旧約聖書がユダヤ教で新約聖書がキリスト教? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ネットの対談で、旧約聖書にはユダヤ教が書いてあり、新約聖書にはキリスト教が書いてあると言う解説をしているのを

見ました。

そして、もちろんその様な教えは聖書ではなく、ダービー思想を土台として考えている人間の思想です。旧約聖書は律法であり、ユダヤ人に与えられたものだから、異邦人には関係ないと言う定番の教えを語られていました。

 

聖書に書いてあるのは宗教〜イズム〜人の思想が混じった教え,

ユダヤ教やキリスト教が記されているのではなく、時代を超えて永遠普遍の純粋な神の言葉のみです!そして聖書の最初の箇所も後もどの箇所も100%モーセの五書を語り何も違う教えや新しい教えなど書いてない!と言う神の言葉の永遠の事実を知らないとならないのです。

大きな落とし穴は、聖書の最初の75%と最後に書かれた25%

とでは中身が違うと誤解している事なのです。クリスチャンは

そう教えられていて、それが本当だと信じているでしょう?

旧約の土台は新約に繋がっているが、新約聖書は、新しい契約であり、旧約聖書の教えとは違うなどと解説しています。

でもそれは聖書に記された事実などではありません。

 

1テモテ1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の

言っていることも主張していることも、わからないでいる。

 

2ペテロ3:16彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

上で解説している様に、人の思想を土台にする聖書解釈をする

その様な教育をされ続けた場合には、原典聖書に戻り、正しく聖書に記されている事を把握、理解、学ぶと言う土台が無いので

本当に聖書とはズレた解説をし続けても気がつけないのです。

人の思想を通して聖書を解説する教師に学べば、同じ様に人の思想=ダービー思想=モーセの五書終わりありきで聖書の全てを語る、そう言う教育を受けてしまったら、聖書に何が本当に書いてあるのか、原典聖書から学ぶ機会もなければ、どうして人の思想と聖書に書いてある事実の違いに教師が気がつけるのか、気がつけないのも無理ないのです。でも世界では異邦人の中でも今や

その人の思想を通して解説する内容が聖書ではないと言う事を

発見し、オリジナル聖書に戻り学ぶと言う事を多くの人達がする時代になって来ました。

古い教え〜タナック、モーセの五書に記されている教えを生きる事が無理だと分ったから 徳を積み上げると言う事はメシアが来られてから終わったと言う解説です。上の箇所で書いてある内容とピッタリ合っている、聖書を正しく理解していない解説をしているのです。これが重大問題なのです。

徳を積み上げて義とされるとか救いを得るとかそんな教えは

イスラエルの神のブリット=聖書には一つたりとも書かれてなどいません!

しかもイスラエルの神を悪者像に仕立て上げ、怒りの神だと言い

たい放題ダービーの言葉を復唱し続け、古代は律法をイスラエルに与えて、人間がいかに弱く神に至る事が出来ないとか、律法はどれだけ人間がダメかと言うことを教える為に神はイスラエルに与えられましたと言うのです。本当におかしな思想=酷いイスラエルの神像、ダービー思想を教師達がこぞって語り、聖書を正しく解説していないのです。

だから旧約聖書〜行いを生きる事、怒りの神の時代、恵が無い時代から、新約聖書は、新しくなり、キリスト教を語る、恵の時代

イエスを信じるだけで良い、メシア時代 新しい契約になったなどと解説しています。イエシュアは永遠から永遠に存在して昨日も今日も永遠に変わらないと言う聖書に書かれている事実を知らないのだと思います。

信じる〜聖霊を受けると言う事実はどの時代にも信仰による以外に可能ではない!と言う事を教師が知らないのでしょうか?

信じた人達は、神の1つ1つの言葉により生きる〜トラー=ブリット=父の教え=モーセの五書に書かれた教えを生きるとイエシュアが言われた意味が理解出来てないのです。

福音書以降に記されているのは、100%モーセの五書の短い

解説です。イエシュアは100%モーセの五書〜父の教えを教え

生きて、モーセの五書以外の新しい教えなど1つも教えてません。でもクリスチャンの世界ではイエシュアが新しい教えをして、律法を破棄したなどと教え続けていますが、聖書の記述に気がついてないだけです。

本当にこの様な教えが異邦人の世界に浸透して教えられ続けて

しまったらイエシュアが人に何を教えているのかも分からなく

なってしまったのです。イエシュアは人にトラー=モーセの五書を教えたのです。そして神の言葉を生きる様に教え自らトラーの実態を生きてお手本を見せたでしょう。それが誰も体験した事のない新しいことと書かれているのです。人類の中で神の造られた

本来の性質通りを生きた事をイエシュアが来られるまで誰も体験した事がないからです。新しい教えが出現したのではないのです。

教師がこぞってこの様な聖書とは違う教えをしていたら、一般の人は聖書では無い教えを聖書と信じてしまっているのです。

 

ユダヤ人がメシアを信じない、それはこの様な偽メシア像を異邦人が語り続ける弊害がある事にも原因があると気が付いたら良いのです。

だから、彼らメシアを知らないユダヤ人は、クリスチャンが赤と言ったら青と言う、三角と言ったら四角と言うこれくらい抵抗を

持っていると言う事を知った方が良いと思います。

神の言葉が終了したと思っている場合には、どんな風にも神の教えを変形する事が可能になります。もちろん人間が神の言葉を

否定したり、捨てたり、変えても、神の言葉は永遠の真実として消えない、固く立ちますから関係ないのですが、受け取る人の側で神を誤解し続けて行くと言う事が起きるのです。

 

脳内ジーザス〜イスラエルの神はこんな神ではないだろう〜と

言う空想を人はたくさん持っているのです。自分のイエス様は

こんなこと言わない、されないと空想しているのですが、聖書に書いてあるのがイスラエルの神です。

クリスチャン教師が、自分も安息日を祝うのだろうか、きよくない動物を食べてはダメなのか?と聖書を読み、疑問を持ったと

言われましたが、そうです。神の言葉を素直に受け取る人には

神の真実の声がダイレクトに聞こえてきます。人の言い訳や解釈で神の言葉は異邦人には関係ないと言い続けますが、神が言われた事はそのまま真実です。きたない食べ物〜人間の食べ物として

創造されていない動物は菌、毒、ウイルスが体内に満載です。

細胞、臓器に害を与え、人を通して環境に疫病を撒き散らすものなのです。人間が食するのは毒、それらは人間の食べ物ではないい、すごいシンプルな事実を神が人に伝えているだけなのに、

異邦人は大抵抗するのです。調べてみれば良いのです。

レビ記11章に書かれた、きよくない動物がどんな性質の動物か。分かればそんなもの2度と食べたいと思わないし、神がそれらを食する事を忌み嫌う!と教えているのに、神の教えが廃れたと言う嘘の教えを信じる場合に、神の永遠の真実である言葉は

覆い隠されて自分の耳、頭脳には響かなくなるでしょう。

危険なものを危険!と教えているのに。神の宮である人は汚れたものを取り入れてはダメ。それらはあなたの性質に反する事!と

神が教えていても受け取らず、拒絶するのです。

神の教えが難しいと言う主張は、自分の都合を土台にしているからです。もし、ネズミ、ワニ、猫を食べてはダメ!と言われて

それらの教えは厳しい難しいと考えますか?だったらどうして豚は人間の食べ物ではないと神が言う事がそんなに難しい感じるのでしょう?

それは自分の都合、大好きな事を取り上げられるから抵抗感じるだけなのです。全部自分中心の都合!イスラエルの神の教え、聖なる民ではない生き方、異教神の世界の慣わしで生きて来たからなのです。でも神はそれらの動物は汚れた動物の代表としてずっと教えており、神殿に持ち込めない、神の祭壇の上にも捧げられない代物であり、神の宮に取り入れてはならないものであると書いてある意味を理解出来ないと思います。

何でもかんでも取り入れて良いと教えられる場合には、神が伝える聖別の意味など永遠に理解出来ませんが、そんな難しい事などではないのです。

神が創造された一つ1つには目的があります。そして神の子らは

神が忌み嫌われる生き方を食べ物を通しても、記念日を通しても

何を通してもしない、いやしたくないでしょう。

神が教えている意味が理解出来て分かれば。

人は肉の耳に、頭脳に、好みに都合の良い事を好むものなのです。理由を付けて。神の宮と言うなら神の宮には何を取り入れられないのか、聖書から気が付く必要があるのです。

神の警告を神の愛と受け止められないほど、ズレた思考回路に

なってしまうのです。

 

神の記念日も同じです。神の聖別された日を汚すな!と言われても耳に頭脳に響かないです。

気が付いていないだけで、人間が考えた日を神は神の記念日、

聖別された日などとは永遠に制定しませんし、神が聖別していない日に、神は神の子らを呼び出してもいません。。

誕生日や結婚記念日、女性の日や、国の記念日など、それらは

人が考えた日であり、それが大事と思う人は個人個人それぞれが自由に祝えば良いのです。神の子らが全員集合する日ではない

個人の記念日です。そして宗教〜人間が作った記念日も神が創造され聖別された記念日、神が神の子ら皆を集めて呼び出して共に祝う様に言われたものではないのです。

人が編み出した宗教の記念日を神は聖別していないし、それらは主の日でもないヤラベアムの罪とある、1列王記12:24-33に書かれたものもそれと同じです。神が聖別していない記念日を、

元の記念日の日を別の日にすり替えて、そして、神が禁じている

事をした、レビ族ではない人を祭司とし、エルサレムではない場所に祭壇を築いてコルバンを捧げ、2つの金の子牛を作り、自分の思いついた別の月に仮庵の祭りをしていた事が書かれています。どうして今の時代、神のシャバットを第7日目ではなく、別の日に神が変更したと言い続け、このヤラベアムの罪高き所の礼拝〜人間が思いついた方法で神を礼拝する事が、今の時代の正義などと言えるのか、その方が不思議な事なのです。

いつ集まっても自由でありフェローシップは大事です。でも神が

聖別していない日を聖日、主の日と呼べない、呼んではならないそれは神が伝える事実ではないからです。偽証してはならないからです。

神はその日に人を呼び出していない、神が聖別した日以外を聖別などしていない、レビ記23章にいつイスラエルの神が神の子らを呼び出しているのか、永遠の証拠として伝えているでしょう?

人が勝手に変えてもそれは神の前に何の意味もないのです。

 

伝統で長年浸透した事に対しては何も疑問にも思わないのですが

その中身、どうして神の記念日が変えられてしまった事実を吟味したら、それは神の仰せなのか、どうか、更にはどうして

神の仰せを無視して、却下して人の編み出した教えや記念日を

生きるのが今の時代の義とされてしまうのか、そんな疑問も湧かないほど、伝統が浸透しているです。

 

その様に聖書に照らし合わせれば分かる事がどうして分からないのか、神が呼び出している日、聖なる集会日を異邦人は無視して平気なのか、それはその様にする事が昇天以降の新しい時代の

正義と教えられているからです。神の教えではないものが浸透してしまったからです。人の教えが神の教えを遮り妨害している事に全く気が付かないままなのです。

 

多分イエシュアが戻られたらトラーを全世界が生きる時代が本当に来ると信じていないのだと思います。それがエレミヤ31章の預言であるとも気が付いていないのです。エレミヤ31章の新しい契約とは、シナイ山で与えられたブリットとは別の違う契約であり、中身が違うと信じているのですが、そんな別の契約は現実に存在もしません。神のブリットを否定して自由に生きる

聖霊に導かれて生きる契約など存在しません。

聖霊=トラー=シナイ山の契約である事に、聖書の記述から気が付いていないのです。それが異邦人の世界の聖書とはズレた聖書解説、2ペテロ3:16にある警告、無理な解釈を施して自分の滅亡を招いている!と言うことなのです。

 

なぜなら、この地上でイエシュアが世界を統治する時には、クリスチャンだけ天に上げられて居ないからと言うダービーの空想を信じているから、自分には関係ないと言えるのですが、聖書と空想話=人の思想の区別がつかなくなってしまったほど、それほど神の言葉、教えから遠く遠く離れた思想を植え付けられ続けて来た弊害があるのです。天でも同じトラーを生きる。

やがて天と地が1つになる時が来るのです。

 

 

 

続く