救い贖いは永遠の中から存在している事実をイエシュアが語った | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉と、聖書に書いてあるのは、モーセの五書です。

そして、他の聖書箇所は全てモーセの五書の解説だからです。

詰まり、聖書に聖書とあれば、それはモーセの五書、預言書、

諸書のことのみを指して話しています。

 

聖書の中には、福音書〜黙示録を指して語っている箇所は1つもない!という事実があるのです。それは、どういう意味かと言うと、福音書〜黙示録が書かれている1世紀には、それらは聖書として誰からも認識されていないからです。

しかも書いている途中であり、書簡などに於いては、特定の個人グループに宛てて書かれた手紙であり、1世紀の時代には、福音書、使徒、黙示録などは、特定の人しか限られた人だけしか

読んでいない、誰もが知っていたものでない、聖書としては知られていないものだからです。

 

福音書以降が聖書として認められたのは、4〜5世紀です。

もちろん、福音書〜黙示録は聖霊により記されたものですが、
その中身は、100%全て聖書の土台、モーセの五書を指して
語り、モーセの五書を解説している、預言書、諸書に対する短い註解であるのです。福音書以降に新しい教えが出現していると言う神話は聖書の事実とは異なります。
そしてそれらは、最初の聖書、創世記〜マラキの記述にどの箇所にも反する事など書いてない、今まで聞いたこともない別の福音や新しい教えや、モーセの五書を否定して良いなどと言う教えなど記されていない事を知れば、神の言葉の永遠の真実=聖書が1つであり、別の教えなど無いことは見えてきます。
イエシュアの言葉からでも分かるのです。下矢印
 
ヨハネ3:10イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
 
イエシュアが語られた言葉に注目して下さい。この箇所は、
パリサイ派の教師、ユダヤ人にトラーを教えるリーダー格であったニコデモとイエシュアの”新しく生まれる”事に関しての対話です。福音の中心、イエシュアの贖いの業、イエシュアは地上に来られましたが、未だこの時処刑され復活されていませんよね!?
ここで語られている事は、人が聖霊を受ける事、生まれ変わる事は2000年前にイエシュアが復活して初めて実現した事ではない、永遠から用意されて存在している事実がモーセの五書には書かれている事をイエシュアがニコデモに話しているのです。
 
聖霊を内側に受ける事、贖いの事実を受け取る事、イエシュアの子羊の贖いの血でのみにより可能な事、これらがトラー=モーセの五書に記されている事実!が書いてあるからイエシュアがその事をニコデモに言及しているのです。
聖書〜タナック=モーセの五書、預言書、諸書に預言者が書いた意味を、体験的に理解し、あなたはトラー教師であるのに、知らないのか?と言うニコデモに対してのイエシュアからの問いです。どう言う意味だと思いますか?
”知る”と言う意味は、頭で知識として知るだけではなく、体験的に知っているという意味の言葉なのです。
 
詰まり、エデンの園から、最初から福音、贖い救いの方法は
1つしかないからです。時代ごと、人種ごとに別の種類の贖い、救い、赦しもないからです。イエシュアを通して以外誰も父の元に来ることはない事を、最初から教えているからなのです。
 
それはその永遠の中に屠られた子羊の血の贖いが用意され存在している事実を現実に地上で証明される以前でも、信仰により受け取る人は、誰でも聖霊を受けた!!!その事実がトラーには記されているからです。
そうすると2000年前に初めて救い贖いの事実が現実化して、使徒2章で初めて聖霊が人の内側に住まう事が始まった、初めて人に許しが与えられたという、異邦人の編み出した仮説は聖書とは異なる事が聖書の記述に照らし合わせれば明らかに分かります。
宗教の教え〜人の思想の解釈、解説は、神の言葉=イエシュアが語る事実とは異なると聖書を読めば理解出来ます。
 

まずは、シンプルに、見聞きして来た時代ごとに、人種別に変化する神の言葉、教えという思想=仮説に対して疑問に思う事が大事です。そして聖書に基づき考え始める事が必要なのです。

聖書は誤りのない神の言葉と神の言葉に同意しながら、同時に

神の永遠不変の言葉を否定し、破棄された、終了などと言うこの

大矛盾に先ず気がついたら良いのです。

まやかしと本物とは似て非なる違いがあるのです。

 

そして問題の本当の原因、根は、人が人間が思い付いた考えで神の教えや神の記念日を勝手に変えた事なのです。

それが聖書の最初から最後までずっと書かれているのです。

 

そして、人間が編み出した教えは、神に認められているから、

2000年近くの間、それら非聖書的教えや実践に対して、

神が無言である、大衆に支持されていると考えているのですが、聖書を読めば分かるのです。書いてあります。

何が神の語る真実、真理なのか!書かれているからです。

 

神は神の子らが迷わない様にはっきりと神の口から出た教えを

聖書として記しています。それが永遠の真実です。そして人に

伝えた永遠であると言う神の教えの内容を、人が無効、終了と

言っても神の側では、神の言葉を変えてなどいません。

神の創造した記念日はレビ記23章に全て記されていて、永遠に祝うわたしの記念日として教えているのです。

これが神の記念日の永遠に変わらない暦です。

 

人の生きる世界でも暦があり、会社が学校でも日程を表示するでしょう。それを、書いてあるのにその通りの意味ではないなどと

言う場合、それって完全に変だと分かるでしょう?

 

自分の誕生日が7月7日なのに、ある時期から、9月5日に

変わったなんてありないのです。又は、国の文化の中にある祭りや記念日は変えられます。それは自由。アジア圏では、1月1日を新年とは考えていません。旧正月と言う、陰暦で来る暦で、

毎年正月の日程が変わります。日本も以前陰暦の旧正月を祝っていたのですが、明治5年(1872年)11月9日に暦が新暦に切り替わり、旧正月を祝う事をやめ、1月1日を正月にしたのです。

それは人間の世界の事なので、それが文化に定着すれば、祝い日が変わるだけで、何も問題はないでしょう。

 

でも国や文化が記念日を変える様に、人間が神の創造された記念日を変えることは出来ないし、変えても神は永遠に神の創造された記念日が本物であることを変えないのです。

 

人は自分の考えで神の言葉の方を変える、曲げる、否定しているのです。

聖書=神の言葉に対して人間がそのような事をしていても、気が付かないのです。

それが正義、新しい教えと教えられているからです。

これから過越の祭りが来るのでそのことを考えて行きたいと

思います。イエシュアが祝い、人に代々永遠に祝う様に教えていたのは、西洋人が考えた教えや記念日ではありません。

聖書父の言葉=トラーに記された教え、記念日を教え、生きた

のです。

真実であると神が言う通りを個人個人が信じて生きるか、信じないかそれだけが問題なのです。人がどう信じようと、考えようと、神が伝える永遠の真実は人の思想により変化しません。

人の考えで神の教えが変わるなら、それらは信じるに値しない、

人間至上主義、人間が神になり変わる人の思想、宗教はイスラエルの神から出たものではないからです。

 

エデンの園で、神から”ラ(神の意図から外れたこと)知識と訳されていますが、ラの実を食べたら死ぬ!”とアダムとハヴァは

言われていたのに、神の言葉に対して嘘を語る声で、神の言った事を疑い、神はそんな事言ってないかも〜と思わされて、

まんまと蛇の作戦通りに行動して騙されたのです。

その事が全人類に死がに陥れ、神から切り離された問題の根で

あるのです。神の言葉を曲げて、無視した!神がダメ!と言われるのにそれを食べた!今も同じ事を繰り返しているのです。

 

全ての問題の根はシンプル!神の言う事にどの言葉でもどんな度合いでも、疑いを持つこと。

神の言う事とは何か違う事をしなくてはならないと思わされる

こと!その結果神の言葉に真っ向から反対すること!

神の言葉を退けて、違う事をする、している、それでも神の言葉が終了したと思い込まされている場合には、神に反した事をしているなどと、夢にもつゆにも思わない事が起きるのです。

 

人が語る偽情報、嘘に照らし合わせたら、神が語る真実は見えなくなるのです。

神が語る真実があり、その真理に照らし合わせて、嘘かまことか確認するのです。嘘に照らし合わせても真実は見えないからです。

世界は、いやイエシュアを信じると言う人の中にも、多くの人が

神の言葉を退けていても気が付かないままであると言うシンプルで深い闇、問題が潜んでいるのです。

 

宗教の教えと、純粋な神の言葉には、違いがあります。

 

本質がズレているので、何かに駆り立てられる様な、神の意図とは違う思考回路、行動になってしまう事です。

これは、人の教えから抜け出して、神の語る言葉を聞いて考えて行くと初めて見えてくるものです。

 

宗教の教えを生きさせられると、ノルマを感じます。

何何していないと神の前に足りていない、いや、ある時はそれが生き甲斐になるので、見えなくなるのです。エデンの園のアダムとハヴァが引っかかった罠と同じ本質です。

何か足りないと思わせる。

しかも、誰かの考えで編み出された活動で、普通に生活出来なくなる場合もあります。

言葉で誰かに何かを伝える必要はありますが、飛び込み営業みたいに、知らない人を捕まえて何かを語ると言うのは、よっぽど

そのような状況を神が与えていると言う確信がない限りやらない方が安全です。変な人と思われるのがオチだからです。

 

私達の生きる全ては、私達の中にイエシュアが居る!私達は聖霊の宮であり、天に属する祭司であり、人はその見えないイエシュアの実質を私達が普通に生きる中で、見ているのです。

その事を忘れずに!と言う教えは、最初から教えられています。

戸口に付けるメズサですが、その中には、聖句を入れます。

イスラエルでは、申命記6:4–9, 11:13–21などの聖句を入れています。

詰まり、家の中から外に出る時に、戸口のメズザを見るたびに

神の宮である事を忘れない、私達は土の器に聖霊〜生ける水を

たたえて運ぶ存在であり、どこに居ても、何をしていても、神の子として神の言葉に根付いて考え、行動し、生きる!と言う

リマインダー=思い起こさせる印を神が与えているのです。

口で伝える前に、日々の生活の上でのしっかり神の子らしく生きる方がよっぽどインパクトがあります。

 

世間で言われるカルトもそうですが、似た様な現状に陥っているクリスチャンも多くいるのです。

自分の生活、家庭生活、社会の生活をしっかり神の言葉に根付いて生きるより、違う事をする、する様に教えられてしまう、他の不必要な活動にエネルギーを削がれる様に駆り立てられる。

でもそれが神に仕える事であると言われれば、それをしていなければ不安に駆られてしまうのです。

 

聖書にそんな事書いていない、皆普通に生活して、生活の中で

家庭で、神の言葉に根付いて生きるように教えられている。

それが古代の生活だったのです。

 

誰かに救い主を伝えたい。人は皆、神の似姿に造られたとある通り、DNAの中に神と繋がる願望〜それが人の本来の在り方だからそれを求めるものですが、それが何か分からないから代替えを

求めて、別の宗教に引っ掛かって、閉じ込められたままになって

しまっているのです。

 

救い主を伝えるとは、イエシュアがどんなお方であるのか

聖書に記されている本当のイエシュア像、昨日も今日も永遠に変わらない!と言う事実を伝える事です。

変化する神、変化する神の言葉は、イスラエルの神の事実ではありませんから、本当にその様な人間が編み出した教えを捨てないと、偽物のイエシュア像を伝えてしまうのです。

 

人が神に造られて、神の中、エデンから飛び出して今に至る事、

本来の姿を生きられない状態、エジプトに奴隷として閉じ込められている事。

イエシュア自らが、私達の元に来られた事。これは2000年前に初めて起きた事ではない、最初の最初から神の方から私達の方

へ近づいて、贖い救いを与えていた事実を聖書から語らないとならないのです。

半分偽物、半分本当ではなく、本物のイスラエルの神像を、聖書に記された通りを知り、正しく人に伝える責任を神の子らは課せられているからです。