ペサフ<過越の祭り>への準備 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

実際に過越の祭の前に準備する事は何かを書きます。

 

まずは、パン種除去を明日迄に終了しておく事です。

イースターを祝う準備をしているなら、全ての要素を網羅する

神の創造された記念日を祝う事の方が重要です。

その中に全ての要素、福音的要素があるからです。

復活の命を祝う事は種無しパンの7日の中で祝うものです。

 

家の中から酵母、パン種を除去する事を神が教えています。

出エジプト12章を読んでみて下さい。

 

パン種はヘブライ語でハメッツと言うものです。勿論パン種自体は罪でもなんでもないのですが、このパン種でこの過越の時期、”罪”とは何かを教えているのです。そして小さな罪=パン種が潜み、パン生地はやがて大きなものになって膨れ上がって行く事を教えています。だから、そのパン種=罪を自分の中から除去する、何が自分の中に潜んでいる隠れたパン種なのかを自覚する

必要があるからです。もちろんその罪=パン種はイエシュアと共に死んで古い自分の中にあったもの、すでに葬られて死んでいる以前の自分ですが、頭脳の中には実際に古い自分を生きてきた

記憶=習慣=傾向=思考パターンがインプットされているので

その思考回路脳回路を切り替える事をしないまま生きたら、古い自分のままで行動し続けると言う警告が聖書にははっきり記されています。それを脳回路とか、科学的な解説をしていないだけですが、自分の歩み1つ1つ、考えている事に注意を払い、新しい人として生きる選択を常にしているのか、それとも古い肉の自分で生きてはダメであることの警告が至る所に記されています。

パウロもそれを語っています。自動的に神が全部を切り替えるなどと考えてはなりません。生きる、行動する、選択をするのは

全て自分の側の責任であり、自由意志を与えられているからです。救われたら自動的切り替えのAIロボットになる様な考え=瞬時に神により自分の考え、行動が変化するのではないのです。

新しい自分を主にあって自分の選択で主の言葉を選びその実態を生きる!と教えられているのです。

 

2コリント10: 5神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、

この”従わせ”と言うギリシャ語は、意識的、神の言葉に

聞いてその通りに注意深く生きると言う意味です。ヘブライ語ならば聞く〜シャマです。神の言葉の中で、神の声の中で神の声を聞いて生きる=従うと言うのは、神の言葉を聞いてその通りに

理解したならその通りに行動するから従うと訳させれていますが、単純に聞く、神の言葉に聞くと言うこと、これが基本中の基本です。

神の言葉を部分的にでも捨てる、排除すると言う行為は、神の

言葉に聞く=従順とはかけ離れた行為です。神の言葉に聞かない=自分の考えを生きる=神の言うこと、教え、言葉を無視するならばそれは神に逆らう行為です。

 

そしてこの過越から7日間パン種が入ったものを食べる事は、

神の前に罪でありコミュニテイから絶たれると神が言われたほどに重い罪になります。

コミュニテイから絶たれる=神の教えを生きたくない人は、神の会衆から遠い存在になると言う事。イエシュアも同じ事を言いました。マタイ5章で、神のトラーを軽くみて、人にも神の言葉を軽んじる様に教える人は、神の国で最も軽い存在になる。神の前に意味のない軽い存在、遠く離れた場所に追いやられる、絶たれるとトラーに書かれている意味をイエシュアは解説しているからです。

神の言葉に逆らう様に人に教える人は同じ神の家族として調和して生きられない事になるからです。不純因子になる、他者を破壊し腐らせて行くからです。

その根は、神の言う事を無視し実行する事、死に値するほど

重い結末を招く事も教えているのです。聖書の最初にある事を

思い出して下さい。”食べる”と言う行為で人の中に死が入った!

その事実を軽く見たら見えなくなります。

 

神の言う事とは違う事を敢えて教える、する=本来のデザインからずれて神との隔たり、本来の自己像=神の似姿の自己像からずれ、本来の関係からずれ、本来の生き方からずれる死を招くと

言う事を教えられているのです。神の言葉を軽視し、軽く扱い

真剣に考えない事、死を意味するからです。

神の言葉を知らないでする場合、これも問題です。創造主を知らないなら当然ですが、イエシュアを知りながら、神の言葉を注意深く学ばない、神の言葉に敬意を払わない、気にも留めないから

神の伝えていることが分からないと言う事だからです。

2023年の過越の祭りは明日22日の日没に始まります。

 

水曜日までに家の中にあるパン、クッキー、引き出し、クッション、ソファーやカーペットの下などに潜んでいるパンくず、イーストを含む食品など色々探して除去します。

冷蔵庫やキッチンのオーブンや戸棚など色々、イーストを含む

食品を見つけると思います。

普通のユダヤ人の中でも、”スプリング クリーニング 春の掃除”と言うものがあります。アメリカにもあります。日本では年末に大掃除しますが、多分アメリカに移民したユダヤ人達が過越の前に大掃除していたのでこれが定着したのだと言う人もいます。

 

この祭りを毎年祝い、過越の晩餐で種無しパン、贖いの杯を飲み

祝うたびに、皆でイエシュアのされた事を思い出してと遺言されました。これは聖餐式ではない、過越の祭りの中で行われるものが、イエシュアがされていた事、伝えていた事です。

2000年前の過越の祭りの時、イエシュアも同じ様にこの過越の祭りの晩餐を祝い、そして処刑され、復活されました。

月一度の日曜日に行う聖餐式は、宗教が後から作った儀式で、

過越の祭りを祝う事をしないで、この儀式を毎月しているのものです。種有りパンでは意味が無いものなのです。過越の祭り

種無しパンを食べる儀式だからです。

神の教えを変形させると、意味が見えなくなってしまう良い例だと思います。

 

トラーではこの種無しパンの7日間パン種を食してはならないと教えています。

そしてコミュニテイの中でもパン種が存在してはならないと

言いました。出エジプト13:7

パン種は罪のシンボルとしてこの時期教えられているものです。

1コリント5:7 パウロが話しているのはこの過越の祭りの時期の一連を通して話している事に気が付いて1コリントを読んでみて下さい。

 

単に家の中を掃除する、その事自体がフォーカスではなくて、

本当の目的は、パン種除去する事を通して一人一人の中にある

パン種が何かに気がつくこと、それらを完全に除去する決意をする事なのです。

出エジプトの中での”パン種”はある特定のシンボルとして教えているのです。

パンを発酵させる時に、パン種を入れて時間をかけてパン生地を

発酵させ膨らませます。

出エジプトした時は、パンを発酵させ膨らませる時間がありませんでした。だから種無しパンでした。出エジプト12:34。

 

この意味は、パン種=罪はエジプトに置き去りにし、神の贖いの業に参加する=ハメッツ=パン種が無い状態になると言う事を

意味しているものです。

神の贖いの業、罪のないものとした事実を皆で思い出す7日間

として聖別されてる1週間であり、種無しパン=マッツアを

実際に食べる事で思い出す、学習する事を神が教えているのです。マッツアは水と小麦粉だけで作るものです。要らないもの、不必要な不純物がない人にされた、子羊の血でその様に偽物の

縛りから贖い出された事を教えているものがマッツアなのです。

 

過越の前の日、今年は今日ですが、その日までに遅くても

日没前にはパン種が家の中から除去されている再確認をします。

ペサフを祝うとは、それぞれの人が自分自身がエジプトから神により贖い出された、引き出された事を自覚し思いだし頭脳に刻む

事をしなければ意味が無いものです。

 

出エジプト13:14将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。

親は代々、どの世代でもこの贖いの事実を子供達に教えなさいと

神から命じられているのです。

 

明日月曜日日没から火曜曜日日没はイスラエル以外の国は普段の日で、休日ではないです。

イスラエルでは祭の最初の日をシャバット=止まる日として休みます。そして祭の最後の日も曜日にかかわらず止まる日=シャバットとして祝います。

多いと合計3回その7日間、シャバットとして止まる日を祝います。

過越の回想は、一人一人の出エジプト、過越でもあります。

ここで、神の仰せ通り、”あなたがもし近づきたいなら”。

強制ではないのです。でも神の子らは呼び出されている。自覚のある人達は神の言葉を理解しているから、神の聖別された日を

世界のどこにいてもガードし祝っているのです。

 

悲しいことは、異邦人の世界では、神の創造された永遠に渡り

祝われる記念日を、廃れたと偽情報を伝えられて、今は異邦人には関係ない祭だよと教えられ教え続け、別の記念日を祝う事こそキリストを崇めるものだと勘違いしている事です。

 

それは神の前にどう様に映っているのか聖書の事実から考えてみたら良いことです。ヤラベアムが神の祭りを変えた事、内容を変えた事、エルサレムではない場所に神の祭壇を築き、レビ族ではない祭司を立てた事などで教えられています。1列王記12:28-

神が何を命じて、何を禁じているのか、聖書を学ばないで、

人の教えに聞き入ったら本当に神の伝える真理、真実は理解出来なくなってしまいます。

 

しかもアメリカではイースターの祝宴をパイナップルが乗った

大きなローストポークハムで祝う、これって神の祝宴の晩餐を祝うに相応しくない食べ物である事は神の言葉に戻らない限り全く気が付けないものです。

 

その祝いの中には、種無しパンの教えもない、イエシュアがされた4つの杯の意味もない、神が永遠に語り継いで教えよと言われた出エジプトの記録を回想することもない、イエシュアが弟子達と祝っていた過越の晩餐も何もない、種無しパンの7日間もない復活の日はあれど、それ以降の穂を数える7週間もない、

シャヴオートの祭の意味も聖霊初降臨祭などと違う名前、違う趣旨の祭りに変えられてしまっています。神の伝える真理を発見するには、聖書とは違う教えをされてしまっている事にまず気が付いてみる事が大事なのです。

 

続く