永遠の現実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2つ別の教え、2つ別の群と言う隔たりを作り出す分裂思想は、聖書の真理とは完全にかけ離れた思想である事は、聖書を読んでいれば分かる事実です。
なぜなら、創造主の壮大な修復の計画は、最後は1つ神の元に
すべての人が1つになる事、そして元々のデザイン、一体として
戻る、エデンから出てエデンに戻るが最終修復のゴールだからです。
一体と言う事実自体、2つ、別、分裂、亀裂とは異なる事であると先ず理解すれば見えます。しかも分裂は、本来の神のデザインとは異なるものですから、人が人との隔たりや距離を体験すると
それは本来の姿の破壊なので、悲しみや疎外感、寂しさや不満を感じるのです。そして神のデザイン通りに人の本来の姿を生きて体験する時に人は喜び、満足を感じるからです。
 
分断とは、イスラエルと異邦人は別の群れ、グループ、2つ異なる生き方をする別々の家族だと言う思想、そして、イスラエルと異邦人に対して、神は時代ごとに別の教えや別の契約を与えていると言う思想、そしてイスラエルと異邦人は、時代別に、人種別により異なる別の記念日を祝うなどと言い、ユダヤ人だけが祝う記念日、祭りなどと異邦人が聖書に記された事とは異なる事を
言う、そう言う教えが分裂、隔たりを生む教えなのです。
 
2000年以降、初めて復活の命、聖霊を受け取る事が実現して
人が初めて許しや救いや、聖霊を内側に受けて生きる新しい時代が始まったと想像し、考えているから見えないのです。
 
聖書は何を教えていますか?神の言葉により伝えられている、
エデンの園の最初からイエシュアが共に住まわれる事、イエシュアの贖いの血により神との関係が再度修復され繋がれ、聖霊が
信じる人の内側に住まわれる事、人が神との関係に戻る!と言う事で与えれていた事が書かれているのです。
最初から最後まで聖書のテーマ、福音の中核、神の教えは全て
同じです!どの時代も。あなたが、私が救われた事と全く同じ、アダムやハヴァ、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、預言者、モルデガイや、エステル、ルツやナオミ、シメオン、バプテスマのヨハネ、それぞれの時代の残りの民が贖い救いの事実を得た事は、同じ聖霊、同じイエシュアにそれぞれ出会い、同じ救い贖いを受けていた事実が聖書のページの至る所に書かれている事に気が付いて聖書を読んでいますか?
イエシュアを通して以外、誰も父の元に来ることが出来ない!
道は1つ。それはエデンの最初から同じ!他の方法がないから。
2000年前に初めて別の方法の救いや贖いが現れて、キリスト教と言う宗教が現れたなどと考えているから見えて来ないのです。聖書にはユダヤ教もキリスト教も記されていません。
聖書には人の思想や発想や考えが混じらない純粋な神の言葉が
記されています。宗教〜イズムは、神の言葉や教えの中に神の教えではない人の思想や考えが混じっているもの、それが宗教なのです。だからそれぞれのグループにより聖書とは異なる思想が語られているのは、それは神の教えではないからです。
 
真理から離れる事、イコールその裏にはサタンのプランである
分裂が潜んでいるのです。それがサタン、神に敵対するものの
最初からのプランだからです。だから、嘘を信じて行動したら
アダムとハヴァは本来完璧に神の似姿に造られた素晴らしい欠けの無い存在だったのに、嘘を食べたら最初に起きたのは、本来の
姿、状態から飛び出してズレた事が書かれています。
 
お互いの関係の中になかったズレが生じた。
相手の本当の性質姿が分からない、見えなくなる。相手に対して神が見る通りに見れなくなる。偏見、憶測で相手を決めつける。
誤解する。なじる、批判する、責任転嫁する、恥じる、隠れる。
今まで存在しない、別の要素が自分と相手との関係の中に入り込んでしまった事が書かれています。
 
神の救い、贖いの事実、神の性質に造られた人が、朽ちる体で
地上で生きている時、天に行く前に既にイエシュアが共に人の中にどの時代にも聖霊=神=イエシュアは共に住まわる事実、
修復、回復の事実がトラーには記されているのです。
現代の人々より、創世記〜黙示録を記した時代の残りの民の方が
よっぽど神の現実を体験し、神に対して正しい理解をしていた、神との深い関係にあった事が書かれているのです。
 
イエシュアが地上に生まれる以前に、既に人々が直接イエシュアに出会っている事も何度も書かれています。ミシュカン〜移動式神殿こそ、イエシュアと私たちの1体に住まう現実を教えているそのものです。現に荒野のイスラエルと少数の異邦人の40年の旅路の間、神の臨在は目に見える形で、神は人々と共にあり、
そして神がミシュカンの至聖所の入り口で直接語りかけ話し合うと言うすごい事もであったのです。
しかも、マナがシャバットの日以外、毎日天から降ってくると言う不思議、奇跡を体験し、洋服やサンダルも擦り切れなかった。
マナとは、”あれな〜に?”と言うヘブライ語から来たもので、誰も空から食べ物が降って来る、天から降ったマナを体験した事がないからです。私達の中で、天から降るマナを見て食べた人なんて一人もいないでしょう。彼らの方がよっぽどすごい神との遭遇の体験を日々して来たのです。
 
イエシュアは肉体を取って来られた、言葉=トラーが人の間に
現実に住み、そして処刑され復活した事が地上で起きたのは
2000年前です。でもそれらの福音の事実、イエシュアの業は
永遠の中に完結し、完了し、存在していると言う事実がモーセの五書に書かれて、イスラエルはその事実を教えられ続けて来た事その語り継がれた同じ福音の事実を、目に見えないものを見るが如く信じて受け取る幸な残りの民達が存在し続けて今に至る事が聖書に書いてあるのです。
私達もこの世の礎が出来る前から神の中に選ばれていた、そして
同様にイエシュア、贖いの子羊は、永遠の中に屠られていた!と
ある事実を信仰により受け取り理解すれば良いのです。
太古から語り継がれた同じ福音!エデンの園でアダムとハヴァが
神の言う事とは違う”嘘”を信じて騙されて罪〜ズレて、死が入り込んだ直後すぐに屠られた子羊の購の血の事実、動物の毛皮
衣を神自ら屠り、神が彼らの体を覆った事が書かれています。
罪を覆う。これは購の血を表しています。その事実は、子羊の血が鴨居を覆う、死が過ぎ去る、そして、贖いの箱の蓋、命を再生する神の言葉でも表されているのです。そしてそれらが、地上で
2000年前に流された血により同じ事実を証明、表しているのです。
時系列上に物事を考えているから見えなくなるのです。最初〜
永遠から考える!永遠の中にイエシュア、屠られた子羊の血は流されて完了している。それが地上で証拠として人々の前に現れて証明し、そして、トラー=神の言葉そのものが人の間に生きて、人の本来の生き方を示すために来てくださったそれがイエシュアだからです。イエシュアは、人々に言われました。”トラー=モーセの五書を破棄するために来たと思うなかれ!トラー=父の教えを正しく教え伝え生きる事を教える為に来た!”とはっきり言っているのに、イエシュアの言われた言葉をクリスチャンの世界では完全に取り違え誤解し、イエシュアは古い教え=父の教えを
破棄しに来て、今まで聞いたことのない別の教えを教えに来たなどととんでもない空想の解釈で聖書を正しく解説していないのです。それこそが”破棄”の意味なのです。破棄するとは当時の慣用句で、”トラーを正しく解釈し解説して生きていない!!!”と言う意味だからです。イエシュアが言われた”破棄”をクリスチャンの教えの世界ではしているのです。
人と人との間の隔たり、分裂、分離、そしとの間の隔たり分離。
神から離れる事は、神の実態である神の言葉=真理から離れる事で始まる事が最初からはっきり聖書に記されています。
 
エデンの園の最初から、神=言葉から離れる事が全ての問題の根である事が記されています。
人の中に罪=ズレ、本来の姿からずれたこと。
神が人に伝えた言葉を歪める事から様々な異常事態が入り込んだのです。
神の言葉を人間が歪める、変える、否定する、別物に変形する、神が伝えてもいない人間の教えで神の言葉を変形し、神の教えの内容を変えて人間の教えを混ぜて別物にして薄める、人はこの様なズレ=罪をずっと歴史の中で繰り返しているのです。
どんな事柄でも、どんな度合いでも、神が言われた言葉、教えは永遠に変わりなどしないのに、それを人間が勝手に変わったと決めつけて主張している事、それが全ての問題=罪の本当の姿であり、根である事を神は人に教えています。
 
神の言葉を変える〜人間が神より権威を持つと言う事になり、
神の言葉が変わるならば、それは神が嘘つきと言う事になるのです。なぜなら神は神の口から直接に、神は永遠に同じ!神の言葉は永遠に固く立ち変わらない!と言っているからです。
神には、良い神<恵みの神>、悪い神<怒りの神>なんてありません。もし良い神悪い神と言うのがあったとすれば、どうなると思いますか?絶対的な基準が無いと言う事になります。
それが人間の編み出した宗教です。
翻訳では、命の木と知識の木と書いてありますが、ヘブライ語では、『トヴとラ』しかも1つの木と書いてあるのです。
トヴと言うヘブライ語は良いと訳されていますが、本当は『神の意図通り』と言う意味の言葉です。『ラ』は、悪と訳されていますが、これも『神の意図とは違う』神のデザインされた性質とは違うから悪と訳されています。
だから、善、完全なる絶対基準の真理である神が存在し、その
神が伝える真理に対してズレているもの全てが偽り、嘘なのです。
真実では無い事は『偽り、嘘』でしょう。真理、真実と言う絶対的基準が存在するから、何が嘘、偽りなのか識別、比べる事が出来るのです。
嘘が最初に存在しているのではないのです。嘘に照らし合わせて真理が分かる、認識される、理解出来るのではないのです。
最初に神が存在している。真理に照らし合わせて全てを眺めれば何が嘘、偽りか見える様になっているのです。だから真理でありイエシュア=神=聖霊である神の言葉を曲げる事は人は許されていないのです。何が本当か分からなくなるからです。
神は全てを『トヴ』神の意図どおり、良いものとして造られたとあります。
神の言葉で造られたこの創造物の性質を歪めるものが「偽り、嘘悪」です。だから、神の言葉をどの箇所でも曲げる宗教神学の
教えは、神の言葉〜神ご自身〜真理を歪めているものであり、
イスラエルの神に属するものではない事は聖書に忠実に戻れば
明らか、クリアーにその事実が記されているのです。
人は絶対的基準が無い場合には、何が真理か分からなくなるのです。でも、西洋人の編み出した宗教は、神の言葉を部分的に、
歪めて来ています。
しかもその部分的な箇所は致命的な部分なのです。神の永遠不変の言葉、真理の土台、信仰の土台である部分を歪めて崩壊させているからです。
神の言葉、教えの根幹である土台〜父の言葉とイエシュアが言われた聖書の土台はモーセの五書であり、建物の土台、柱である神の言葉を覆しているのです。建物の土台や柱を破壊、崩壊したら
建物は崩れるのです。その様な事をして、崩れた部分に人の教えと言う代替えを植え込んで歪んだ建物を作り上げているのです。
 
神の言葉を歪め、付け足し削除することがどれほどの罪、代償があるのか聖書を読めば分かるのです。聖書の至る所に神の言葉を
曲げる、変える、付け足す、差し引く事に対しての警告があるでしょう!死に匹敵する罪であると神が言われた通り、エデンの園の最初の最初から、神が言う通りに全てをガードせよ!あなたの命を守るためにと教えられているのに、最初の最初からそれを
失敗しているのです。
先ず最初の最初から、神の言葉を蔑ろにして捨てたから、死が人の中に入り込んだでしょう。これ以上の破壊があるのでしょうか?神の言葉を無視する、捨てる、歪める、変える代償が記されています。
死とは、読んでみると、単に霊的肉体的死の他に、関係の中に
死=隔たりが入り込むことでもあると分かります。神のデザインした意図通りに生きられなくなる、見えなくなる、神とそして人との本来の関係に生きられなくなる。これが書いてあるのです。だから人の最初の問題は、自分が誰だか分からなくなる=神の似姿に造られている人である事を疑う、自分を生きられなくなる、そして夫婦関係の亀裂、その後は、兄弟殺人でしょう。そして
読んでみると分かるし、自分達の生活の中でも体験的に分かる様に、全て問題の根は関係の破壊、崩壊です。
 
神がシャバット、第七日目の止まる日を人の為にデザインしたのは、シンプルに修復の一番の中心でもある、人と人、神と人との
エデンの園で存在した関係に皆が戻り意識し修復し止まる日、
同じ意識で神の儲けた日を生きる一致です。
神が備えた通りのものを生きる。人の本来の姿を生きる。
努力の手、偽物の目標に生きる事をやめる。そして、エデンに戻る、天の現実に今存在している事、感じなくても、この世一時的な朽ちる体〜ミシュカンの中に神が臨在している事を思い出す。
とてもシンプル!神が言われた通りが本物であり、神が言われた通りに生きるのが、神を愛する人の生き方であり、どうして
神の言われたことに逆らい違う事をするのが良いと考えるのか
物事を複雑にしないで、神が言われた通りが真理、アーメン〜
その通りである!と認めるだけ。神を愛する人は、神の仰せ〜
神が教えている事を生きる。こんなシンプルな事実を曲げるのが
人間の傾向なのです。アダムとハヴァ、バベルの塔の人間の策略
皆同じ問題の根。自分の知識に頼り、自分の考え出した発想が
神の伝える事より優れていると言う傲慢な思考回路。
それが本当の問題の根なのです。
 
Shabbat Shalom