神が人に伝える永遠の事実は神の言葉を通して発見出来る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

翻訳聖書、英語も日本語も何語でも、それはそれで良いのですが、元のヘブライ語で書かれたものには、翻訳では覆い隠されて

見えないものがたくさん記されているのです。

翻訳は、どうしても本来の意味が見えない、説明、解説が無いと見えないものなのです。それは仕方がない事なのです。

だから、原典、原文に戻り何が書いてあるのか知る必要があるのです。

これはどのジャンルの文学、文章、書籍や文章でも全く同じです。

例えば、罪と言う言葉はヘブライ語では単数です。日本語には

複数、単数と言うものが特殊なケース以外にはありませんね。

英語ではこれは明確に分かります。

罪には色々な種類がありますが、罪は単数で書かれています。

そして、”憐れみ”と言う言葉があります。これは複数なのです。神の憐れみは尽きないからです。

それと同じく、神を知るのは永遠をかけても人は神の大きさ偉大さを知る事は出来ないから、永遠と書かれているのです。

それなのに、神を知る手掛かりである言葉を捨てよと教える人間の愚かしい教えは、神を知る手段を捨てよ!と言っている事に

気が付かないのです。

 

”エルサレム”と言う言葉も、日本語でも英語でも見えないですが

ヘブライ語では、イエルシャライムです。これ二つのエルサレム

複数として書かれている事など、翻訳では全く見えませんよね。

今目に見えるエルサレムと、そして見えないエルサレムがあり、やがて天と地が1つになるからなのです。

 
日本語の訳ですと、”死”と言う言葉は出てきませんが、英語では his deathとあります。
イザヤ53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

He was assigned a grave with the wicked,and with the rich in his death,though he had done no violence, nor was any deceit in his mouth.

 

でも、ヘブライ語ではこのイエシュアの死は”複数”なのです。

どうしてでしょう?イエシュアが死んだだけではなく、私達の

死ぬべき定めをイエシュアが死んだから複数で書かれているのです。これは翻訳では英語でも見えません。単数として訳してしまているのです。

בְּמֹתָ֑יו複数です。この様に、ヘブライ語の言葉の中にメッセージがたくさん詰めこまれている事を、発見します。

これから23日〜24日はプリムで、これはレビ記23章の
神の記念日とは異なる記念日ですが、エステル記にはプリムの
祝いをユダヤ人が祝い続ける事が書かれています。
そして来月4月22日月曜日日没からペサフ〜過越の祭りが
やって来ます。
その前にミシュカンの事なども考えながら、祭りの準備をする
日々になります。
イエシュアやパウロやヨハネ、皆ミシュカン用語、契約用語で
神の教えを語っています。ブリット〜契約用語とは、クリスチャンも知らない間に使っているでしょう。
キリストの花嫁とか、娶る、裏切る、姦淫する、夫、頭、愛する、そして家族用語が書かれています。全部神との関係を、
婚姻関係、人が知る一番近しい関係で表されているからです。
だから、クリスチャンも聖書を神からのラブレターと言うでしょう?ではどうしてその神からのラブレターを呪いの律法で終了、永遠ではなく歴史の途中で廃れた、異邦人には関係のないものなどと言っていても、全く矛盾に感じないのでしょうか?
聖書の記述に照らし合わせて、今まで聴いてきた教えが聖書の事実なのかどうなのか、自分で神の言葉に向き合い考え直したら色々と見えてきます。
神が1度もで永遠!と言われたら、それは永遠であり、変わらない!と言われたらそれは変わらない。シンプルな事実であるのに、どうして神が言われている事とは逆を言い続け信じ続けるのでしょうか?気が付いてないだけで、福音書以降に書いてあるのは、1000%モーセの五書の抜粋された教えだけが
書いてあるのです。全部は書いてない理由は、最初の75%に神の完全版の言葉、教えとして全てが記されているから、重複していないだけ。最初の75%を知っている事を前提で福音書以降は書かれているからです。
だから、異邦人は、モーセの五書〜契約に縁がなく〜とパウロがエペソ2章で言ったのは、異邦人は神の言葉や教えに馴染んで、先祖代々生きて来ていない背景、だから神の言葉が永遠に変わらないと言う事実が分からないままでいるのです。聖書にはっきり神が伝える永遠不変の事実が書いてあるのに。
神の言葉は何かが分からない、人の確信や判断の方が今は
神の言葉より今は勝る、古い教え〜神が伝えた人の生き方、罪の定義は無効になったなどと平気で人の空想話を神の教えだと信じられるのは、神の言葉は何か、言葉=聖霊=イエシュア
は同じであると分からないからです。
そして人の教えで神の言葉を塗り変えた思想を通して語る解説が聖書だなどと教えられてしまったから、余計に真実が見えないのです。
全部分からなくても、聖書はどの箇所も100%モーセの五書を語り、どの箇所もモーセの五書を塗り替える教えやモーセの五書とは違う教えなど書かれてなどいない!と言う事実を先ず神の言葉=永遠普遍で完全である神の言葉と神が言われた言葉の方を取る事をしないとならないのです。その上で初めて神が
聖霊が語る真実がどんどん浮き彫りに見えて来ます。
神の言葉をどの箇所でも否定する、終了させる、破棄されたなどと言う教えは、聖霊から出た教えではありません。それは
エデンの園に居たあの動物の声!と警告しているでしょう神が。
なぜなら、聖霊=言葉=イエシュアとはっきり教えているからです。聖霊はモーセの五書に敵対したり、モーセの五書=父の教え=神の言葉に反した教えなど1つもしません!!!
その事実をまず知らないとならないのです。


異邦人のグループと、イスラエルは別の群れなどと言う思想は、神が神の家〜ミシュカン〜神の宮を通して教えている事実を知れば、簡単にそれは神が伝える真実などではない事が分かるのです。
なぜなら、ミシュカンは私達の体を表し、同時に共に住まう
イエシュアを表し、1体である事がミシュカンを通して教えられているからなのです。
だから、神の言葉を捨てて、正しく学ばない場合には、様々に神が人に教えている事が理解出来ない、見えなくなり、聖書を書いてある意味通りに正しく捉えて学ぶ土台が無い場合には、本当に空想話を作り続けて
行く事が出来るのです。

 

出エジプト26:1 あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。

26:2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、

おのおの四キュビトで、幕は皆同じ寸法でなければならない。

26:3 その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも

互に連ね合わせなければならない。

26:4 その一連の端にある幕の縁に青色の乳をつけ、また他の一連の端にある幕の縁にもそのようにしなければならない。


この箇所は地上で初めてミシュカン〜神の臨在が住まう場所
そして人と神とが会見する特別な場所を、神がモーシェに作る様にそのミシュカン建築の詳細を伝えている箇所です。

前に書いた、ミシュカンとは最初は移動式、ポータブルのミシュカンでした。これは人の朽ちる体を表しているものです。
でも、今朽ちる体でも既に神は人の内に住まう事実を最初から
教えているのです。
そして、イスラエルと異邦人が別の群れであると言うのは、
神が人に伝える真実などでは全くありません!
最初から1体と書いてあります。そして、教会などと言う造語は聖書にはない言葉です!便宜上浸透してしまったから、教会と言う言葉を使っているだけであって、本当は、ヘブライ語=カハール、ケヒラ、ギリシャ語=エクレシア〜神の声呼び出されて応答した人々の群れです。
その原典の言葉を、創世記〜マラキでは、群れ、集会と日本語、英語でも訳して、福音書以降に突然、カハール、エクレシアと言う同じ言葉を、群れ、集会とは別の造語=教会、チャーチなどと訳しているから、誤解が生じている1つの原因でもあります。プラス、デイスペンセーション神学や、置換神学が
2つ別のグループ、イスラエルと教会などと言う人間の思想を
語り続けて、更には、聖書のページの間に旧約聖書、新約聖書などと言う人間が考えた余計なタイトルを挿入しているから、誤解が誤解を生み続けているのです。

メシアが地上に来られた後も、教会などと言う異邦人の別の群れ、もしくはイエシュアを信じる別の群れなど出現していません。
最初からアヴラハムの様にイエシュアを知り、聖霊を内側に受けて生きて来た群れ〜残りの民〜カハール、エクレシアが存在していた事を聖書から読み取れば良いのです。同じ1つの群れ〜最初から存在している同じカハール、それが神の家族の
実態なのです。
初めから、救いは同じ、許しも瞬時、仮の許しや義も無い。
同じ福音が最初から〜エデンの園から神により教えられて来たのです。
ヘブライ語は、完了形か、未完了、時制が無いのです。
詰まり、全て永遠の中に完結している事を教えているのです。
私達は贖われた事実〜永遠の中に既に完結している。
その事実から生きる!と言う事を神がずっと教えているのです。今未完成の様でも私たちの現実は、新しくされた人〜非のないものとされている事、その事実から生きよ!と教えられているのです。
永遠から語っているのです。西洋哲学思想の時系列上に物事を
考えるからズレてしまうのです。ヘブライ思想で聖書を読む。
そして、
出エジプトのミシュカン建設ですが、神がミシュカンの中で
使われる材料、素材、置き物全てに霊的教えが搭載されているのです。1つは、神の子らイスラエルも異邦人も両方合わせて1体であると言う事実を最初から教えています。
だから、ダービー思想の様に、イスラエルと異邦人を区別して
しかも分裂させて教えている教えは聖書ではないと、聖書に
照らし合わせれば分かります。
ミシュカンには窓がありませんから中は真っ暗ですよね。
その中にメノーラが置かれています。これは油で火を灯す
7本(完全)の支柱〜1つの金が7本になっているものです。
世の光と言う場合、ヘブライ人は神の家のこの光、神殿での
祭りで灯される光を考えるでしょう。
10とは、5と5。これらの数字も意味があります。
10の言葉〜神の臨在の箱〜契約の箱に入る神の言葉。
そして、5はモーセの五書です。

この様に描かれていますね。

 

26:3その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも

互に連ね合わせなければならない。

 

5と5。7つの支柱メノーラと同じです。イスラエルと異邦人両方合わさって完全になる。この5枚の垂れ幕は、5つずつ、互いに合わさると書いてありますが、これ翻訳を見ても特別な事が見えません。

ではヘブライ語ではどう書いてあるのでしょうか?

אִשָּׁ֖ה=イシャ一つに合わせると言う言葉があるのですが、

1つは、イシャ=女性と言う言葉です。女。

אֲחֹתָ֑הּ=アホタ それを、重ね合わせると日本語ではなっていますが、ヘブライ語では姉妹に繋ぐと言う言葉なのです。全部女性家族妹用語で書かれているのです。
そうすると、この5つと5つの幕は、イスラエルと異邦人を
表していて、両者は姉妹として繋がれる〜家族として繋がれる事を神は人に伝えているのです。現実にそうです。

4節に書かれている、青と言う言葉がありますが、これは神の義を表す色、神の御座の色、天、空の色を表すもので
タヘレットと言うתְּכֵ֗לֶת言葉なのです。

私達神の子らは神の義〜イエシュアを通して1つ家族として繋がれている事実をミシュカンの構造からも神は人に教えたのです。
これは、レビ族の祭司達が神の言葉をこの様に人に教え続けたのですが、その様な教育が無い異邦人には、翻訳だけ読んでも何が書いてあるのか見えないのです。

そして、その幕を50の金の輪で繋げると書いてあるのです。純金です。この移動式ミシュカンも、アカシアの木で
できていますが、全部金で塗る様に神から指示されています。
私達が朽ちる体でも神の前には、高価で尊い存在であり
神が私たちの内側に住まう事をこのミシュカンを通して教えているのです。
 

image続く