自分教、宗教の記念日と神の記念日の違い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

18日月曜日の午前中に1年3か月ぶりに日本に到着したのですが、その日は強風で着陸前の50分位相当揺れておりました。

成田に着陸する時大型機の通路側で外が見えずいきなり飛行機はがつ〜んと言う感じで降りたのでびっくりでしたが、無事到着していました。

日本に春の時期に来るのは、7年ぶりくらいかと思います。

ダウンジャケットを持って来なかったので、東京はとても寒く感じます。

今日はシャバット、明日はプリムの祭りです。

シャバットはレビ記23章に記されている、神が創造された神が

人々を呼び出している定めの日=聖別された記念日ですが、

プリムは神の呼び出し、定めの日とは異なる、歴史の史実を祝う

記念日です。でもとても意味がある記念日です。

エステル記に記されています。ここでハーマンの策略通りに行ったら、イスラエルが殺戮されていたら、イエシュアの誕生はありませんでした。

 

神の定めた呼び出し日と、他の記念日とには違いがあります。

異邦人は一般的に、聖日、主の日は宗教が決めた記念日だと誤解しています。それらは人が決めて作られた記念日であり、神が創造したものではありません。

 

どの日に何を祝おうと、それはそれぞれの自由であり、国の記念日、そして個人ではそれぞれの記念日があるのです。

誕生日や、命日や、その他諸々あるのです。

この点をよく考えたら良いのです。どの日に集まって、その祝いの主旨は何であれ、それはフェローシップあり、誰かと交わる事は大事な事です。

 

でも神ご自身が創造されて、神が特定の日をこの世の礎が出来る前から指定し、神が神の子ら全員を呼び出している日は人間が

勝手に決めた日ではないと言う、聖書に記されている理解が異邦人の間にはごっそり抜けているのです。

 

この違いを理解すれば、クリアーに見えて来ます。

ヤロべアムが自分の思い付きで考えた日を、神の記念日と勝手に決めて祝った事が記されています。1列王記12章。

それらを神はご自分が創造された、神が神の子らを呼び出した

記念日であるなどと永遠に言わないし、変えてもいません。

それどころか、神の目にそれらはとても重たい罪であるとされているものであり、ヤロべアムの罪とずっと記されている神が人に伝えている真理、意味を理解しないと見えない世界です。

 

この様な思考回路なのです。イエシュアが地上に来られて神の教えや罪の定義やその他諸々が大きく変わったと言う間違いを教えらているので、以前に書かれている内容が今も有効であると言う永遠の事実が異邦人の耳には届いてない、だから神がするなかれ〜〜〜しなさいと言う教えがまるで響かないのです。なぜならそれら古い箇所に書かれている内容は、今は異邦人には関係ない終わった教えだからと考えているからです。何も耳に頭脳に響かないのです。

 

だから、神の記念日を変える事がどれほど重たい罪なのかも

見えない、感じない、響かない、聞こえない、理解出来ないのです。人間が神が定めた事を勝手に変えて良い〜人間に変える権威を与えた、ペテロに与えたとカトリックでは説明しますが、プロテスタントも全く同じ事を主張して人々に教えています。

でもそれらは聖書を正しく解説していない人が思いついた教えなのです。

 

詰まり、人間が決めた事に対して、神がご自身で決められた記念日をそれに合わせて変更などしない!と言う事が理解出来ない

場合は、永遠にヤロべアムの罪の実態が何であるか理解出来ていないと言うことになるのです。

人間が神の言う事を曲げる、変える罪の事です。エデンの園の最初と同じ、蛇の騙しと同じそんな事をすると言う意味は、人間が神に成り代わって、人が神の権威を無視し自分の立場を神より優位に持ち上げ、上昇させていると言う事をしている事に気が付いていないから出来るのです。

イエシュアはペテロに神の言葉や教えを変える権利、権威など

一切与えていません。それでは神が神ではないと言うことになります。

イエシュアがペテロに託した事は、トラー=神の教え=モーセの五書に記された神の言葉をペテロは、イエシュアから直接生き様を通して学んだ通りに人々に教える事!生きる事!が、ペテロの

イエシュアから託された任務だったのであり、神の教えをペテロの判断で変える事などではありません。

 

ペテロが人間の解釈で勝手に神の言葉を曲げて良いと言う事を教えているのが宗教の教えであり、それこそが大変危険な思想を生み出し続ける問題の根です。だから、教皇も、今や罪を祝福する時代に入ったなどと言う恐ろしい宣言が出来る。これは神の言葉のどの部分でも曲げて教える事と同じ罪の根なのです。

 

聖書に記されている神の言葉が永遠普遍であると言うシンプルな事実が見えない理由は、2000年以降イエシュアが来られて、大部分の神の教えが終了、変わった、救い、赦し贖いが人に初めて与えられ、聖霊が初めて人の内側に住み始めた、聖書とは違う

人の思想を土台に考えているからです。

だから何でも許される〜以前の教えは終わった〜と信じているのでしょう?古い以前の教え?福音書以降に記されているのは、

モーセの五書の抜粋でしかなく、神の教えの完全版は福音書〜

黙示録には書かれていない事に全く気が付いていないのです。

福音書以降は、モーセの五書の短い解説にしか過ぎない、最初の聖書の75%とは違う教えでもない、そして聖書全体は聖霊に

より書かれていて、聖霊=言葉=イエシュア=神と神は人に説明していますから、聖霊はどの聖書の箇所も否定する事などあり得ない!と言う永遠の事実が見えない宗教の教えの解説を聞いているから真実が見えてこないのです。

 

プリムとハヌカはイスラエルで祝われて来た歴史の史実、そして

聖書に記された事件の記念日です。レビ記23章の神が創造された神の呼び出している記念日とは異なるものです。

軍事勝利記念日、国の記念日、日本にも記念日がありますが、

それらと、神が定めた記念日には大きな違いがあります。

 

神の創造された記念日は、福音の要素、エッセンス、本質を全部

搭載されたもので、神の子らが生きて学習し続ける様にデザイン

されているものです。そしてレビ記23章は預言的祭り、記念日

なのです。1つ1つを学び実際に準備し、祝い生きて、福音の

全貌を、毎週、毎月、一年に渡り毎年毎年祝うたびに学び続けて行く様に神がデザインされているのです。

 

シャバットが全ての記念日の土台、中心です。この日は週の7日間、唯一神が聖別された日であり、神が神の子らを呼び出し祝う様に定めている日と聖書には書かれています。

これは日曜日になど変更されていません!日曜日が主の日、聖日であり、神が祝福し第七日目から変更された記録は聖書にはありませんがカトリックの質疑応答の書に、カトリックが神の創造されたシャバットを独自に変更した事が記されています。

 

まず聖書に書かれている事と、人が編み出した教えや記念日の区別がつかなくてはならないのです。これは基本中の基本の知識であるのに、異邦人の世界では神が神の記念日を変更したとか、

今は神が勝手に自由にそれぞれが思う日を記念日とするなどと言う聖書にはない人の思想が、あたかも神の仰せの如く語られていますが、その様な事実は聖書にも書かれていません。

 

自分で聖書を読んで確かめれば誰でも簡単に分かることなのに、そんなシンプルな事実さえ語られなくなったのは、宗教の教えが浸透しているからなのです。

 

ユダヤ教は、レビ記23章、古い教えの律法に書かれた記念日を

祝い、キリスト教、カトリックは聖書に書かれていない新しい

律法〜人間がそれぞれに思いついた記念日を祝うなどと誤解しているのですが、聖書には、ユダヤ教もカトリックもキリスト教も

書かれていません。

 

聖書に書かれているのは、純粋な神の言葉、永遠から永遠に同じ

神の子らへ神が直接教えている神の言葉、教えなのです。

 

神は1つの家族しか造っていません。それなのに2つ分裂した家族は、2つ分裂した教えや記念日を生きる、永遠に分裂した状態

それは聖書に記されている神の壮大な計画とは全く異なる人の思想です。神は1つ神、1つ家族、元の場所〜エデン〜喜びの中に

皆を引き寄せる修復のプランをしているのに、それに反する分裂した教えを唱えているのが人間の教えです。

 

宗教の教えは神の言葉の方を曲げて、すり替えて、変えています。

聖書の記述を話してもその事実が通じなくなっている事を、聖書の記述に立つ事に戻れば分かるのですが、聖書を曲げて人の教えにすり替えられてしまっている事を信じている場合には聖書に

書いてあっても書いてある通りに読んでいないので、話が通じなく断絶が出来るつまり、神が伝える真理を人の教えで阻んで覆い隠しているので神が伝える神の言葉の事実が通じないのです。

イスラエルの神がはそれぞれが創造する神ではなく、聖書に記されて、神が人に伝えているそれがイスラエルの神です。

永遠不変!神の言葉も永遠に変わらない!

 

神と共に神の国を建てあげないのなら、神の思索と一致してはいない!

マタイ12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。

12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。

だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。

12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

 

聖霊=言葉=イエシュアである事、神の言葉を否定する事、

聖霊=イエシュアを否定する事なのです。聖霊が聖霊=神の言葉に矛盾する敵対すると言う人の教えは、内部分裂、サタンがサタンを追い出すことと同じであることに気が付いていますか?

”ウルトラマン家族、ウルトラの父=頭を撃退する”なんてあり得ないでしょう?それと同じ事、人が神の言葉を勝手に終了、変化した、終わり、破棄された、言いたい放題言い続けて、聖霊に

反している事をしても気がつけないのは、神の言葉を捨てて認めないからです。

 

神が永遠の中から”神との関係にある印”婚姻指輪としてシャバットを与えてくださったのに、異邦人はその事実に気が付かず

別の婚姻指輪にすり替えたのです。誰からその印をもらったのか?神から、それとも人間から?

 

でも神の言葉をそのまま聞く場合、神が伝えていることが永遠に変わらない事実に気が付きます。

 

神が創造し聖別する週の日は、第七日目。これは神が宣言した事であり、人が決めた事ではないからです。

人は神が創造した日を聖別=神の目的通りに分ける事など永遠に

出来ない事実に気が付いてないだけなのです。

 

神が創造し、神が呼び出している日と、人が考えて作った記念日には神は神の子らを呼び出してなどいないのです。普通の日に

それぞれの目的で集まっているだけ。人が人を招集しているだけ。その違いが分かれば良いのです。

 

 

Shabbat Shalom