神との関係は神の提示したブリットの上に成り立っている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界に浸透して19世紀の間定着した教えが、イコール神が伝える真実とはならないです。

聖書に照らし合わせて、真実か真実ではないかそれだけが永遠の事実です。

 

異邦人の世界に流通している教えは、聖書とは異なる人の思想を通して語る、神の言葉の方を曲げる解説が一般的です。

 

この事実に気が付くには、聖書に書いてある事実に先ず目覚める事、見聞きしている〜神の言葉が歴史の途中で廃れたと言う教えが聖書ではない事を聖書から知る事です。

これがあれば、聖書と人の教えに矛盾がどんどん明らかになります。

使徒行伝は、神の教えの変換時期、過渡期などではありません。

使徒に書いてある内容は、全てモーセの五書であり、イエシュア

が来られる前と後何も神の教えや神の記念日など1つも変化など

していない事、読めば分かる事ですが、所々人の解説で、

食規定が変わった、割礼が無効になった、安息日が日曜日になったなどと解説していますが、そんな事聖書には1つも記されていません。人間思想の神話です。

 

進化論を多くの人が信じていていも、ビッグバンや神が造られた

世界は未だに様々な天体が出現し続けている?と言っても、6日の中で神の創造は終わったのに、次から次へと人の発想、仮説を生み出して神の創造、神の伝える真実を塗り替えているのです。

 

神は人をグレゴリオ暦で言えば、日曜日から金曜日の日没まで

働き、金曜日の日没から土曜日の日没は止まって、神と人と共に

エデンの園の現実に戻る、神と共に祝う日として、第7日目を

聖別している事が書かれています。第7日目だけを神は週の中で

唯一聖別し特別な名前を与えているのです。他の日は普通の日

労働日です。普通と聖別の区別をシャバットを通しても教えているのです。

 

聖書の暦では第一日目〜第6日目を、人は様々な労働、創作、

活動、勉強、研究、そして収入を得るための仕事をして、第7日目には止まると書いてあり、それは黙示録の最後まで変わらないのです。

聖書を読んでみれば、分かりますが、福音書以降、シャバット、第7日目を祝い、そしてその日に皆集まってトラーを学び考えていた記録だけが聖書には書かれているのです。

聖書に書かれている事、いない事をはっきり聖書の記事から知り

見極め、識別する事は必須です。

聖書の記述を曲げたらダメです。エデンの園の蛇のやった事と

同じことを神の言葉に対してしている事に気がついて、神の言葉を曲げる、そんな事神は人に許可していません。

そんな事をしたら、何が本当か分からなくなってなり、全ては人の意見や判断が基準となってしまいます。

 

人間関係の中でも分かる事があります。人の関係が壊れるのは

ミスコミュニケーションです。言ってもいない事を言ったと

相手が思ったり、自分の伝えている意味を相手は正しく理解しない、そう言う事の積み重ねで、”この人はこう思っているんだ〜”

などと自分の憶測で相手を判定し、誤解し、そして関係が壊れて行くと言う事を誰でも知っていると思います。

尚更、神が伝えている事を人が真っ向から否定し、これらの教えは古くて廃れたなどと、福音書以降に書かれている抜粋された

少ない神の教えの解説が、まさかモーセの五書の正しいイエシュアによる解説である事なども気がついていないまま、同じ呪いの

古い廃れた律法を別の教えなどと勘違いしているのです。

イエシュアが父の教え=モーセの五書以外教えない、父を離れて何も言わない、出来ないと言っている意味を理解して下さい。

 

聖霊は、神の言葉=モーセの五書=トラー=神の言葉のどの部分も敵対しない、反対しない、矛盾しない、否定しない、なぜなら

聖霊が神の言葉そのものだからです。聖霊=イエシュア=言葉と書いてあるのです聖書には。

その概念が異邦人にはないのです。私達も神の言葉により造られ

神の霊を吹き入れられ生きるものとなり、そして神の口から出る

言葉により生きる!と書いてある意味をはっきり理解している必要があります。

神の言葉を忘れさせる、どんな度合いでもそれらは聖霊から出たものではなくエデンの園のあの蛇〜別の霊〜悪霊から出たものである事を聖書の記述から認識出来れば、安全に守られます。

 

エデンの園では、神と顔と顔を合わせ神と共にエデンの園の

素晴らしい環境で、見るもの感じるもの全て美しいものの中に

住まう様に造られました。

 

そして、人は最初から神が創造された全てを神の意図通りに治める仕事〜アボダ=礼拝と訳されている言葉ですが、これは神の前にどんな事を行うにも全てが礼拝である事を教えている言葉です。

創世記2:15章にそれが記されています。2:8にも書かれていますが、2:15は、神の創造された人を神がどの様に取り扱い、人はどの様に生きるのかの最初のテーマが書かれています。

 

これはヘブライ語では見えますが、翻訳では見えません。

 

創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。
 
エデン〜これは喜び、歓喜と言うヘブライ語です。エデンと言う名前の園ではないですね。喜び〜神ご自身の中に神は人が住まう様に造られた事、ヘブライ語では見えます。ヘブライ概念では見えます。そして、この”置いた”と言う言葉は、安息、平安と言う
よく聞く翻訳で表されるヘブライ語です。
慰め、心地よい、ナファーシュ、ノアの名前の語源と同じです。
 
これは物理的に心地よ良い事をも意味する言葉です。
ぴったりの枕、寝心地良いベットに寝る、その様な自分にぴったりの環境に在る、その事実が表されています。
そして神が人を園のに置くと言う言葉の意味は、大事な大事な赤ちゃんをそ〜とベッドの中に寝かせて置くと言う事を表しているのです。神がどれほど人を大事に扱っているのか分かる言葉です。
そして、耕す〜礼拝と訳される言葉ですが、これは色々な意味に
色々な教えにつながるヘブライ語です。
守るもガード=ショマと言うヘブライ語です。これは、聞くと言う語源と同じ、神の言う通りを聞いて、神が創造された世界を人は治める役割を与えられたのです。
 
奴隷とサーバント(仕える人)は同じ言葉です。エベッド(単数)、アバデイム(複数)です。
命の木と知識の木も一つの🌲単数で書かれています。
神の言われた通りを生きる〜命に繋がる、神の言われた事とは
違う事を生きる〜命を生み出さない枯れたいちじくの木、実のならないものになる。
人は、同じ事をしても、その事に向き合う意識がずれると、
奴隷になるのです。だから、神の言葉をそれらを生きて義とされると考える場合には、それは宗教の教えの奴隷になり、
神の言葉は神が造られた自分そのものの性質を神の意図通りに
生きるから、神のサーバント〜神の僕、神の子らしく生きられる
事になるのです。
 
ヘブライ語は同じ言葉で全く違う意味を表す言葉になる事でも
神の教えようとしている事が見えます。
だから、人が神の言葉に人間の教えを混ぜて何何教と言う宗教を
作れば、人は本来神が伝えている生き方からずれて、人の思想を
生きて、人の教えの奴隷になるのです。
 
自分の仕事も意識取り組み方が違えば、その仕事の奴隷になり
本来の意図〜神のみ旨を生きる事を忘れて働き続けたら、奴隷になります。だから神は第7日目に止まり、仕事から離れる!
神との聖別された時の中を生きることに招いたのです。
でも、神は神の言葉を神の意図通りに生きる人を祝福すると
約束して下さいました。それらが本来の人間に生き方だからです。
イスラエルが、神の言葉、教え〜ブリットを忘れ、異教の神々の教えになびき、自分の子供を捧げたり、神が食べてはならないと言う動物を異教徒と同じく食し、疫病で死に、エレミヤの様な
預言者を神が送っても、耳障りな教えであるから、預言者を迫害した様に、人は自分の慣れ親しんだ、それが聖書〜神の言葉ではなくてもそれらが良いのだと思い込む、その教訓はイスラエルの歴史の中で教えられています。
 
イスラエルがこれ程までに厳しい訓練を受けるのは、イスラエルが今も契約を受け取った代表者であるからです。
今の事態もイスラエルが契約の命に生きる事から外れている
刈り取る結末でもあるのです。
それは異邦人とて同じです。神の子らとされた人は、神の言葉に戻り生きる!シンプルな事実があります。
 
それは、する、しない、しなくてはならないではなく、イエシュアに贖われて新しくされた人は、イエシュアの性質通りを生きる!それが本当の生き方だからです。
あれこれするべからず、しなくてはならないと言い始めた途端
宗教、律法主義的意識に陥ります。
 
神との関係に中でエデン〜喜びが影らない、神との距離が出来ない状態は、神の前に神の性質通りを生きる事のみ可能です。
それが聖書で教えられている事です。
 
人間関係の中で、自分が伝えた事を相手が真摯に受け止めない、
軽くあしらう様な事をされたり、拒絶されたらそれはどう言う事を意味しますか?関係が傷つくし、お互いの関係をそれほど重視してないと言う態度で表す表明です。
 
神の言葉に対して、人がもし、勝手にこの神の言葉は関係ない
などと言うならば、それは神を蔑ろにしている事なのです。
神は人に廃れて朽ちる教えなど1つもしてないのです。
神の言葉は完全、永遠に廃らない、固く立つと言いながらどうして矛盾を平気で唱えられのか?それは人の思想で別の定義をしているからです。
 
異邦人が神の言葉が永遠普遍であると書いてあるのに気が付かないだけです。神は大事な事を1つ1つ教え、神を知るには永遠が必要なのに、神を知る手掛かりを人は捨てる様に教え、自分の判断、感覚、インスピレーション、確信〜それが聖霊に導かれる事などと言いますが、神の言葉=聖霊を捨てたら、何を聖霊に教えられているのか基準を捨てているので分からなくなるのです。だから、教皇、クリスチャン牧師がLGBTQを認めますなどと言っているのでしょう。
 
 
続く