神の言葉を重視する事から意識をそらせる危険 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

巷には様々な教えが流れているのを見る事が出来ます。

何が何だか中身が分からないと言うものもあり、変な教えでも

それなりに解説されていると本当かもと思ってしまいますが、

一つ神の言葉に照らし合わせて、それらが嘘か本当か見分ける

基本的な基準があります。

 

聖書のどの箇所でも、特に福音書以降に聖書と訳されている言葉は、100%モーセの五書、そしてモーセの五書を解説する預言書、諸書のみを指して語っています。福音書〜黙示録は全てモーセの五書を指して、モーセの五書を根拠に話していると言う永遠の事実をまず理解する必要があります。

そして、福音書以降には、聖書の最初の75%と異なる別の教えや別の神の言葉や別の新しい契約など1つも記されていないと

言う事実があります。

そうすると、聖書の最初の箇所に記された事、特にモーセの五書に記されている事を正しく理解する事が聖書を理解するには

必要がある事が分かって来ると思います。

1世紀当時の人達、詰まり福音書以降に登場して来る当時の人達イエシュアからモーセの五書=父の教えを聞いた人達は、皆モーセの五書を理解して、イエシュアの話を聞いていた事を念頭に置いて下さい。

そしてその人達はもれなく、現代の様な教え〜モーセの五書=古い律法は廃れたなどと言う神に対する冒涜=罪などを言ったりやったりする人達はいない、誰もが聖書を熱心に調べている〜書かれているのは、モーセの五書、預言書、諸書を学んでいた人達なのです。

この事実が見えてくると、福音書以降には、前の古い律法が終わり、新しい教え、新しい契約の別の教えがイエシュアにより、

又は使徒達やパウロにより教えられていると言う神話が書かれてさえもいない事に気が付く理解に至る事が出来ます。

福音書以降で、神の教えが自由になり、ゆるゆるに変わった

人の判断で確信で神の言葉とは違う場合でも人の確信の方が勝る

から神の言葉とは異なってもその人の確信する事を選べば良い

などと解説されている箇所は全て1000%書かれている内容を正しく理解しないまま人の思想〜ダービー思想を土台に聖書解説しているものであり、聖書の記述とは全く異なる解説がされてしまっているものなのです。でもその事実をクリスチャンは知らないまま、人の教えで塗り替えられた不真実な聖書解説を聞かされてしまっている事にも気が付いていないと思います。

 

教師は間違った事は言わないと言う神話は捨てて下さい。

警告されている通りの事が起きるのです。

1テモテ1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の

言っていることも主張していることも、わからないでいる。

 

20世紀に、人の思想=ダービー思想で聖書の記述が更に塗り替えられ、人の思想=神学教理がアメリカに爆発的に浸透してしまったのは、教師達がこぞって肉の耳にアピールする聖書とは異なるダービー思想に飛びつき、人間の思想取り入れ、その様な教えが神学校の講壇から教えられ、そしてそこで学んだ教師達から一般の信徒は聖書とは違う教えを教えられてしまったからなのです。

そんな事ある訳ないと思うでしょう。でも考えてみれば分かります。肉にアピールする教え、アメリカのメガチャーチなどでも、聖書とは全く関係ない事を教えているのに、何万と言う信者が集まり、繁栄の神学やら、奇跡、癒しが与えられるから献金せよなどと言われ、神の言葉に根付いて生きる事など学ばない、イエシュアの名を利用した新興宗教が蔓延っているでしょう。

大勢が魅了され、引き寄せられるから、それが神の伝える真理などではない。逆に神の言葉に熱心に聞いて根付いて生きる方が

稀であることを教えているではないですか。

肉にアピールする事、自分の都合や心情に同意してくれる教えに

人は惹かれて行くからです。

個人批判ではなく、聖書とは異なる事、神が言われる事と違う

事を唱える事は神により禁じられている事は聖書を読めば明らかに理解出来る事実です。

神の言葉の真実が語られないまま、真実ではない人間の教えで塗り替えられた教えが神の言葉であると言う大冒涜に神は1900年以上忍耐され続けておられますが、その嘘の教えは終わり!と言う時が来る事も預言されているのです。

聖書の中身が全部理解出来なくてもこの事実を知っておけば良いのです。

1 神の言葉は永遠普遍で変わらない。聖書を2つに分断する

思想こそ偽りの教えを伝えている事である。

2 神は神の言葉、約束、契約を途中で変えない。人間が神の

契約を破っても神は神のブリットを再更新し続けている。

3 贖い、救い、子羊の血は永遠の中に存在し完結済みであり

この世界の礎が創造される前から存在していると書かれている。私達もこの世の礎が造られる前から既に神により選ばれていたと理解不能な事が書かれています。

4 エデンの園を出る前からアダムとハヴァは同じ子羊の血の

信仰義認、贖いの修復、罪の赦し、聖霊の臨在を内側に与えられている。

5 福音、救い、贖いは最初から同じで、別の救いや赦しや

神の元に戻る方法は、イエシュアを通して以外他に方法はない。

仮の救いや、仮の義、仮の罪の赦しと言う概念は聖書には無い。

永遠から永遠に同じ!神は人を即座に許し、赦しに富、恵みに富、憐れみ深く、愛であり永遠に変わらない神とイスラエルの神ご自身が人に紹介しているそれが真実です!神の教えとは異なる人の教えはやがて去らなくてはならない運命なのです。

2000年前にイエシュアが来られて色々な事〜聖霊が初めて人の内に住む事が始まったとか、教えが変化したと考えているから、神が伝える永遠の真実、同じ救い、贖い、同じ福音が最初からあり、教えられている事が聖書に書いてあるのに見えて来ないだけなのです。イエシュアが来られる前に生まれた人達も同じ

救い、贖い、赦し、恵、そして聖霊を内側に受けていたことが

タナック〜モーセの五書、預言書、諸書の至る所に記されているのです。

聖書の全てはイエシュアを指して語られているのです。聖書を読んで、最初の部分の75%の箇所を読んでその中の人達が神と

対話し、神と共に歩み、赦し、贖い、新しくされた事実に感動し賛美している、その記録がどうして読み取れないのでしょうか?

いや読んでないから、正しく読み取る事を学ばないから、分からないだけ、正しく聖書を教え手引きする人が周りにいないから

見えないだけです。

弟子達もタナックに記されたイエシュアの地上での処刑、復活

その他を正しく理解していなかった事が記されていますね。

イエシュアは復活された後、弟子達に何を話されましたか?

 

ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

 24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、

聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、

説きあかされた。

<聖書を記した人達全員、イエシュアの贖い、救いを知っていた

彼らも同じ救いを受け、未来に来られるイエシュアをタナックに

記していたのです。>

イエシュアは福音書以降の記録を話しているのではない、

聖書=モーセの五書、預言書、諸書から弟子達に諭し教えている事が書いてあるでしょう!!

そこにイエシュアに関する全てが書かれているからです。

だから、古代の人、1世紀の人々もタナックに記された約束の救い主をずっと待望していたのです。書かれている事を理解していた人達は、知っていた。

トラー、預言書、諸書に記されたイエシュアが実際に肉体を取って来られた、これが終わりの時代の出来事ですが、救い、贖いの

中身は何1つ変わってなどいません。

異邦人は、イエシュアが来られたからもう最初の部分の教えは

終わり!などと言うのですが、それこそがトラー教師になろうとしているのに、言っている事も分かってない、トラーの中身を

正しく知らない!と警告されているまさにその事なのです。

しかも、その様な事を言う場合、福音書以降に書かれている教えは100%モーセの五書である事に気がついていないまま、別の

新種の教えが書かれていると完全な誤解をしているのです。

タナックを知るユダヤ人が1度も福音書以降を読まなくても

もし読んだらそこに書かれているのは新種の教えなどと異邦人が

考える様な事を考えません。なぜならそこにはモーセの五書

預言書の抜粋しか書かれていないからです。

 

神=言葉=聖霊=イエシュアと言う意味を理解しない人が、

聖書信仰重視は悪いこと!などと解説していましたが、驚くばかりにズレた思想です。聖書を記述した預言者や、当時の人でこの様に神の言葉の重さ=神=言葉と言う事を理解してない人は

いませんでした。神の言葉を蔑ろにする、又は神の言葉以外に

別の大事な何かがある〜それが聖霊により理解するなどと、それらしく聞こえる様に解説しますが、それって自分の中に思いついた、自分土台の基準、感覚やインスピレーション、思い付き、神の言葉に根拠のない発想やフィーリングに頼生きよと教える教えであり、異教徒思想〜新興宗教と同じです。

聖霊=言葉です。聖霊は神の言葉に反する教えはしません!!!

聖霊により書かれた神の言葉と言う意味を理解しないとならない。世界の全ては神の言葉により出現し、人は神の言葉で造られ神の霊=息を吹き入れられ生きるものとなり、そして神の口から出る1つ一つの言葉により生きる!と言う意味を理解しないと

ならないのです。

どのレベルでも神の言葉から自分の意識を逸らせる教えは、エデンの園の蛇の声です。トリック満載。それらしく思わせて、神の言葉から人の意識をそらせる、神の言われた事以外何か大事な事があると思わせた、それがサタンの手口であると知っておいたら安全です。

だからクリスチャン教師がLGBTQに反対しない、いや賛成、

同調、受け入れるのが愛などと、神の言葉を理解していない事を言い、罪を平気で歓迎までしている時代になったのです。

教皇が罪〜同性婚を祝福する最悪な時代に入ったからです。

鎧兜を捨て、安全な囲いに穴をあけ、敵を侵入させる。

神は神の言葉に忠実に覗き込んで神の考えている事を捉えて!

と教えているのです。

言葉=イエシュア同じです!私達は神の考えに神の言葉を通して繋がる、アクセス出来る様になっているのです。神の言葉を捨てたら神の考えを理解する事は出来ない。イエシュア=聖霊に導かれたいなら、神の言葉から神の語りかけを待つでしょう!?

神の言葉を読んで、そして確信を持つ。それは状況であったり、色々な判断要素がありますが、その時に神の語りかけ〜言葉を根拠にするでしょう。

本当に教える人が何を教えているのか分かっていないまま、自分の思想〜誰かの思想の代弁を語り、大事な事はキリストに導く事である!と言うのですが、神の言葉=イエシュアであり、神の言葉はどの箇所も全てイエシュアの実態であると言う事実が見えないままなのです。

正しいイエシュア像を語らず、偽のイエシュア像〜聖書に書かれていない変化する神、変化する神の言葉、時代のより人種により

異なる教え、異なる救い!それらは全部偽のイエシュア像、聖書ではない人の思想です。

プラス、メシアを信じさせる、イエシュアに出会う事これが大事だ!とそればかり強調する。そうです。生まれ変わる事、これは不可欠です。

イエシュアが神であると聖霊により教えられる事に至るには、

色々なプロセスがあります。

でも、その様なキリストに出会うだけでよい!と言う教えは、

その後の成長を全く忘れているのです!生まれたら放置。

野生児の様になるのでしょうか?異教徒のままになるのですか?

救いの最初生まれる事は不可欠ですが、聖書にはその後、神の民=聖なる民、祭司の国の民としての成長のこの世の旅路を神の言葉=聖霊に導かれて成長し成人となり、地の塩世の光として生きることが教えられているのです。そこがごっそり抜けている!

そして、約束の地に入る準備をする事が記されているのです。

初歩〜赤ちゃん時代でこの世の旅路が終わる〜成長も何もしない

神の教えを理解して生きて成長するに至らない、枯れたいちじくの木にはなってはならないのです。

ヘブル5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。

5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。

5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。

 

 

続く