主の呼び出し日 記念日の暦は永遠に変わらない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

永遠の中から、この世界の礎が創造される以前から、主は全ての創造を神ご自身の中に存在されていたと書かれています。

 

不思議な事です。でもこの世の礎が造られる前から屠られて完了している”贖いの業”、”子羊イエシュアの血、贖い、救いの事実”が存在している事が教えられていて、そして同様に、この世の礎が造られる前から、私達は永遠の中に神に選ばれ、そして人の生きる齢、生きる日は数えられていると書かれています。

 

西洋人発想の思想は、ヘブライ思索、永遠から考える、永遠から同じ、神の言葉は1つであり同じで全て繋がって矛盾する箇所は1つもないと言う理解が完全に抜けていて、無いのです。

それが西洋哲学思想の性質であり、聖書のヘブライ思想とは異なる、異教徒の発想の思想なのです。

 

1つ、エハッド=一つ以上で完全に1つと言う概念がない、

いや父、子、聖霊の神と言いながら、それらが全く1つで1体であると言う事が見えない、バラバラ別物の。

 

だから、聖霊=イエシュア=言葉と書かれてあっても、その事実が見えてないから、神の言葉が変化するなどと言う神の伝える事実と真っ向から反する教えを異邦人が編み出したのです。

聖書は聖霊により書かれている。詰まり神ご自身の実態そのものであると言う思索が異邦人異教徒の中にはないからです。

もし神の言葉が聖書の中で互いに敵対するなら、それは聖霊が

聖霊に敵対すると言うあり得ない矛盾を異邦人は語っていても

その矛盾にまるで気が付けないのです。

神が語る真理に照らし合わせて考える事をしないからです。

神の言葉により世界が造られたなどと、異教徒は理解しないからです。言葉=神の実態です。

 

だから、イエシュアが永遠の中に存在し、どの時代の人にも

イエシュアが現れ出て、神=聖霊=イエシュアは一体である、

イエシュアを通して以外誰も父の元に来る事が出来ないと言う

現実が、2000年前イエシュアが処刑されて初めて可能となって新しい”キリストの教え”が出てきたなどと考えてしまうのです。最初から同じ!エデンの園から同じなのです。

 

神=言葉とある意味を理解していない、そして神が怒りの神から恵みの神に変身したと言う異邦人異教徒思想は、完全に聖書とは異なる人間の肉の目から見た思想なのに、それが聖書であると

異邦人思想を通して語る教えが聖書であるなどと、異邦人は教え込まれて来てしまったのです。パウロ達の様に正しく神の言葉を理解し教える教師を2世紀以降捨てて、決裂し新しい宗教の教えに移行したからです。だから、今まで翻訳聖書だけを読み、人の思想を土台に語る教えしか聞かれないのはそれが理由です。

 

ユダヤ人の世界では、世界のどこにいてもヘブライ語で書かれた

タナック〜モーセの五書、預言書、諸書を学ぶからです。

 

普通の世界で、外国語を教える人がその言語を知らないなどない

大学でフランス文学、イタリア文学、日本文学を教えるならば、その言語に精通し深い理解がある人が教鞭を取っているのです。

数学を教えるのに、九九しか知らないなどと言う事は、一般の

教育の世界ではないのです。

教師がいないと言うことが大問題であるのです。

 

神の人格や言葉が時代や人種により変化する神とは、聖書に記されたイスラエルの神ではなく、異教徒が考えついた人の思想と

言う添加物、異物が混入している教えから出た空想のイスラエルの神像なのです。神が語る神像ではなく、誰かが考えたイスラエルの神像を聞かされているのです。変化する神、変化する神の言葉。それは全部嘘なのです。誰がどの様に主張しようとも、神は神の言葉を証拠として文字として残しているから、分かるのです。

最初から、誤解した前提で聖書やイスラエルの神〜イエシュアを考えると、真実が見えなくなってしまいます。ある部分は真実

ある部分は偽物と言う混ぜ物の教えの警告が最初からされています。

最初の警告は、エデンの園から同じです。神の言われた通りを

ガードして治める事です。10の言葉の冒頭に書かれている神の口から直接語られた言葉は、これです。下矢印

”あなたのために、私の顔の上に別の顔を置いてはならない。”

ヘブライ語を直訳するとこの様に書かれています。

 

顔とは実態を表すものです。神の実態を覆い隠す別の顔=別の教え、人間の教えで、神の言葉の事実を覆って別物の教えにすり替えるなかれ!

この警告を無視するのが、神の言葉に人が手を加えて別物に変形させている人が編み出した教えです。

 

神が人に伝えている多くの事は、摩訶不思議、人の理解を超えています。その時に矛盾した事に聞こえる内容は、実は人の側で理解出来ないだけで、神の語る真実が矛盾しているのではない事を知っておく必要があります。

 

人は、自分の頭脳で理解出来ない事、受け入れられない事に関して、神の言葉の方を曲げ続けて来たのです。

自分の悟りに頼るなと神が警告されているのは、私達が神の言う

事を退けて、神の教えではない人間が考えついた教えに騙されて

本来の生き方を失わないためにそう警告されているのです。

 

エジプト記20章の10の言葉は、神から与えられた人への生き方が記されている、聖なる民の生き方が文字になり、そして神との関係に入った証拠として与えられたブリット〜婚姻契約書の

題目が先ず最初に与えられたものです。

 

神の教えは、エデンの園の最初から同じです。違うのは、神の

言葉は最初、口頭で直接人に伝えられて来た事です。預言者を通して、様々な方法で語り継がれた同じ神の言葉、同じ福音です。

そして、それが実際に文字として初めて記されたのは、シナイ山であり、それ以降神の言葉が文字として永遠の証拠として記されたそれが違うだけです。

読めば分かりますが、エジプトのファラオにモーセが懇願したのは、荒野に行ってイスラエルの神の祭りをさせてくれ!と言う事です。詰まり、最初から同じ神の教え、同じ記念日があり、イスラエルの残りの民は知っていたからです。

 

これから4月22日、月曜日の日没が過ぎ越しの祭り、その日から7日間が種無しパンを食べる日、その真ん中に、復活の命を

表す、大地から新しい命が芽生える”初穂”を祝う日があるのです。

イエシュアが戻られたら、異邦人は、日曜日、クリスマス、

イースターを祝い、ユダヤ人だけ、神の記念日、レビ記11章に記された、シャバットや、過ぎ越し、シャヴオート、仮庵の祭りを祝うとでも考えているのでしょうか?

 

そんな分裂した家族の教えは聖書には記されていません。

1つに戻る!1つ神に、1つ同じ生き方、1つ記念日を祝う。

世界は、イエシュアが戻られたらどの民族も皆、神の記念日を

祝うことに戻る!と預言が書いてあるのです。ぜカリヤ14章。

 

聖書の最初に、全ての記念日の中心である、シャバット、第七日目が記されています。この日だけが唯一、週の7日間のうちで

特別な名が与えられています。

主の日とは、神が聖別されたレビ記11章の記念日の事であり、

その他主の日とは神が歴史の中で特別な事をされる日を指して

語っているのであれ、日曜日=主の日と言う異邦人が考えついた教えは聖書には記されていないのです。

 

そしてこの第七日目だけが、週の中で唯一神により聖別された日であり、神が神の子らを呼び出して祝う様に伝えている日です。

これは例え人間が別の日に変えてもそれは神の前には何の意味もない、別の日は神が創造され皆で祝う様に呼び出している安息日でもないのです。

なぜなら、神は週の他の日を聖別していない、1〜6日は普通の日と書いてあるからです。

1900年近く、人が神の言葉を曲げても、それは間違いであるなどと、何か耳元に囁いたりしませんね。ズレたことをしても、ガツンとお仕置きも飛んで来ませんが、それは神が忍耐深いお方であり、怒りの神ではないからです。

神は人にどの様に語りかけられていると言っていますか?

聖霊が記した神の言葉、神の実態である神の言葉を通して語ると神が言われているのです。そこに神の深い考えが記されているからです。だから神の言葉を取って食べよ!と人に教えているのです。

神の言葉は永遠に揺るがない証拠であるのです。肉の耳に音声で聞こえなくても、神の言葉で記された証拠があります。その言葉から神がクリアーに今日の語っている事を理解する人には、神が何を人に伝えているのか知る事が出来るのです。そして神の言葉をしっかり握り生きよ!と神が言うのは、それが人の身を守る

鎧兜、要塞だからです。

人が神の言葉を変えて、否定し、終了、破棄などと言っても

証拠として神が与えて下さった神の言葉に事実が記されています。

神が”永遠に代々祝われるわたしの記念日”と言われ、ユダヤ人だけで異邦人には関係のない記念日などと言いませんでした。

イエシュアはユダヤ人ですから、当然イエシュアに属する人々はイエシュア=ユダヤ=イェフダの神の記念日を祝うことに招かれているのです。

神が永遠と言われたのに、どうして2000年前に神の言葉が

変わった変化した、終了したと考えるのか?もし神が神の言葉を変化させたらそれは、神が嘘つきと言う事になる事に気が付いていますか?神が一度永遠と言われたら、その内容は永遠に変化しないと言う理解が無い場合には、どの様にでも神の言葉を変化させても違和感がなくなります。

なぜなら、変化する神、変化する神の言葉が真実であると、疑いもなく、信じ込んでいるからです。

しかも、聖書を教える人達がこぞって人の思想に飛び付いて、

聖書に書かれている意味を正しく捉えず、人の考えついた思想に

基づく註解ばかりを学んで、それを一般の人に教え続けているのですから、偽情報の流出を止める方法はないのです。

 

でも、一方聖書にだけ戻り考え始める人には、聖霊が記された

神の言葉を聖霊が正しく教えて下さるのです。しかも1世紀当時の彼らイスラエル、又は当時の異教の国の諸外国での事情や、

慣わし、そして、使われている言葉の意味を理解しないまま、

現在の自分の文化の、人の教えを通して聖書を解釈しようとする無理がたたり、特に福音書以降、パウロの書簡に書かれている

意味、内容をことごとく誤解した解説のみが異邦人の世界では

語られるのですから、聞いている人にとれば、それが聖書だと思い込むのは仕方がないことなのです。教師に教えられればそれが

正しいと思い込んでしまうのです。

でも、神ご自身が神の伝えている真実を人に明かしたいと誰よりも切望している事も事実なのです。

 

1テモテ1:7トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。

 

この様な警告があるのは、神の言葉〜トラーを教える人が、神の言葉を理解しないで、自分の主張していることが、聖書ではないと言うことも理解してないと言う警告なのです。

 

大体、どうして神の言葉を否定する事が神が伝える義であるなどと言う、とんでもない嘘まやかしを信じられるのか、その方が

不思議であり、同時に最初からまやかしを教えられてしまったら

雛鳥の刷り込み、インプリンテイングと同じで、布で作ったものが親鳥と信じて疑わず着いて行くのと全く同じ現象なのです。

 

最初の警告は、騙されるな!神の言葉を疑い、別の声を聞いて

騙されるな!それがずっと聖書に記されています。

騙しの連続が書かれています。そして騙され、自分が壊れ、人間関係が壊れ、家族が壊れる。神のデザインを破壊するもの、

それは神の似姿に造られた人を破壊するもの、人間関係、人の生きる本当のデザインを破壊する行為です。世界は壊れて、男女に造られた人がそうではなくなる別の生き方をする。関係が壊れて、神のデザインを生きる事を教えられず、壊れ続けて行く。

その修復を神の子らに託されているのです。

それなのに、神の子らが神の言葉を破壊しているから、何をどうして良いのか分からないままになるのです。神が伝える言葉=

真理を否定するから何が本当か分からなくなってしまうのです。

 

神が言われたからその通りにする!分からなくてもやってるうちに分かる様になるから。

シャバットは人が理解、考える以上に重要であり、神が伝える通りに、死に匹敵する損害があると言われた通りなのです。

修復の鍵は神が言われた通り、シャバットはその中心であり、

人を回復するためにある事は、その実態を生きる時にだけ初めて

発見する事が出来るものです。

 

Shabbat Shalom