この動物は、過越の生贄としてイスラエルの神が屠る様に命じられたからです。”エジプト人に取って”羊”は神であり、神聖なる
動物を屠る?と聞いて怒り、歯ぎしりしたでしょう。
でも反論、抗議するために一言も発せられないかったはずです。
この1年近くに渡り、エジプトの地でイスラエルの神がされた
災いと奇跡とをエジプト人達全て体験したのです。
災いはイスラエルの子ら上には降りかからなかったのです。
エジプト人の上だけに降りかかった災いを、エジプト人は見て
触れて、体験してしまったから、イスラエルの神の仰せに対しては、エジプトの神聖なる動物=羊を屠れと命じても何も言い返せなかったのです。
そしてこの過越の前のシャバットを、”大いなるシャバット”
シャバット ハガドールとして10日の日に行われた事を思い出して記念しているのです。この時期は過越の中で行われる祭り
晩餐=出エジプトの出来事の一連をリハーサルしている時期でもあるからです。
聖霊に目が開かれた人達なら、この傷のない子羊の犠牲がイエシュアを表している事実に気が付くでしょう。イエシュアは最初から語られているのです。そして、この子羊は14日の日没前に屠られ、その血が鴨居に塗られました。血を家の鴨居に塗った人達の家は、”初子”の死を免れたのです。イエシュアが処刑されたのはいつですか?屠られた子羊、2000年前の過越の祭りの時
それが起きました。預言的祭り=過越の祭りである事に気が付きますか?
ユダヤ人の中では、この日から過越が来るまで出エジプトの記録を読み、回想する伝統があります。過越の祭りを迎えるリハーサルの様にするのです。そして、その中で”私達は奴隷であった”
=アヴァデイム ハイニュ、”私達の罪の贖い=レハパ アル コル アヴォノテイニュと考えるのです。彼らの理解の中にいつか究極の生贄=生ける神の子羊!と出エジプトの一連の出来事とイエシュアがぴったり繋がる時が来ます。神がそう言われたからです。
罪の奴隷=偽の王、神々の奴隷=偽の自己像の奴隷=この世の価値基準に生きる奴隷、様々な不必要な縄目に縛られていた状態から、それらの偽物に対する裁きで解放が神からもたらされるたのは、神が支払った命の代価=イエシュアの命の代価があるからです。
究極の代価=動物、イエシュアが地上に来られるまで見えない
天でこの世の礎え出来る前にすでに執行完了されている子羊の血の代価がある、それが地上でイエシュアが来られる前に表されていたのは、この子羊の血=影で天にある同じ贖いの実態を教えられているのです。
救い主=メシア=イエシュアを荒野の40年でもミシュカンを通して教えられたのです。それ以前に、トラー=婚姻契約=モーセの五書が文字で記される以前も、神の教えは同じ!口頭でそれらを預言者により伝達されたのです。預言者、ノアやアヴラハム、
そしてヨセフの様な存在を通して。ヘブル1:1−2
だから、アヴラハムの記録でも分かる通り、同じイエシュアを
遠い日に見て楽しみ喜んだとあります。アヴラハムが生まれる前から”わたしはある”と言う神の名前でも表されているのです。
それを理解した人、しない人の差があるだけです。
古代も現代も未来も同じなのです。
過去の人は見ずに信じる者は幸い、私達とて直接イエシュアに対面したわけではないけれど、神の言葉を通してイエシュアを
確信、確認して信じている。太古の人もイエシュアを神の言葉を
通して同じ様に確認、確信して内側に聖霊を受けていたのです。
何も変わらないのです。なぜなら贖いは1度、同じであり、救いの方法も1つしかないと神が人に伝えているからです。
前回の記事には、10の災いはエジプトの神々で代表されるこの世の神々への裁きである事を書きました。裁きとは悪い意味が
ある言葉に聞こえますが神の裁き、正義は、人に解放をもたらすものです。神の裁きが無いなら無法がはびこり続けてしまいます。解放されたいですよね。この世の悪が、我が国でも司法、警察その他など何の正義の効力も無くなっている、権威は腐敗し
やりたい放題、権威は裁かれないのか。でも人には必ず刈り取るべき結末があると言う事を忘れてはならないのです。
前回の記事で、エジプトの10の神々は何を代表するものなのか
付け足して置きました。![]()
9番目の災いは、闇。闇は光に勝てなかったと古代のユダヤ人が
読んだら必ずこのエジプトでの体感触れる事の出来る深い闇
3日間とは、最大限の強調を表す数字です。これは、光のない場所、状態=死、裁き、希望が無い、絶望、先へ進めない状態を
表すものです。異教の神々=太陽神の大元はこのエジプトのラーです。だから異教の神々のシンボルは、太陽神のマークが付いてるものが多いのです。太陽。よくよく考えて見れば見える事です。この世の闇=悪はこのシンボルを取り入れています。
頭の上にある輪っか、これは太陽神シンボルです。
エジプトの神=太陽神への裁きが9番目ですが、最後の裁き何でしょう。エジプトの王ファラオへの裁きです。これが初子の死。
ファラオは太陽神に勝る権威を示す存在です。つまり人間が神より上!と言う事を表すシンボルであるのがファラオです。
そのファラオへの裁きは初子の死です。人は本物神=イスラエルの神を超えられない!と言う事を教えるためです。
初子と言う意味を理解する必要があります。長子、イエシュアは長子です。家族の最初、力、ここから子孫がずっと繋がる、その
最初は、神の前に聖別されないとならない事が書いてあります。
動物でもそうです。
エジプトの王の子も打たれて死にました。悪魔=偽物の初子が
絶たれたと言う事です。死を生み出す生き方を断った事をこの事でも表しています。
イスラエルの子ら、そしてイスラエルと同様にイスラエルの神の言葉を信じた人達、神の仰せ通り自分の家の鴨居にエジプトの
神聖であるとされている子羊を屠ってその血を自宅の鴨居に塗った。その時点でそれらのエジプト人は同胞から白い目で見られたでしょうが、彼らはイスラエルの神の言葉の方を信じて実行した人達だったのです。そしてそのエジプトの異邦人もイスラエルと
共にエジプトを脱出するのです。すごい決意だと思います。
異邦人クリスチャンの世界では、イスラエルだけが出エジプトし
イスラエルだけにモーセの五書=トラーが与えられた!と勘違いしていますが、神の言葉は教えは丸ごとで1つです。神の教えは
分断や分解などされていません。イスラエルと共に住む異邦人も同じ教えと神が言われた言葉がはっきり記されています。福音書〜黙示録に記されているのは神の教えの完全版ではありません!それはタナック=モーセの五書、預言書、諸書の抜粋、タナックに記された短い注解にしか過ぎないからです。タナックと違う新しい教えなど1つも福音書以降には記されていません。
この様に書くと誤解されると思いますが、抜粋されたいる教えは神の言葉、教えの完全版ではないのです。元があって初めて福音書に記された短い抜粋記録が何か理解出来るのです。最初の部分タナックに全てが記されているので同じ教えを重複して全部書いていないのです。だから知らない間にモーセの五書に記された抜粋、部分的な神の教えをクリスチャンも生きていると言うこと。でも部分的な教えだけなので、全体が欠けているので、それだけは不十分なのです。
神の教えの全部、詳細、全貌がそこには全部記されていない、書いてないからです。イエシュアが解説された教えは、モーセの五書であると気が付きますか?山上の垂訓は申命記を解説していると気が付きますか?最初の部分を読まない、そしてモーセの五書が廃れて新しい教えをイエシュアやパウロがしている!などと言う非聖書的解説をされてそれを信じてしまえば、福音書以降はモーセの五書からの抜粋の教えであるなどと、最初が分からないので、理解など出来ないのです。最初が分からないと福音書以降で語られている事の事実が見えないのです。
だからマタイの冒頭の家系図を読んで、異邦人はそれらが何、
どこから来てるのか最初を知らないと意味が分からない、でも
最初を知るユダヤ人には分かるのです。
神の言葉は創世記から黙示録まで丸ごとで1つであり、特にモーセの五書に記されている事、これが聖書の完全版の教え、土台!モーセの五書の内容のみを残りの聖書全部が解説しているのですから、このトラー=婚姻契約書=モーセの五書に記された神の子らの生き方の全貌を知らないなら、欠けた知識で部分的なものを生きてしまうし、そして福音書以降に書かれた教えがモーセの五書を否定する教えだなどと勘違いしている時点で、神の言葉に対する理解が、違った方向、ずれた方向に行ってしまっているのです。
だから神がどの時代の神の子ら=聖徒達を神の記念日に呼び出しているその事実にさえ多くの人は気が付かないままでいるのです。自分には関係ない!と神の言葉=代々に祝われるわたしの記念日と神が言う言葉を遮る人の教えに耳を傾けているからです。
今日が週一度の神が聖別された日、シャバット、週一度の神の
命じられた記念日、神の子らを呼び出して一緒に祝う日であり、
過越は神の三大都上りの祭りの1つであるのに、そのことに関しても聖書を目の前に読みながら、気が付けない、正しく読み取ることがないから、関係ないと信じている場合、多くの異邦人クリスチャンたちはだから今神の記念日は祝いもしない、人間が作った教え、宗教が創作した記念日を祝っているだけなのです。
続く