神と共に集めるものの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

悪霊とか悪と言う言葉がありますが、これらは何でしょう?
 
全て神、そして神の言葉に対して敵対する事、敵対する行動を
する存在の事を聖書では解説しているのです。
 
神が悪魔を最初から創造したのではないのです。
神は全てを良いトヴに造られたのに、人が理屈を付けてそれぞれの方向に散って行ったとある通りです。
全て神の意図通りに造られたこの世界の中に、神の本来のデザイン、神が伝える通りを生きる事にどの部分にでも反対する全てのもの、それが歪みであり悪なのです。
 
神に敵対するもの、それが”サタン”と言う言葉の定義なのです。
神に敵対する思想、そしてそれを行動することそれが”悪”なのです。
それは神のどんな教えに対しても同じです。なぜなら聖書に書かれている神の教えは、神が創造された本来の人間の生き方が書かれているものであり、宗教が書かれているのではないからです。
 
そして、神の教えは人間が生きる全部の側面を網羅するものです。
衣食住含め、夫婦、家族、コミュニテイ全体での関わり生き方、その中にはルールや司法、賠償の仕方や人との和解の仕方、もちろん神の前に出て神と和解し癒される事も書かれています。
 
戦争の仕方、軍の作り方、徴兵制度や、家の建て方、動物に対するケアに至るまで、人間が生きる全ての側面を網羅する内容、
人間が生きる全てに至る事が書かれています。
そしてモーセの五書には罪の定義、聖別の定義の全ての詳細が書かれています。だから、モーセの五書が廃れたと言うことを信じ神の言葉、教えを蔑ろにするならば、神が今も伝える罪=ズレが何かが分からない、神が伝える聖別、神の宮である人の生き方が分からない、理解出来ないことになります。
 
そして聖別の意味もモーセの五書を理解しないなら、それぞれ自ら決めた聖別を生きるだけになるのです。聖なる宮でありながら
それとはズレた生き方をしていても、まったく気がつくことが
出来ないのは、神の真理を捨てているからです。
真理を捨てれば、神の教えではない事が嘘である、偽りである事に気が付けないからです。なぜなら真理に照らし合わせる以外、
嘘偽りは識別、区別、見分けられないからです。
聖別とは、神の目的通りに分たれる事であり、聖ではないものの生き方との区別を教えているものだからです。
 
だから異教徒異邦人背景で先祖代々その様な思考回路を継承し続けている場合には、神が教える事柄が理解出来ないのでピンと
こないのです。それが何?て感じ位にしか受け止められないのです。でも神の教えは不思議で、神が伝える通りをとにかく受け入れて生きてみると、神がどの様な深い意図がありそれぞれの教えを伝えているのか理解出来る様になっているのです。
 
クリスチャンの世界で、終わったとされている教えは、道徳以外のほぼ全てと主張しています。それでは、神の宮〜神の子らの聖別された生き方など分からなくなるのは当然です。
しかも、道徳的、民法、儀式的などと神の教えを仕分ける事が
出来ないものである事に気が付いていないのです。
体が体のどの部分をも切り離して存在出来ないのと同じです。
なぜ、神の創造された聖別された記念日を蔑ろにする事が死に
匹敵すると神が教えているのですか?道徳的な事と全く関係ないのに。
神の教えは全部繋がっていて、分別出来ない性質なのです。人は神の言葉だけで造られいるのです。体のどの部分も同じ一つの体として存在しているのと全く同じです。全部揃って完全〜シャローム、それらが神の創造された人間の生き方だからです。
 
神がこの世界を創造されました。神が伝える通りに人はこの世界を治める事、それが本当の礼拝の実態なのです。
礼拝とは神に向かって歌ったり踊ったりする事が礼拝では無いのです。それは神に対しての表現の一つであり、礼拝とは、生きる全て、それが神に対しての礼拝=アヴォダと書いてあるのです。
それは創世記の最初から、教えられ書かれています。
 
創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、
これを耕させ、これを守らせられた。
耕す〜これがヘブライ語で”アヴォダ”、礼拝と訳されている言葉
です。耕す。神の創造されたエデン=喜びの園を生きる。
そして、守らせる〜ガードする。”シャマ”と言うヘブライ語で、
治める、ガードする、守る。この言葉は、”聞く”と言う言葉と同じ
語源です。神の言う通りを聞いて、神の意図通りにこの世界を治める事が人間の生きかた=礼拝の根本であり、人は神の創造されたデザイン通りを生きる全ては神の前の礼拝=耕す=アヴォダ
なのです。
 
神が伝える様に世界を治める事。それは衣食住全部含まれているのです。神が人に伝える食の教え、生きる基本中心。エデンの園の最初に書かれている、人間の生き方。人は食してはならないものを食して死を招いた様に、食してはならない動物を食して、
この地上の環境に疫病の元のウイルスを排出し環境を破壊しましたし、今もし続けています。
 
食を通して神の宮である人の聖別を神が人に教えているのに、
異邦人は異教徒と同じ様に生きて神の伝える聖別が分からなくなっているのです。神が伝える悍ましい行為、最も忌み嫌うと言われている行動が何かも分からなくなっているのは、神の教えを捨てているからです。
エデンの園の出来事はもう関係ないなどと思っているからです。
2000年前に全てが変化したと言う、聖書とは異なる思想を
信じているから、神の教えなど今は無関係などと考える事が
出来るのです。
もしも、神の言葉に対する正しい理解と実践があるならば、神の言葉が永遠普遍である事実を知っているならば、神の教えは全て同じであり、どの箇所も変化しないから、神の言う事に立って
生きるのが、人間の生き方であり、安全である鎧兜、要塞である
事を神から教えられている事が理解出来るはずです。
実際に神が人間が食するために造られていない動物、清掃動物は
人の体に害であり、臓器や細胞を痛め、他者へもウイルスを撒いて、人を病気で苦しめる事に陥れるものであり、何も良いこと
などない。口には甘く腹には苦いとある通りのものだからです。
 
肉体的、物理的、霊的は一体なのです。イエシュアが汚れた動物を食する、人に食しても良いなどと教える訳が永遠にあり得ないのは神の言葉でクリアーに記されているからです。
神の宮にはどの様なものを取り入れるか、どの様なものを取り入れないのか、それを神が教えているからです。その基準は永遠に変わらないのです。人が神の伝える言葉=真理=基準を捨てるから、何が本当か何が嘘か分からなくなり迷い出ているのです。
それらは聖別を汚すこと、環境汚染、ウイルスを環境にばら撒く行為だからです。人は神の言葉を捨てて、神の創造された世界と
人とを破壊して行っているのです。それが神から離れた人類歴史の代償なのです。
難しくないのに、人は神の教えを複雑化しているのです。
神が男と女にデザインされ創造されているのに、人が食規定と同じく、教皇と同じく、今は神の言葉ではなく、世間大衆に受け入れられる事に沿って行こう!これをクリスチャンのリーダーもしているのです。食規定破棄も、ジェンダーフリーも同じです。
どちらも、神の言う事を否定し、人間の考え、判断で決めれば
良いと教え続けているからです。
神の言葉に基づき、聖霊の声に神の言葉を通して素直に耳を傾ければ、必ず真理を聖霊が明かして下さいます。
真理=神の言葉が絶対であり、永遠に変わらない!だから聖書に書いてある神の言葉が永遠に信頼に値する、真理であり、それを生きよ!と神が今も教えている事が分かるのです。
 
神の言う事をどうして聞くのが嫌なのか?それは神の教えに反抗したい力がエデンの園の中から、常に働いているからです。
サタンは確実に人を嘘に導き神が伝えていない神の忌み嫌う行動を人々にさせようとしています。
今の世界を見ても分かるでしょう。クリスチャンでさえ、性別は
自分が選べる、偏見を持つ事は悪いことなどと言い、真理が何か
神の言葉に立つ事を忘れて世の中の悪に流されて行っているのです。神の言葉を捨てる代償とはこの様なものなのです。
 
神の教えのどの箇所も尊重しない態度は、サタンのプランに
引っ張られて行く危険が潜んでいるからです。
考えれば分かります。食べることくらい?と思うでしょう?
それが死を招いたと書いてあります。食べることくらい?
いいえ、問題の本当の根は、簡単である神の教え、言葉を否定する事!それが諸悪の根源だと気が付かない盲目が危険なのです。
 
何がそんなに難しいのでしょう?ダメ!と言われたらやらない!
しなさいと言われたらする!至極シンプルなのに人はそれぞれの理屈を見つけて神が言う事とは違う事をしたがる、それが罪の本当の根であるのです。
コヘレトの書7:29 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけで
ある。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、
人は多くの計略を考え出した事である。
 
神の教えは全て”生きる”事を通して学習し身につけて習得して
行くものです。実際に私達が生きる世界も同じでしょう。
親や教師に教えられた事を、子供が学びそれを実際に実践して
それらの内容を更に深く理解し学習し身に付ける。スポーツでも芸術、音楽、料理、家事、その他どんな分野に於いても、学習した事を実践する人が、その技術や中身を習得して行く事でも分かるでしょう?聞いただけで、やらない、実践しない、練習しない場合には、机上の空論で分からない身に付かないそれとまったく同じです。
 
神の言葉を生きない人には見えない、理解出来ないものです。
よくクリスチャンが食べた事のない食べ物の味は分からないと
形容する様に、神が言われたことを生きる時にのみ、実践〜生きる事の中で神は直接教えるので、それを理解出来るのです。単純です。
学校で何かを教えられ、それを実際に実習して行くと理解習得出来る事と同じなのです。
本当に人間の考え、教えで作った宗教と言う思想を捨てて、神が言われたことは絶対であり私達に重要な事を教えていると理解すれば良いのです。それが私達の命を守るものだからです。
敵から身を守る鎧兜と同じです。
クリスチャンの世界の暦では、3月31日を復活際=イースター
これは異教の女神の名前の祭りですが、神の教え、聖書の暦では
春の最初の祭りは、第一の月の15日なのです。
だから、今年は4月22日月曜日の日没から過越の祭り、種無しパンを食べる7日間、そして復活=新しい命を祝う”初穂の日”の祝いが種無しパンを食べる7日間の真ん中に来るのです。
 
復活の事実は聖書の最初から教えられている事実であり、復活の命の事実は、2000年前に初めて教えられ、初めて復活の記念日が出てきたのでは無い事をクリスチャンは知らないと思います。
神が永遠の中から創造された神の記念日=召集日=聖なる集会の
記念日の中に、イエシュアの復活の命を教える記念日が最初から
創造されて存在しているのです!
異邦人の世界では、神のデザインされた、神ご自身が神の子らを
呼び出している記念日、召集日を祝う事を2世紀以降徐々に離れさせられて、やめて行き、ローマ帝国が彼らの思想の教えを混ぜた新しい宗教を作った5世紀以降、オリジナルの神の言葉や記念日を祝う事を禁じた勅令を出したので、異邦人は新しい宗教の方へ、流れて、完全にユダヤ人信者達と袂を分けた、それが歴史の事実なのです。
 
人がたとえ神の言葉は終了、記念日も終了と主張しても神には
それら人間が主張する教えなど何も影響されない、何の関係も
ありません。人が主張するから、神の言葉が変化するのではないからです。創造主であるイスラエルの神は、神の言葉、教え、
記念日を神は人間の考えに沿って別物になど変えていないからです。聖書を読んでみれば分かります。
神は誠実、真実であり、人が主張する様に歴史の途中で神の言葉、教え、記念日を変更などしていないことが聖書に書かれた真実、真理です。神の言葉を否定する教えこそが嘘、偽り、聖書に矛盾する異端的教えなのです。
最初の嘘、騙しは、神の言葉を疑わせる蛇の作戦であったのです。