静かで小さな神の声に耳を傾ける | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1週間はあっと言う間に巡りますが、金曜日になると気持ちも

体も休む、止まるモードに入ります。

その前に準備ですが、1週間はシャバット〜神が聖別された日を

中心に生活の色々をプランして行く様にデザインされています。

 

巷に流れる多くの教えは、聖書とは異なる解説がされていて、

それが神の教えだと勘違いされています。

でも、神は神の言葉と言う永遠普遍の根拠を与えています。

 

1列王記19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

 

静かな細い声と書かれているこの箇所を説明してもらったのは、

エン ゲデイと言うネゲブ(南部)にある塩の海(死海)がある場所に、荒野の中を入って行くと、カラカラに乾いた地なのに、

湧水と、小川が流れています。皆んなでワイワイ話しながら歩くと分からないのですが、一人静かに歩くと、その川のせせらぎの

静かな音が聞こえてくるのです。耳を澄まして聞く。

 

世間の中に流れる様々な情報から真実を聞き分ける。神の言葉に

書かれた永遠の真実を聞き分ける訓練、これが荒野で行われた

神と共に過ごしたイスラエルの40年の旅路〜約束の地に入るまでの旅路です。

今日はシャバットで、荒野を旅している時もシャバットは、天から降る二日分のマナが、金曜日の昼間に降ったのです。

だから、その二日分のマナを必要なだけ集める。第7日目にはマナは降らないからです。普段の日は1日だけ。余分に集めると腐るものでした。だから、シャバットがいつであるか、皆知っていたのです。そして約束の地に入ってからは、ぴたりとマナが降らなくなり、地上の作物を食べる事になるのですが、シャバットがいつであるか聖なる民〜祭司の国の民はずっとシャバットをガードして今日のシャバットに至るのです。

 

イスラエルはイスラエルの神により選ばれた全世界の民族の代表

であり、神のブリット(契約)教え、言葉、福音を正しく世界へ

伝える役割を与えられた民族です。その役割を大分歴史の中で

失敗して来ましたが、神の選びは永遠に変わらないのです。

神はイスラエルと異邦人、又は時代ごとに別の教えや別の契約など与えていません。これがクリスチャンの世界で大きく大きく誤解している事なのです。

神の暦は正確です。全てが7を巡り創造されています。

7日7週、7年のシュミタ年、7年を7回繰り返すヨベルの年。

全て解放をもたらす事を教えているものです。神の記念日も7です。シャバット7日目、これから来る過越の祭りも7日間の種無しパンを食べる、そして7週間、7回のシャバットを経てシャヴオートの祭り(ペンテコステ)が来るのです。

仮庵の祭りも7日間。全部7。

6000年と1000年。7000年。全部神が7と言う数字に

意味があり、デザインされています。

 

神が聖別された記念日は特別な日であり、人間が創造して定めた日ではない。神の聖別された日を人間は創造出来ないし、神が

聖別されていない日を人間が聖別する事も出来ないのです。

 

この様なシンプルな事実を理解する必要があるのです。

宗教の教えの世界で作られた教えや記念日は神が命じたものではない、神の教えではないシンプルな永遠の事実がそこにはあるのです。神が一度言われたらそれは真実です。神が永遠と1度言われたら途中で変化などしない。神は神の言葉は永遠に固く立つと言われたのに途中で廃るわけないのです。神は創造の最初に

シャバット〜第七日目だけを週の中で唯一特別な名前を付けて、そしてその日を聖別し、その日を祝福されたのです。

第一日目〜第6日目は聖別していない、祝福していない、特別な神との会見の日ではない普段の労働日として創造されました。

 

創世記2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。

神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

神が神の子らを呼び出している特別の召集日〜記念日〜聖別された日は神が決めた暦に沿って行われるものです。

どの日でも今でもずっと神は信じる人の中に住まい、私達も神の

中に居るのです。感じないけれど。

でも、どの日も特別な日では無いのです。普通の労働日があり、

神が定めた特別に聖別された日に神の子らは神と会見する祝いの日を設けているのです。毎日が記念日、毎日が宴会なんてあり得ないでしょう?特別な日が設けられているから、それに向けて

心待ちにし、準備し、楽しみにする。そしてそこで神と人と特別な出会いを神が用意しているのです。

どの日も安息日などと言う解説はパウロの書いた事を完全に誤解しているからです。ローマ14:5ではパウロの意見を述べていて、神の聖別されたレビ記23章の記念日の事など1つも話してなどいないのです。大体イエシュアに遣わされたパウロがモーセの五書を否定した教えを人にするわけなどあり得ない、パウロは生涯死ぬまで1000%モーセの五書に忠実であったパリサイの中のパリサイ〜であったのです。

使徒21章、〜モーセの五書に1000%忠実である証明をするために、請願を神殿で30日と大金をかけて果たした。

使徒23:6パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、

「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。

パリサイの子=モーセの五書に忠実に生きている!と言う意味です。

第三者が勝手にパウロと言う人物を語るのではなく、パウロの

本人の宣言がパウロの立場を明らかに表しているのです。パウロは生涯1000%モーセの五書に反した教えや生き方をしてない、1000%忠実にモーセの五書の教えを生きて、人にも教えた!それがパウロの本当の人物像、姿です。

巷に流れる神の言葉に対する嘘、偽証の方を消さないとならないのです。

聖書を書いてある通りに信じないならば、神の教えなど理解出来なくなってしまい、人がうまい具合に解説する教えが真実であると騙されてしまいます。

今やネットで自由自在に動画や記事を出して、それぞれが聞いてきた教えを通して聖書解説が数多くされていますが、異邦人クリスチャンの世界での主流の教えは、ダービー思想を土台として教えをとして聖書を曲げて解説しているのが主流です。

一番の問題はこれだと思います。下矢印

 

1テモテ1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の

言っていることも主張していることも、わからないでいる。

聖書は、タナック〜モーセの五書、預言書、諸書です。

福音書以降はこの時記されている途中であり聖書として読まれてもいない、存在していない、認識もされていない時代です。

詰まり、聖書教師とはタナックを熟知し、理解し、神の言葉が

永遠不変であり、時代ごと、人種ごとに違う教えなどと言う

考えなど無いのです。福音書以降はタナックの短い解説なのです。新しい契約でも新しい教えでも、なんでもない!同じ!

聖書に対する大きな勘違いは、神が最初イスラエルに厳しくて

生きられない律法を与えた。そして、メシアが来られる迄は、

この律法をイスラエルはかろうじて生きて、行いにより救われるとか、認められたなどと言う教えをするのですが、この時点で

聖書=神の言葉を正しく理解していない事は明らかなのです。

 

神は最初からトラー=ブリット=モーセの五書を人に与えたのは人がこれを生きて神に義と認められるものなどと言う目的など

1度もない、そんな事神は教えてもいないからです。

神の言葉に書かれているのは、律法ではなく、神に造られた神の

性質通り、人間がどう生きるのかが神が人に教えられている、神の教えインストラクションだけです。

そしてトラーにはメシアが最初から記されている。最初から福音は教えられている。最初から子羊の贖いの血は永遠の中に完結して存在している事が記されているのです。記されているだけではなく、アダムとハヴァがエデンを出た直後から神は人と共に住まい、語り、関係を戻している。朽ちる体になっても、直接神を見る事が出来ない状態になっても、神は人の中に住まった事実が

トラーには記されています。

これが理解出来ない場合、聖書を曲げて解説するのです。

ダービー思想で。その方が肉の頭脳、目耳には理解しやすい教えだからです。でもそれは神の教えではありません。

こう言う解説が一般的です。

律法に行いにより救われる事から、昇天以降は、イエスを信じるだけで救われるに変わった!この教えは人間の教えであり聖書ではありません。

これ聖書の教えではなく、異邦人教父たち、ダービー思想です。

聖書ではありません!!!この事実を捉えないと聖書は見えません。聖書に書いてある意味を理解してないのです。

最初から同じ!誰一人イエシュアを通して以外神の元に来ることは出来ないからです。

 

ガラテヤ3:8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。

ヨハネ8:56あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

 

信仰義認とは、最初から同じです。それがアヴラハムを通して神が人類に証明したのです。アダムとハヴァから同じ!

そして、この様に解説します。

ガラテヤ 3:24 このようにしてトラーは、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。

この箇所は以前に解説した箇所ですが、トラー=神の教え、契約には様々な側面があるのです。神を知らない、信じない時も、

もし周りにトラーを生きる家族、コミュニテイが居れば、彼らの教え、生き方により子供達は守られているのです。LGBTQがどうして罪なのか、トラーを理解する人ははっきり何が罪であるのか神が罪の定義をトラーに記して伝えているので理解出来るからその様なおぞましい生き方は人間の生き方ではない、死に値する罪であり、神のデザインされた人間を男女に造られた人間の生き方ではない、そんな事を生きる人が大半になれば、人類は子孫が

生まれなくなります。そう言う事です。だから救われる前は、神の言葉はやがて聖書に書かれた事により、神に対して目が開かれるための1側面がトラーにはあると、ここの24節では言っているのです。

それなのに25節を読んで、もう養育係のもとにいないと言う意味はもうモーセの五書の教えは無用になったと考えているのですが、パウロの解説を正しく理解していないのです。1つは当時のガラテヤの人々の生きていた世界では裕福な家には家庭教師が

家にいて、その人が本当の教師の元に子息を連れて行く役割をしていたのです。

家庭教師、召使が教師の元に子息を連れて行ったらその後はその役割は終わり、他の仕事を仕える家でするのです。だから、神に出会うと言う事実を内側に得たら、その面でのトラーの役割は終わるのです。でもその後のトラーの役割が終わるのでは無いのです。今度は、救われた〜神の国の一員となったら、神の国に生きる事をトラーを通して教えられると言うトラーの役割があるのです。この様にパウロの書いている内容を正しく理解していない事が問題なのです。もしトラーが消えたら、神との関係を保証する証拠がなくなると言う事に聖書の神の言葉を理解していないからその様な事が平気で発想出来るのです。

これは殆どの異邦人クリスチャン教師が同じ事を解説します。

以前は、掟を守る時代でした、そしてメシアが来られてからは もう信じるだけで良いのです。行いにより救われる時代は終わりました。これもう本当に聖書ではありません!!!最初から行いにより人の手柄により、贖い救いを獲得する事など出来ないとはっきり聖書には書いてあるのに、どうして異邦人聖書教師は聖書を理解していないのでしょうか?そうです。聖書ではなくダービー思想の解説ばかりを読んでいるからです。その様な解説をする人が、リビングバイブルを読んでいるそうですが、リビングバイブルは註解書と同じで人の思想が混ぜられている意訳満載です。

元の言語の意味を反映していないからです。

本当に問題なのは、教える人が原典聖書に何が書かれているのかまるで知らない事なのです。翻訳聖書だけを読んで、モーセの五書=神の言葉を否定する思想を信じていたら、大元の本物、ヘブライ聖書に記された事実の正しい聖書解説などは出来ません。

 
2ペテロ3:16彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
1テモテ4:13 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。

 

シャバットは、契約=ブリット〜神との関係にある印として神が

人に与えました。イスラエルを代表として与えましたが、神の教えは、異邦人、男女、使用人、動物、すべて!一緒に止まり祝う

のがシャバットである!と教えています。

 

Shabbat Shalom

 

純粋に主を愛している!とする人も神の言葉を平気で捨てて

自分には関係ないと思っている、それは人が編み出した聖書とは異なる思想=妨害のせいなのです。静かに流れる小川のせせらぎを聞く様に、永遠普遍である神の言葉がはどの箇所も今も真実に

一人一人に語られているのです。