、そして個人個人の人生の歩みはぴったりであり、1年を巡る歩みにもぴったりと合っています。それが神の創造された記念日、人の生きる暦のデザインだからです。過越の記録を読んでみたら、それらが春の祭りと同じ暦であり、福音の中で教えられている内容と同じである事を知る事が出来ます。

 

過越までの間エジプトのゴシェンで、厳しい10の災いを経験する事となります。ゴシェンの地は”引き出す” "隔たり” ”分離”と言う名。10の災いの間もイスラエルの上だけには、災いが直撃しませんでした。

秋の仮庵から春の過越までが一番厳しい時期です。それは新しい人として成長する過程の中で、要らないパン種、一番大きなものを1つ何か教えられ、それに対峙させられる時期でもあるからです。逃げたら、又同じ繰り返しがやって来る。

 

それは環境、状況、人間関係を通して様々に教えられる事です。

問題が起きる、経済的問題、誰かとの喧嘩、いさかい、争い、

問題の種類は違えどその様な事は表向きの問題なのですが、どれも何にどう自分は対応反応対処しているのかと言う、内側に潜んだパン種に気が付かせられる出来事でもあります。

ズレた行動思考回路が見えて来るものです。

 

過越の祭りが来る前に、家の中からパン種を除去しなさいと神が

言われました。もちろんパン種=ハメッツを探して全部除去するのですが、やっていて分かるその1番の目的は、掃除をしながら実は自分の中に潜んでいるハメッツを除去する事を神から教えられているのです。除去したパン種に、2度と再び戻らない、

だから除去する。再び取り入れないと言う決意が必要です。

 

自分の意識に上らない問題も実はたくさん自分の中にあるものです。長く生きていればより一層色々未解決のズレが潜んでいる。自分が自覚出来ない問題もあるのです。でも神はその時期その時期のサイクルの中で確実に対応出来るものを教えて下さいます。

 

どう言う事かと言うと、ある問題は自分には直面出来ない程強烈な傷、歪みであり、未だその事にちゃんと向き合う程に整えられて成長していない、理解していない、その様な時にその人が潰れて壊れてしまう程の潜んだ問題の根を持ち出して対処させる様な強制はしないのです。

 

1つ1つハメッツを除去する、でも除去したとしても、別の形で

パン種が潜んでいる事にも気が付くのです。だから1年に渡るサイクル、新しくされた人、聖別された人として神のシャバットから、新月、記念日を巡り生きるサイクルの暦、レッスンをアバ父がプランしてそれぞれに教えて下さっているのです。

 

過越の時は、丁度エジプトで子羊を屠鴨居に塗った時です。

イエシュアが地上の過越の祭りで処刑された時と同じです。

贖われた事実は、出エジプトした人達、イスラエルも異邦人も

そしてエジプトに実際に住んだことのないそれ以外の人=イエシュア=子羊の血で同じく贖い出された人達、死が通り過ぎた。

神がイエシュアの血で私達を覆って下さったので、新しい命を

与えられたそれはどの時代のどの人種でも、神の子らには同じ

贖い、同じく福音なのです。それを実際にイエシュアの血を通して教えられているのか、本体の影である子羊の血を通して教えられているのかその違いだけです。実態は全く同じ事を教えているのです。

だから過越の祭の時に神の子らは、この贖いの業の一連を思い出してと神は私達に伝えているのです。

神の言葉を捨てたら神が今自分に何を伝えているのか、分からないまま見えなくなり、不明になります。

イエシュアが過越の晩餐の次の日に処刑される事に弟子達も未だ気が付いていませんでした。

イエシュアが過越の晩餐で弟子たちに語られた事、晩餐の儀式で

教えられた事は何だったのでしょう?

 

 ルカ22:19それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 

<イエシュアは過越を祝うたびに皆でイエシュアのされた業を

思い出し、記念しマッツアを食べなさいと言っています。

これは聖餐式と言う後から作った種ありパンを別の時に食べる儀式ではない、過越の祭り=種無しパンの祭りで行うものであることは出エジプト12:18−20の神の仰せとイエシュアの言葉を読めば明らかです。>

 

20食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 

出エジプト6:6−7に記される神がされた4つの事、

1 きよめ 2 解放 3 贖い 4 受け取る これらが4つの杯で表されるものです。3つ目の杯=贖いの杯は食後に頂く杯なのでイエシュアがされた食後の杯は3杯目の杯=贖いの杯である事が分かります。イエシュアが次の日処刑される、贖いの業を表すものです。

 

新しい契約〜契約の詳細中身はモーセの五書=婚姻契約であり

新しく再更新される契約。トラーとは違う別物の契約なんて誤解してはなりません。そんなものはこの世にはありません。頭脳に割礼=イエシュアの永遠の中にある贖いの業で聖霊を内側に受けた人達が参加し1つのイスラエルの大家族になるそれをイエシュアが弟子達に再確認させているのです。これから弟子達は、タナックに記されたイエシュア贖いの業、神の教え=トラーを正しく人々に語り教え生きて見せる任務が与えられていたからです。

 

春の祭りは西洋宗教=異邦人クリスチャンの中では、イースターしかありませんが本当はこの過越の祭の一連を祝うのがヴォナファイド=正真正銘の神の正式な祭永遠不変の祭りです。未来に

イエシュアが来られたら、世界中皆春と秋の祭り、そしてシャバット、新月を祝う様になる!と預言されています。今世界で多くのクリスチャン達が本物の神の言葉に戻り生きる事を学んでいます。

以前はこんな事考えられませんでしたが、もうじきヘブライ語聖書の学びに出会って16年になる私も、その時はこんな大きな,

根本的に全部完全に神の言葉だけに戻り、イエシュアがされていた通りの教えを生きる事に戻る軌道修正をする事になるなどと、考えてもみませんでした。少しずつ少しずつ神の言葉の真実を

知って行き、段々と真実に気が付いて行くのです。でも最初から神の側では神の言葉は変わらない真実です。神は神を求める人、神の真実を求める人には必ず真実を永遠不変の神の言葉からはっきりと教えて下さいます。

自分で聖書を読んでみて、何が書かれているのか、何が書いてないのかはっきり追求して行く事は大事です。

そして、神の言葉が変わったと誤解する箇所、例えば新しい契約とか、律法の下に居ないとか、お金を集めて置いて週の初めにそれを代表者から受け取るとか、全ての食べ物はきよいとか、

イスラエルと書かれているからイスラエルだけの教えとか、

そこに書かれている本当の意味を知れば、どの言葉も聖書のどの箇所も神の言葉を否定したり終了させてる教えなど1つも書いて

居ない事を発見出来ます。

聖書は聖書で読み解くとクリスチャンも言いますが、実際には

そうはしていないです。聖書を人の思想=神学で読み解いているからです。だから、神の言葉が神が言う通りに永遠不変!と言う事実に対して盲目、神の伝える永遠不変の真実を見逃してしまっているのです。神の言葉を曲げたら、好きな様に自分の考えに合わせてどんな教えでも創作出来てしまいます。

 

過越の祭の準備は、掃除。そして自分の中にあるズレ=ハメッツ除去です。実際の過越の何をするのか、以前の記事をアップします。イスラエル以外は水曜日の晩から木曜の晩は休みではないので、水曜日の晩は短いをする事が出来ます。そして週末が来るのでその時にゆっくり回想する事が出来ます。

 

”ハガダ”とは、”出エジプトの一連の出来事を回想し語る”事。

ストーリー テリングです。

これは、それぞれのバージョンがありますが、イエシュア達1世紀の人達もやっていた事と同じ要素です。

意味のある食べ物を順番に食べながら、4つの杯を飲み、

マッツアを食べ、その間に出エジプトの回想をするのです。

 

続く