世界に浸透して19世紀の間定着した教えが、イコール神が伝える真実とはならないです。
聖書に照らし合わせて、真実か真実ではないかそれだけが永遠の事実です。
異邦人の世界に流通している教えは、聖書とは異なる人の思想を通して語る、神の言葉の方を曲げる解説が一般的です。
この事実に気が付くには、聖書に書いてある事実に先ず目覚める事、見聞きしている〜神の言葉が歴史の途中で廃れたと言う教えが聖書ではない事を聖書から知る事です。
これがあれば、聖書と人の教えに矛盾がどんどん明らかになります。
使徒行伝は、神の教えの変換時期、過渡期などではありません。
使徒に書いてある内容は、全てモーセの五書であり、イエシュア
が来られる前と後何も神の教えや神の記念日など1つも変化など
していない事、読めば分かる事ですが、所々人の解説で、
食規定が変わった、割礼が無効になった、安息日が日曜日になったなどと解説していますが、そんな事聖書には1つも記されていません。人間思想の神話です。
進化論を多くの人が信じていていも、ビッグバンや神が造られた
世界は未だに様々な天体が出現し続けている?と言っても、6日の中で神の創造は終わったのに、次から次へと人の発想、仮説を生み出して神の創造、神の伝える真実を塗り替えているのです。
神は人をグレゴリオ暦で言えば、日曜日から金曜日の日没まで
働き、金曜日の日没から土曜日の日没は止まって、神と人と共に
エデンの園の現実に戻る、神と共に祝う日として、第7日目を
聖別している事が書かれています。第7日目だけを神は週の中で
唯一聖別し特別な名前を与えているのです。他の日は普通の日
労働日です。普通と聖別の区別をシャバットを通しても教えているのです。
聖書の暦では第一日目〜第6日目を、人は様々な労働、創作、
活動、勉強、研究、そして収入を得るための仕事をして、第7日目には止まると書いてあり、それは黙示録の最後まで変わらないのです。
聖書を読んでみれば、分かりますが、福音書以降、シャバット、第7日目を祝い、そしてその日に皆集まってトラーを学び考えていた記録だけが聖書には書かれているのです。
聖書に書かれている事、いない事をはっきり聖書の記事から知り
見極め、識別する事は必須です。
聖書の記述を曲げたらダメです。エデンの園の蛇のやった事と
同じことを神の言葉に対してしている事に気がついて、神の言葉を曲げる、そんな事神は人に許可していません。
そんな事をしたら、何が本当か分からなくなってなり、全ては人の意見や判断が基準となってしまいます。
人間関係の中でも分かる事があります。人の関係が壊れるのは
ミスコミュニケーションです。言ってもいない事を言ったと
相手が思ったり、自分の伝えている意味を相手は正しく理解しない、そう言う事の積み重ねで、”この人はこう思っているんだ〜”
などと自分の憶測で相手を判定し、誤解し、そして関係が壊れて行くと言う事を誰でも知っていると思います。
尚更、神が伝えている事を人が真っ向から否定し、これらの教えは古くて廃れたなどと、福音書以降に書かれている抜粋された
少ない神の教えの解説が、まさかモーセの五書の正しいイエシュアによる解説である事なども気がついていないまま、同じ呪いの
古い廃れた律法を別の教えなどと勘違いしているのです。
イエシュアが父の教え=モーセの五書以外教えない、父を離れて何も言わない、出来ないと言っている意味を理解して下さい。
聖霊は、神の言葉=モーセの五書=トラー=神の言葉のどの部分も敵対しない、反対しない、矛盾しない、否定しない、なぜなら
聖霊が神の言葉そのものだからです。聖霊=イエシュア=言葉と書いてあるのです聖書には。
その概念が異邦人にはないのです。私達も神の言葉により造られ
神の霊を吹き入れられ生きるものとなり、そして神の口から出る
言葉により生きる!と書いてある意味をはっきり理解している必要があります。
神の言葉を忘れさせる、どんな度合いでもそれらは聖霊から出たものではなくエデンの園のあの蛇〜別の霊〜悪霊から出たものである事を聖書の記述から認識出来れば、安全に守られます。
エデンの園では、神と顔と顔を合わせ神と共にエデンの園の
素晴らしい環境で、見るもの感じるもの全て美しいものの中に
住まう様に造られました。
そして、人は最初から神が創造された全てを神の意図通りに治める仕事〜アボダ=礼拝と訳されている言葉ですが、これは神の前にどんな事を行うにも全てが礼拝である事を教えている言葉です。
創世記2:15章にそれが記されています。2:8にも書かれていますが、2:15は、神の創造された人を神がどの様に取り扱い、人はどの様に生きるのかの最初のテーマが書かれています。
これはヘブライ語では見えますが、翻訳では見えません。
創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、