ミシュカン 仮庵〜私達の中に主が住まう事を最初から教えている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2コリント5:1 わたしたちの住んでいる地上のミシュカン=幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

 5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。

5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。

5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

 

朽ちる体〜ミシュカンで、そしてやがて約束の地に入るのに

どうして今この世の旅路をこの朽ちる体で歩むのだろう〜?と

考えますよね。約束の地=天に住まう事にすぐ救われても移行

しないのはなぜだろうと思うのです。

 

この世での旅路は、約束の地にやがて入る準備期間です。ここで

生きている全ては、見えない天の現実を実は今私達は天の現実

永遠の中を地上で歩んでいるのです。

イエシュアがやがて到来する、その前に天に戻るかもしれない

ですが、やがて来る日、皆で神の統治する国に住まう日が来る

までの準備期間です。

 

準備期間中である事を、イエシュアも言われましたね。

 

ヨハネ14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。

もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。

あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。

14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。

わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

 

ユダヤ人の婚姻の一連と重なります。私達は神のものとなったけれど、未だこの地上で生きています。花嫁とされた場合も婚約期間があり、その間正式に花嫁となったのと同様に扱われるのです。やがて再臨される時、子羊の婚姻の宴がある。

それを仮庵の祭りでも表される7日間の祭りと重なるのです。

8日目に入る〜永遠に神と共に1つの神の大家族が生きる時代に

入る。シナイ山での儀式も、神のものとされた娶られたとある通りです。でもまだ神と顔と顔を合わせて生きているのではない。

見えないまま、神の臨在が内側に住み、そして私達も神の中に在る、婚姻準備期間〜地上の旅路です。

 

これから来る過ぎ越しの祭りは、贖われ、娶られ、新しく復活の命を与えられ、罪が削ぎ落とされた人=マッツア=種無しパンになり、そして婚姻契約を貰うまでの7週間の新しい人として成長する強化週間を生きる〜7回のシャバット=7週=7=完全

そしてシャブオート(ペンテコステ)の祭りを迎えるのです。

聖霊降臨祭ではありません。 異邦人が勝手に神の祭りの名前を

変えてしまうので、何の祭りか分からなくなっているのです。

シナイ山のペンテコステの方がよっぽどすごい事が起きていたのですよ。なぜなら天がそのまま降りて来て、しかもイエシュアも

降りてきて、モーセと70人の長老は、ブリット=婚姻契約を

受け取った儀式、祝宴を天の中〜シナイ山の頂上〜天が降りてきた場所で、実際にイエシュアと共に飲み食いの大宴会を行ったと書いてあるのです。使徒2章は、今度は世界へ同じブリットが伝えられる大きな幕開け!それだけが違いでシャヴオート(ペンテコステ)の祭りは同じ主旨の祭りなのです。神から婚姻契約を

花嫁として正式に受け取った祭り!!!!

勝手に聖書の中身を変えてはならないのです。

聖書に書いてあるイスラエルの歴史を通して神はその事を

教えています。

シナイ山で神からのブリット〜婚姻契約書を受け取り、

神の花嫁とされた人は、神の家、神の臨在の中で神の子らしく

イエシュアらしく生きる様に1から教えられる旅路に招き入れられたのです。

これは神の家に招き入れられて、正式に神の花嫁としての証拠である文字で書かれた公的文書であり、神の家に属する人として

保証が約束されているものなのです。

神からのこのブリットを捨てよ!と教える教えをして神の言葉や教えを妨害しているのが人間の編み出した、神の律法は廃れた〜信じたらユダヤ的な事、一切やめよ!と言うAD363年のラオデキア会議での異邦人の発言なのです。神が言ったのではない。

ユダヤ的?イエシュアはユダヤ人である事、イエシュアはトラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約の中にある生き方を人に教えて生きた事、全く理解しない人が言う勝手で無知な発言に過ぎないのです。

しかも、異邦人西洋人が開いたニカイヤ会議、ラオデキヤ会議、

皆ユダヤ人など一人も参加していない、なぜなら、その会議は

反モーセの五書思想の上に成り立っている賛成している人のみが

参加しているからです。

神が創造された記念日は全てイエシュアの業、福音、私達のこの世での仮庵=ミシュカン=朽ちる体でも今既に神が臨在して

見えない天の現実の中に生きている事を体験的に学び、贖い救いの事実を再演しながら、学習するものであるのに、この祭りや

神の記念日を異邦人は捨てました。でもイエシュアが来られる

リハーサルを神の記念日を通してずっと教えられ、福音が凝縮された神の祭りを皆で祝う、祝う準備をする中にも神は色々な事を

教えるレッスンを搭載しているのです。神が創造された神の記念日〜レビ記23章が神が人を呼び出している召集している聖別

された日であり、それ以外は人間が人間を呼び出している、人間が作った記念日、これには大きな違いがあるのです。

神が聖別された日〜記念日と、人間が考えた記念日は神は聖別などしていない事実があるのです。よく考えて行けば聖書に基づき聖書を記した聖霊=神=イエシュアが教えて下さいます。

 

種無しパンの週や、過ぎ越しの祭りの準備でパン種除去掃除をするなど異邦人は知らないですよね。聖書に書いてあるでしょう。

その様にすること!過越が来る前にパン種除去する事神が教えているのですよ。

どうしてそんな事をするのか、やった人ならはっきり分かって来ます。新しくされた人の事実を教えているのです。そして自分ではパン種除去するのは不可能であることも分かります。色々な所にパン種が潜んでいるのを発見します。

神は賢い!人の知恵を遥か彼方に通り越しているのです。

その神の知恵を捨てる人間の愚かな教えは、本当に邪魔なものなのです。

天の国、天と地が1つになった暁には皆神の言葉〜トラーを生きる大家族になる事が聖書に書いてあるのに気が付かないのでしょうか?エレミヤ31章は、イエシュアが過ぎ越しの祭りの前で

再更新された同じブリット=婚姻契約=トラーは正にそれを語り、同じシナイ山で与えられたブリットを皆が腹の中に、頭脳に裏表全て神の教えを知り尽くして新しくされた人で生きる日が来る!と書いてあるのに、新しい契約〜モーセの五書とは別の教えなどとんでもない勘違いをした解説がされ続けてしまっているのです。

おかしいですよね!生贄は終わり〜!では未来預言でどうして

全世界がエルサレムの神殿に来て、イエシュアが統治する中

神の祭りを祝うのでしょうか?そこでは、当然コルバンが再び

捧げられ、皆で大宴会をする祭りが開かれると書いてあるのに。

エゼキエル46-48章、ぜカリヤ14章、イザヤ56章。

生贄〜コルバンが捧げられないのは、シンプルに神殿が崩壊されて存在しないから!!!それが理由なのです。使徒達が生きていた1世紀には昇天以降、シャバットに祭りにことあるごとに神殿でコルバンが捧げられていた事がはっきり記されています。

シャバット、祭りがあり、エルサレムに神殿が存在しているなら、そこでコルバンが捧げ続けられたのです。昇天後も何も変わりなく。事実、使徒2章のシャヴオート(ペンテコステ)の祭りでも動物のコルバンが捧げられ、種ありパンが捧げられた事実が

あるのです。祭りが祝われている事、使徒に記録があるでしょう。パウロの所管にもあります。その意味は、動物のコルバンが

エルサレムの神殿で昇天以降も変わらず捧げられていた証拠があるのです。今それが出来ないのは神殿がないから。神殿の祭壇以外でコルバンを捧げてはならない!神の教えがあるからです。

 

コルバンには動物だけではなく、穀物のコルバンもあり1つ1つに意味があり、イエシュアの業、神の大家族、新しくされた人

神の中に取り戻されている事実、様々な福音の側面を教えているものなのです。これは大きなトピックなので、それら1つ1つが

何を意味して教えられているのか、学ぶ必要があるのです。

それらの意味を神が伝える通りに教えられないから、見えない、分からないだけです。動物の血は人の罪を消さない!と言う大前提を理解すれば、それらコルバンは罪の赦しではなく、イエシュアにより罪が許されている事実を教える学習ツールです。そして実際に自分で動物を屠ったらどんな体験をしますか?手には動物の毛から来る匂いが付いて洗っても何日もなかなか取れないものです。動物が暴れているのを祭司が抑えて手伝い実際には、自分で自分の動物を屠るのですよ。想像できますか??

一生忘れられませんよね。もしそんな体験1度でもすれば。

そうすると、そのズレ、罪の代償がどんなものかはっきり分かる

でしょう。罪には必ず誰かの痛み、破壊、悲しみ、犠牲が伴う。2度と馬鹿馬鹿しい罪、ズレた生き方はしない!それには戻らない!と決意も出来る、いやおのずとその様な決意になるのです。

そして、罪許されている事実は、イエシュアの贖いの血であり

その影である動物を通して表されているのです。そして屠られた

動物は祭司と自分達と皆で宴会のBBQとして食べる。

神と人との和解の後は清々しい気持ちで宴会、喜び交わりを皆で

共有するのです。だから、過去は動物の血で一時的に罪が許されたと言うのは聖書の教えではありません!そんな目的のために

コルバンがあるからではないからです。体験的学習〜目に見えない神の家に住まう練習をしているのです。今。

でも今は神殿はないしエルサレム周辺に住む人しか行けなかったのですが、そこで教えられる事は実際の生活の中でそれぞれが

同じ事を学び知るのです。

 

クリスチャンは神の宮と言うならば、神の宮には、物理的に相応しくないものを取り入れたり出来ない!相応しくない状態で神の宮には入れない事が教えられていているのです。それら神の教えを知れば、全然違う世界が教えられている事に気が付きます。

今はなんでも取り入れて良いなどと言う教えは、聖別=区別、境界線〜割礼〜新しくされた人の事実を正しく理解しない、異教神の世界の人が考える思想です。聖書に書かれている意味を正しく理解していないのです。

聖別と言う神が伝える意味が分かっていないからです。

福音は、イエシュアは最初から神のミシュカンで教えられているのです。エデンの園から同じ。神により口頭で同じ教えを教えられ続けて来た同じ神の教え、言葉、それが文字になったものが

ブリット=モーセの五書 聖書なのです。

 

大事なもの〜神の言葉が何であるか全く理解しない場合は、

真珠ダイアモンドをドブにポイしてにする様に平気でそんな事を教えられるのです。

神を知ると言う言葉は、神の言葉を通して、世界の全ては神の

言葉で造られ、神は人と神の伝える言葉を通して神を知る様に

デザインされているのです。神の言葉を捨てたら、その大部分を捨てたら、神に教えられている事が何か分からない。だから人が勝手な思想を編み出し続けて、宗教の教えを作り上げて行く事をし続けているのです。

どうして聖書を読んでいるのでしょうか?神からの語りかけを知りたいからですよね。神が神の言葉を熱心に慕い求め続けなさいと人に教えているからでしょう。聖書のどの箇所を読んでも、

それらは10000%モーセの五書=父の教えに繋がっている事気が付いていますか?

モーセの五書に無い神の教えなど1つも聖書には書かれていないのです。聖書のどの箇所も全て1000%モーセの五書を解説しているからです。

天の神の家に住まう事の全てをこの地上で、朽ちる体であるのにも関わらず、今約束の地に入る前に既に神はこの土の器の中に共に住って下さっているのです。

そして私達は既にこの世に居ながら実は神の中に居る、天の現実の中に居る。感じなくても。天に上げられるとは、この息が

ふいっと取られるだけでしょう!?隣の部屋に行く様に、移行する。いやもう天の現実の中にいる。ヨハネ17章のイエシュアの祈りの中にもそれが語られています。この世にあってこの世のものではない、既に神の中にいて、神も私たちの中にいる、不思議な存在。そして神の家に住まう事を神の言葉=教えを通して1つ1つ教えられているのに、その神の言葉を捨てたら何を神に教えられているのか不明になるのは当然の結末なのです。

 

神は私達を聖なる民〜神の家、神の中に住まう事を今この地上で教えているのです。やがて主と会い住まう日までのリハーサル。

聖なる民の性質と、神が人の中に住まう事はミシュカン〜神の臨在がある家を通して教えているのです。最初からミシュカンの中でイエシュアの贖い救い許し恵祝福全てを教えているのです。

 

出エジプト29:42 これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。

わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。

29:43 また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。

29:44 わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。

またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。

29:45 わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神と

なるであろう。

 29:46 わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。

 

続く