闇に光が射すと真実だけが見えて来る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の最初の最初から、救い=イエシュアが語られ教えられ、

エデンの園の中から同じ購い、救いが与えられ、同じイエシュアがずっと人と共に居られて、その事実がモーセの五書全部で発展させて書かれているのに、救い=イエシュアは2000年前に

初めて実現したと教えられそう考えているでしょう。

 

聖書記者達が、預言者が、当時の人々が聖霊を同じ様に受けて

神と対話し、神に祈り、求め、助けられ、主にあって喜んでいること、様々に書かれているのに、どうして真実が見えてこないのか。人の教えが妨害しているからです。

 

同じ人間でしょう?どの時代にも人は同じニーズ〜神に繋がり

神を求めて生きている。神は2000年前まで人を放置し、

人と関わりを持たず、人を許さない怒りの神なんて、それは聖書とは違う別の神です。そんな酷い神を語るのは人間の思想です。

仮の救いも、仮の許しも、仮の義もそんなものは聖書には書いてません。聖書を読み直してそこに出てくる人々がどの様に神と

関わっているのか読み取れば良いのです。同じ人間!同じ!

 

2008年もう16年も前になるのですが、初めてヘブライ語の原典聖書から直接ヘブライ語で書かれている聖書の中身を教えて頂ける事が始まったのですが、最初の印象は、”聖書にはこんな

すごい事が書いてあるのか〜!”と言う全く見えない景色が初めて見えてくる感動を今日も今も忘れません。

聴力が無い人が今はデバイスで初めて音が聞こえる様になったり、色覚異常があり色が見分けられず全部茶色に見える人が

特別なメガネをかけたら、この世界には素晴らしい色がある事を

初めて体験し感動で泣き出す。そんな感じ。

 

そして、私は初めて聖書とは別に、人の思想が混じる教え〜神の

言葉ではない教えを通した聖書解説を聞かされていた事に、

学んで行くうちに徐々に徐々に、その真相に気が付いて行く事になったのです。

神の言葉の真実に照らし合わせる、光が当たるとどうしても、神の言葉を否定している矛盾している人の思想、神の言葉を塗り替える、終了したと言うその教えは、聖書だけに照らし合わせると嘘である事が明らかになって行くものだからです。

神の語る言葉の真実の前に嘘は太刀打ちが出来ないからです。

光が当たると闇が消えるのと全く同じ事なのです。

 

ユダヤ人が世界のどこに居ても、ヘブライ語聖書を読む、学ぶ事を教えられると言う事が、私の中には未体験の出来事に遭遇して

いる様で、当たり前の様にヘブライ語聖書を読み解説する、その

未体験、今まで一度もその様に教えられた事がない乏しい聖書の

学びを痛感しました。

最初は同じ聖書を話しているはずなのに、その中身が深すぎて

何を話しているのか、着いて行けませんでした。

 

イスラエルに居るユダヤ人と聞くと、みんな黒い服を着て窮屈

そうに生きている人なんて思うかもしれませんね。でもそれは

1部の人。どのグループも、神の教えとは関係の無いそれぞれの群れでの教えと言うものがあるだけです。

クリスチャンの世界とて同じでしょう。自分達の中にある様々な

ルールや教えや決まり事がある。

でもユダヤ教、キリスト教などでは聖書にはないものなのです。

 

イエシュアの来られた1世紀の時代には、口頭トラー、日本語では口伝律法と訳されていますが、それは何かと言うと、神の教えはシナイ山で文字として永遠の証拠として与えられた神の言葉、教え〜神との関係にある根拠、証拠であるブリットです。

でも、神は文字で記したもの以外に、口頭でモーシェにあれこれ教えた別の教えがあると言う主張をしているのです。

でもそれは神の言葉では無い事は調べば分かります。

しかもその口頭トラーは、それぞれのラビにより違う教えになっていますから、その時点でそれは神の教えでは無い事は明らかです。

口頭トラーは、ミシュナ、タルムードと言う書物にされていて

黒装束の超正統派ユダヤ教の人達は、その書物を熱心に学んでいます。何が書いてあるかと言うと、トラーに記された教えの解説なのですが、その中には人間の教え〜解説が混じっているのです。ある内容は、トラーを理解する上で大事な事が書かれていますが、ある事は神の言葉とは関係の無い教えがあるのです。

例えば、祭りをどの様に祝うとか、参考になる手掛かりも書かれているのです。

イエシュアが地上でされた祭りも、過越の祭りも当時のパリサイ派の流儀です。パウロが書簡で諸外国にいる人達に教えた方法も当時のパリサイ派の教育方法です。そしてイエシュアがトラーを

たとえ話で解説したのも当時のパリサイ派の教育方法なのです。

 

だから、イエシュアが”先祖の言い伝え” とか、”伝統の教え”の方

を取って、神の言葉を蔑ろにしていると戒めている件があるでしょう。それがその口頭トラー=神の教えの人が解釈している内容なのです。

クリスチャンの世界で言えば、2世紀以降、これは大胆に神の

言葉の大部分を終了、終わり、異邦人には無用、関係ない、

キリストが来られたから古い教えは終了〜などと言っている、

それこそがまさに口伝律法〜先祖の言い伝え、神の言葉や教えではないものなのに、それが伝統により言い伝えられているそのものなのです。

でも、殆どのクリスチャンは、モーセの五書終わりありきの教えが神の教えだと疑いもなく信じているのです。だから、福音書以降、イエシュアが教えた教えがモーセの五書である!と言う事実も、パウロが1000%モーセの五書に忠実に生きて教えていたと言う事実もまるで見えてないのです。誰一人神の言葉を現代のクリスチャンの様に否定したり、神の言葉は今は廃れた、異邦人には関係ないなどと語る人など、聖書には一人も登場しません。

もしその様な人が居たら、それが神の前にどんな罪に匹敵する

行為なのか、聖書に登場する人々は知っているのです。

でも神の言葉を捨てる場合には、罪の定義も捨てますから、罪が罪とも分からなくなってしまっているのです。

 

例えば、パウロが割礼を否定していると誤解されている箇所が

ありますよね。文脈から内容を正しく読めば何が書いてあるのか分かるし、パウロは100%モーセの五書に忠実に生きて教えている証明をし、使徒21章、ユダヤ人議会のトラー学者の前で、パリサイの中のパリサイと宣言している、それはパウロは1000%モーセの五書に忠実であると言う宣言をしているのに、その意味をまるで理解しないまま、パウロはモーセの五書を終わらせた新しい教えをしていると勘違いしているその本当の理由は、

なんだと思いますか?人間の教えが神の言葉の真実を見せなくさせている妨害をしているのです。

ダービー思想=聖書の殆ど今は生きなくて良い、聖書を読まなくて良い、パウロの書簡1、2、ルカだけ読めば事足りると言った2世紀、時の異端者マルキオンと同じ思想を人の伝えて、聖書のページ全部に人間の思想=ダービー思想を書き記したスコッフイールド聖書〜聖書ではなく、その人間の思い付いた神の言葉とは異なる註解ばかりを読んだ教師達にその様な教えを聞かされたので、聖書に書いてある事実を覆い隠されてしまっているのです。

 

聖書のページに、神の言葉の横に、人の思想で塗り替えられた

解説が書かれてしまっているのですから、これ犯罪レベルの事です。天の国では。

パウロが割礼に関して議論している箇所は、簡単に理解出来ます。その問題点は、割礼〜これは改宗儀式の事なのです。

異邦人は生まれ付き天の国の一員ではない、契約の中にある民ではないから、それらの人達は、ユダヤ人になる改宗儀式をしないと神に受け入れられない、天の国の正式な一員になれないと

教えていた人達、それが口頭トラーなのですが、当時の伝統の

教え、人の言い伝えに対して、パウロが反対したのです。

 

なぜなら、聖書を読んでも分かる通り、改宗儀式が人を新しく生まれ変わらせるのでもないし、信仰により同じ救いを受け取れば、異邦人ユダヤ人関係なく直にダイレクトに神に繋がる事実が

あるからです。シンプルでしょう?パウロはアヴラハムの割礼に

反対しているのではなく、人が編み出したその様な神の教えとは異なる異邦人は改宗儀式をしなければならないと言うその事に

対して、それは神が伝える教え、福音ではない!と言っている

だけなのです。分かりますか?パウロの論点が。

クリスチャンの世界で言えば、洗礼受けなければ、天の国の一員には正式になってはいないよと言うのと同じレベルだと考えれば分かると思います。水に入る事が人を救うのではなく、儀式は表に見える誰にでも分かる、信じた故の宣言、証明でしょう。

 

その様に、1世紀にあった人の言い伝え、律法の行い、先祖の言い伝えというのは、人が編み出した教え〜口頭トラーの事であり、神の伝える言葉の真実から的が外れたものがあったのです。

そう言う事をきちんと把握して、プラス、神の言葉はどの箇所も

100%モーセの五書のみを解説していると言う永遠の事実から

絶対に離れないで、聖書を読めば臭い箇所〜あたかも神の言葉は

今は変わったと勘違いしている箇所は見えて来るでしょう。

そして、それらの神の言葉が廃れたとする解説は的外れの解説だと覚えておく必要があります。それらはダービー思想で神の言葉の真実を塗り替えた偽物の教えだからです。

 

神の国の大家族は、宗教ではなくて、神の伝える人間の生き方!

聖なる民の生き方を神の言葉から教えられて生きる人達!

シンプルでしょう。

宗教になるのは、どの時代もユダヤ人も異邦人も誰かの思想を混ぜたイズム〜宗教に作り変えるから、宗教になってしまうのです。

天の国〜神の中にはそんなものはありません。身分も性別も人種も何も隔てない、同じ単なるイスラエルの神に造られた神の性質に取り戻された人!それだけです。

天国、神の家には、何何派、何何宗派、何何人の群れなどと壁が作られて分かれていません。

人間が、神の言葉を勝手に変えたり、神の教えの周りにたくさんの衣を付けて別物にして、軽いはずの服が十二単みたいに重たくなる、そう言うことをしているだけなのです。

神の教えは難しくない!と神が言っているでしょう?

申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、

むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
クリスチャン達が、神の言葉を律法などと呼び、そしてそれらは厳しい縛りの掟、人を試すために仮に与えられた古い教えなどと
聖書とは関係のない人の思想で神の言葉に対して酷い冒涜の
言いたい放題をしているのに気がついていないのです。
イエシュアが教えたのは、トラー、クリスチャンが言う呪いの律法、古くて廃れた教えを教えたのですよ。変だと気が付きませんか?言っている事が聖書と矛盾しているのに気が付かないのです。その矛盾に。人の思想でそれらしく解説してしまうから、気が付けないのです。。父の教え=モーセの五書=トラーを正しく教えに来た!とイエシュアが言っているのに。

 

神に贖われた人、新しくされた人は、人種問わず天の大祭司=

イエシュアに属する天の祭司、聖なる民、聖なる国民、同じイスラエルと言う大家族に加えられたと言う事をクリスチャンの世界では聖書に書いてあるのに教えていません。

 

教会と言う、2000年前に初めて出来た群れ、新しい契約を受け取りキリストの救いを初めて受ける聖霊を初めて受ける異邦人中心グループなどと誤解しているのです。聖書には、異邦人は同じイスラエルの羊の囲い、自然のオリーブの木=イスラエル=

イエシュアを根とする同じ木に接木された!と書いてあるのに、どうして聖書とは違う教えをするのか、それは教会と言う造語と、異邦人が2世紀以降ユダヤ人イエシュアグループと完全決裂し、西洋宗教〜ローマ帝国が作った教えに乗り換えたからです。

 

 


続く