創世記2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
出エジプト20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、
なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。
神の1つの大家族〜神の造られた人間は同じ土=アダマ、同じ
エッセンス、要素から造られた同じ人間で、中身も構造も同じです。人種は色々に分かれましたが、元の性質素材は同じで1つ。アダム〜土から取られた一人の人から世界の全ての人が出現したと神は私達に伝えています。
アダムとハヴァの中には色々な人種のDNAが搭載されていたのです。
そして、エデンの園を飛び出した理由は、神の言われる事とは
違うこと〜蛇の言う嘘にアダムとハヴァが騙されて神の言葉の方を疑い、却下した事による、実に実にシンプルで単純な理由です。
その事から、全人類に死〜体が朽ちる事プラス、神と直接顔と顔を合わせて生きる事から、エデン〜喜びの園、神の中から外側に飛び出して、その隔たりの中に閉じ込められてしまったのです。
聖書は最初から同じ真実を語っています。神の教えや言葉の意味は途中で変化しないからです。最初に出てきた言葉の定義はその後聖書の全体でずっと同じ意味で記されています。だから、永遠とか聖別、祝福したとある言葉も、創世記〜黙示録に至るまで
同じ意味です。
だから人が考える思想で語る聖書解説がズレているのです。
変化した神の教えや神の言葉など聖書には記されていません!
永遠の中から同じ贖い、救い、同じ神、同じ福音、全部同じ!
イエシュアは昨日も今日も永遠に同じ!と書いてあるのに、どうして途中で変わるのですか?怒り神から恵みの神に。
そして異邦人は、ヘブライ聖書に書いてある、神=言葉=イエシュア=トラーであると言う事実を理解していないのです。
書いてあるのにその意味が通じていないからです。
だから、ヘブライ人達、預言者達が書いた言葉の意味が見えてこないのです。もし、神の言葉が歴史の途中で変わったら、イエシュアが昨日も今日も永遠に変わらないと言う言葉が嘘になる事を理解していますか?聖書の記述と人の思想=人間が考えついた
デイスペンセーション神学や、置換進学、その元は2世紀に異邦人教父たちが考えついた、モーセの五書終わりありき、神の言葉
が途中で変化し、神の記念日も自分達の思い付くものに変える!それが正義!と言う人の思想に塗り替えられた教えです。
聖書を読むだけで、西洋宗教の思想や、西洋宗教が作った記念日、日曜礼拝、イースター、クリスマスやハロウイーンは、聖書には書かれていない事は明らかです。
それらの教えや記念日は聖書には書かれていませんし、登場して来ません。そして1世紀当時の人々はその様な教えも祭りも誰も知らない、誰もそれらの祭りを祝っていない事は聖書に照らし
合わせれば明らかな事実である事は確認出来るでしょう。
それは神ではなく、人間が後から作った宗教の教えや記念日だからです。
異邦人は、神の言葉、神の祭りが永遠に完全であり絶対である
と言う理解が無いのです。神の教えから遠く遠く離れて先祖代々生きてきたから、ピンとこない、だから神の言葉を人が変えて良いと神が言っているなどと言う空想話が作れるのです。本当に
神に対する冒涜が聖書では何と伝えているのか理解していないのです。
聖書に書いてない事なのに、あたかも聖書に書いてあるがごとくに語ってはならないのです。それは神が人に伝える真実ではないからです。それらがどの時代にどこから発祥したのか調べてみれば良いのです。
人類の問題の根、その理由が実に単純と言う事に注目しないとなりません。全ての問題の根は、神の言う事を退ける、薄める、曲げる、誰かが言い出した神の言葉とは違う教えに乗り換える、
塗り替える、そして、自分が誰かを忘れさせる蛇の囁きから来るのです。
ヘブライ語には時制がなく、もう既に完了している、又は未完成ではあるけれど、永遠の中から完了したものとして語っている言語です。
だから、私達は神がこの世界の礎を創造される前に既に神の中に存在し選ばれていた事が記されているし、そして、子羊の贖いの血〜イエシュアの贖い救いの完了の業も既に永遠の中に完結し
存在している事が書かれています。
時系列上に聖書は記されていないのです。永遠から、神の中にある事実を話しているからです。
何度も書いていますが、クリスチャンの世界で誤解している事は
救い、贖いは2000年前イエシュアが来るまで人に与えられていない、仮の許しや義がエルサレムだけにあったなどと考えている事です。
神は誰にでも時空を超えてアプローチ出来る事が書いてあるでしょう。現に福音は世界の四隅に伝えられている事実があるのです。でも大々的に文字として記された神の言葉の完全版は、
エルサレム、シオンから昇天以降初めて伝えられた事が始まった
のです。それまでの世界は西洋でももっと後、中世になるまで、印刷機がないのですから、全て手書きです。異邦人は、神の言葉=契約=トラーを知らない。
ユダヤ人の世界は最初から手書きですが、聖書を記す書写学者
それらがトラー学者〜律法学者と訳されていますが、ヘブライ語のトラー、預言書などを書き記す人々は、もちろんタナック〜
トラー、預言書、諸書を熟知し、そっくりそのまま文字数も同じ、言葉も同じものを書き記して行く特別な訓練を受けた学者だけが出来る事なのです。
だから、福音書以降のギリシャ語の写本の様に、原文に無い文章や言葉を付け足す様な違反が一切出来ない様になっているのです。解かなければならない誤解はこの様です。
1 福音、救い、贖い、屠られた子羊の血はエデンの園が造られる前、永遠の中に既に存在していた。イエシュアは永遠から存在しているからです。
2 どの時代も、神が選び出された人々に神はアプローチし、
同じ救い、贖いを得られる様にしたのです。
神は時空を超えて何でも出来るお方だからです。
3 神の教えは最初から同じ。エデンの園から神は人に顔と顔を合わせて、神の教えを直接伝えてきた、その同じ教えが文字になって記されたもの、それがモーセの五書=ブリットです。
4 神の教えは、するべき しないべき、の掟リストではありません。神はシンプルに人間に、神が創造された神の似姿の人の
本来の性質、生き方を教えているだけです。
5 クリスチャンの世界では、2000年以前は、人は神の厳しい掟を与えられ、それらを生きられない事を嫌というほど知らされたとか、それらの教えをかろうじて生きたら、義と認められたとか、動物を捧げて仮の許しを得たとか神の教えとは全然違う事を解説しています。
その様な教えが浸透している本当の理由は、人間の教えが肉にアピールするから、爆発的に教師の間で受け入れられ、それらを
何も知らない一般の人に教え続けた結果なのです。
教師は、聖書の事実ではなく、ダービーやその他、反モーセの五書の思想の註解ばかりを読んでそれが聖書の教えだと思い込んでいるからです。だから、イスラエルと異邦人は別の群れだとか、イスラエルと異邦人は別の教えや契約があると聖書に書かれていない事を、聖書に書かれているかの如くに今も今日も語り続けているだけなのです。
どの時代も、神の教えの基準に合った事をしたから義とされた人は一人もいない!と書いてある、動物の血は罪を消さないと書いてある事をそのまま理解すれば良いのです。
そうすると何のためにその様な事が神の家の中で教えられたのか
学べば分かります。ミシュカン〜神の神殿、家にの中で教えられた事は、神に造られた人の生き方、性質、神の前にどの様に近づくのか、聖なる民とは何か、神の前に新しくされ受け取られている事実、イエシュアの贖いによる罪の赦しの事実、神と和解したい、人と和解したい、修復の仕方、癒しのプロセス全て教えられているのです。
でも考えてみたら分かるでしょう?それが可能であったのは
移動式ミシュカンにアクセス出来た40年荒野で生きた人、
その後固定式神殿はエルサレムだけにしかありませんから、その周辺に住む人、もしくは祭りでエルサレムに上れる人限定になってしまうではないですか。そんなケチくさい神?そうではなくて、イスラエルが全世界の世の光、地の塩、福音を伝える、神の教えを伝える代表者だから、神の家の中で神の教えを先ず最初に教えられたのです。
そして、モーセの五書の中に記された事を、理解出来れば同じ神の教えを異邦人も理解して、神が教える事が理解出来るために
文字として証拠として聖書が記され与えられたのです。
しなさい〜それが神が創造された人間の生きかただから。
してはダメです〜それは神が創造された人間の性質に反する、
それはあなたではないからそれらをしないのですと教えているだけです。
シンプルでしょう?何がそんなに難しいのでしょうか?
難しいと感じるのは、自分が受け入れたくない都合が悪い教え
又は、単に意味が理解出来ないから難しいと思う。
だから正しい導き手が必要なのです。
律法と言う言葉はヘブライ語では神の言葉や教えを指して語る言葉ではありません。神の言葉に値する誤解を根本から解かないとならないのです。神は人の為にシャバットを設けて創造されました。これは全ての神の聖なる呼び出しの特別な祝いの日の中心でもあります。
一旦西洋宗教の伝統の教えは横に置いて、聖書に書いてある事だけに戻って下さい。神は、大事な事を教えているのです。この7と言う数字は全てに繋がっている重要な意味があるものです。
神がデザインした神が人を呼び出してい聖別した記念日を人が
変えても、神はそれらを永遠に変えません。
未来に、イエシュアが戻られたら、全世界がレビ記23章にある
神の呼び出している聖別された記念日を祝うと言う預言は神の中では永遠の真実です。人が認めない、信じなくても関係ないのです。神が言われたらそれが真実であるからです。
この日は、不思議な日です。神の創造が完了した、止まった事を
祝う、だから人も神がされた通りに止まり祝うとあります。
これは、人の修復の根本でもあるのです。
6日の間働く、それは色々な作業がありますよね。家事労働も
そうですし、勉強や、探し物、また収入を得る労働ももちろん
そうです。
エデンの園から、人は神が創造された世界を神の意図通りガードし、守り、耕すと教えられています。
耕すと言う言葉は、礼拝と訳されている言葉と全く同じです。
礼拝と言う言葉は、特殊な儀式と考えますが、それはほんの一部です。
私達が生きる全てが神の前にはアヴォダと教えられているのです。神が意図した通り、自分の性質通りを生きる事が礼拝そのものです。だから、普段神の性質を生きてない人が神のコルバンを
捧げるために神殿に来て、神の祭りを祝う、中身が伴わないズレた生き方が耐えられないと神が伝えている箇所がありますよね。
イザヤ1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、
1:17 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。
ミカ6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
続く