人間が編み出した宗教の伝統と神の純粋な教えとは異なる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

バベルの塔で人間は神に成り替わろうと試み、世界を支配し、

神の場所に到達し神の座に座り、世界の四隅に増え広がる事を

阻止しようと考えました。シャマイム〜空と言うヘブライ語は天を表す言葉ですが、到達出来る限りが空にはあると言う事を古代の人は知っていたのでしょう。

人間が神の教え〜言葉を無視して、全てを複雑にして今に至るの

が、この地上での旅路、人間の歴史です。

最初の最初から、問題の根は原因は同じで変わらない。

神の言う事を人間がガード、ショマしないで、聖霊=神の言葉ではない、蛇の騙しの教えに耳を傾けている事です。

これは今に至るまで全く変わりません。

シンプルな事実を神が人に伝えています。

人間は神の言葉を変えられません。神の言葉は完全であり永遠

普遍である事実を人間が曲げると言う事は、人間の神に対する

理解認知が、神のキャラクター=実態、性質を曲げて考え、発言し続けてしまうことをしているのです。

人間が傲慢になり、人間の誇り、プライドをバベルの塔で自己顕示した事を今も神に対してしているのです。

 

ペテロには神の言葉を彼の判断で変えて良い権威〜人が神の言葉を人間の判断で変えて良い権威が与えられたと言う教えをされていますが、そんな事聖書には書いてない、神の言葉=教えと真逆の背信行為なのです。

古い教えを今も信じて生きている人がいる一方、神の言葉は今その人の判断で変えても良いと考える人もいるから、その人達の間で争いがあるなら、それはそれぞれが考える確信を生きれば良い時代なのです、などと言うのを聞きますが、それは言い争いが問題であって、神の教えを否定する事を良しとするなど、もってのほかの背教なのです。でもその様な解説を聞くと良い事を言っているともっともらしく聞こえてしまうのです。

 

聖書に何が書いてあるのでしょう?エデンの園から人が出てしまった〜神との隔たりが出来てしまった、神と顔と顔を合わせて

神の声を直接聞いて生きていた、その場所から飛び出てしまい、

本来居るべき場所ではない場所に閉じ込められた〜神から隔離された場所です。それがエジプトで奴隷として別の主人=王に仕えて生きてきたイスラエルで表されています。

そして、その場所〜神の中に戻る、エデンから出てエデンに戻る

事をずっと最初から最後まで教えているのです。

 

この世の旅路は仮庵〜ミシュカン〜移動式ポータブルの家であり私達の体も朽ちるもの、それがミシュカンで表されていますね。でもその朽ちる体、土の器の中に、聖霊=神が今臨在している

事実をミシュカンで最初から教えています。

2000年前に初めて聖霊が人の内側に住まう様になったと考えているのは、タナックに記された神の言葉を理解していないから

そう考えるのです。最初から神の臨在=聖霊は信じる人の内側に住まう事実が記されているのです。エデンを出てから直ぐに!

 

命の源=命が創造された源=神の言葉=聖霊=神の臨在が朽ちる体に宿る事実、それがミシュカンで表されています。

神の臨在がある場所で人は神と出会う=見えない神と神の言葉=

聖霊を通して人は会話し、繋がり、神の言葉を根拠に神との関係が成立、保証、されている。神の言葉を生きる事は神の性質通りを生きる事であり、神の創造された人〜神の似姿に造られた人

を通して神の栄光そのものが現れ出る事を教えているのです。

 

永遠の中に全てが存在していた。神は人がエデンの園を飛び出したから、慌てて救済策を考えたり、時代ごとに変化する別の救いの方法を用意したのではないのです。

最初から永遠から同じ!!!全部計算済みで全てを創造されて全てが物理的に地の表に現れ出たのです。ミシュカンでも表される通り、神の臨在に近づくのは、神との会話を神の家の中でして神と共に親しい関係で神の中に住まうのは、大祭司の贖いの血を

通してだけ成立する事が最初から教えられているのです。

だから大祭司一人だけが贖いの血を携えて至聖所に入れるのです。誰でも入れるのではない。至聖所の前にケラビムの絵がある

幕がかかっているのです。隔ての幕は通れり神の臨在=父の元に繋げられるのはイエシュアだけ。

その大祭司を表しているのが、天の大祭司、メルキゼデクの位に属するイエシュアなのです。地上のレビ族アロンの家系の男子はは天の大祭司の代行〜影です。

 

レビ族のアロンの家系の男子だけが大祭司になり、レビ族だけが

神の地上の神殿の祭司の任務が出来るのです。これ考えて行けば

分かります。どうして全世界で神が1つの民族だけを取り出したのか。それは、聖別を教えるため、異教の神々とは別、分たれている上に置かれている事を様々な人を通して教えているのです。

 

イスラエル〜聖なる民、祭司の国の民と書いてあります。

そして、私たちは生物学的にはイスラエルではないかもしれない

けれども、同じイエシュアを信仰により受け取る人はもれなく

同じ聖霊=神=イエシュアがこのミシュカン〜土の器の中に

住まわれる事実があるのです。だから同じイスラエルの神の

大家族に加えられた事実がずっと教えられているのです。ユダヤ人異邦人2つ別の群れ!と言うダービーの教えは人の考えついた教えであり、神の教え、事実ではありません。

それは、ノア、アヴラハム〜異邦人でしたが、彼らが取り出され

そしてアヴラハムは神に呼び出された時に、全世界の民族の父となり同じ救い、贖い〜祝福を人々にもたらすためと神が言われました。

一人を通して、全世界に祝福を与えられる。イエシュアを通して

全世界の人が神の元に戻る、その代表の人物=イスラエルを

神が選び出したです。それでなければ、異教徒の世界と何の区別も無い、全部異教の神々と混じった半端な教え、生き方をする

中途半端な混ぜ物、西洋と混じったら何がイスラエルの神の教え=本物か区別が付かないのです。それが聖別の意味。

境界線が敷かれている。神の目的通りの生き方をする。

 

そして、神の家の中に祭司がいるのは、地上で天の神の家、

大祭司〜神の家に住まう事の意味を教える代表者=地上の影として、本物の大祭司が来るまで、代わりにその役割を担う事を神が

与えたからです。

 

異邦人の世界で教えられる様に、神の教えは途中で変化などしません!人が神の言葉を勝手に変えてしまったから分らなくなる

区別が付かなくなるのです。人が編み出した宗教の伝統で教えられる事や実践は聖書とは異なるもの満載です。

 

そして、天の神の国の本物の慣わし、生き方、天の国を継承する聖なる民の生き方は神が教えているものであり、人が作り出した

教えなどでは無いのです。だから変になるのです。

神の言葉を人が変えるから、変形、曲がる、歪んでしまうのです。

神の言葉が変わったと思い込むのは、歴史線上に物事を考えていて、地上にイエシュアが来られて初めて本物の罪の贖いや救いが

聖霊が与えられたと思い込んでいるから聖書に記されている神の教えの事実が見えて来ないのです!!!最初から同じ!!!

目で見えるのか、見ないのか、未来に地上で表されるイエシュアの贖いの証明!これは永遠の中にもう終了して完結されているのです。でも人は、それを事実として目撃しない限り

はっきり証拠として掴めないから、全て神はイエシュアの業を

歴史の中で1つ1つ証明して下さっているのです。

でも福音〜贖われ救われ聖霊が内側に住む事実はどの時代の人にも与えられている!と言う事を聖書から理解すれば見えます。

 

そして、神の家〜の中で捧げられた動物のコルバンはイエシュアが来られるまでの仮の罪の赦しの代替え!と言うレビ記に書かれている内容を全く誤解したズレた前提から聖書を読んでいるから分からないままになるのです。

動物の血は人の罪を消さない!と言う永遠の事実がある。しか

世界の中で、エルサレムの神殿で一体どの位の人が動物を捧げれるのですか?ごく少数でしょう!そうすると古代神の許しや助けを受けられたのはごく少数?そんな訳ないのです。

神はどの時代のどの人にもアプローチ出来ます。ロバでさえ必要なら御使が見えて、人の言葉を話したのです!

イスラエルは神の家=聖なる民の生き方を教えられて他者へ教える役割を最初に与えられているのです。その人達〜イスララエルをまず訓練する必要があったのです。

コルバンには色々種類があってそれぞれが色々な側面があり、

罪の赦しに関する事だけではないのです。

動物で罪の赦しなど可能ではない。ではなぜそれらが行われているのか?それらは”影”です。イエシュアの業の意味を実体験で

教えるもの、教育ツール!動物の血が人の罪を消さない証拠に

昇天以降も神殿が存在する70ADまでずっと同じくコルバンが

捧げられ、パウロも使徒21章で、エルサレムの神殿で動物の

コルバンを捧げて、ナジル人の請願を果たし、使徒2章のシャヴオーとの祭でももちろん!神殿の中でコルバンが捧げられた!

シャバットや祭りにはコルバンが捧げられ、神の祭壇の上には

24/7絶え間なくコルバンが燃やされている。

その後もシャバットや他、祭りの時は神殿が存在している間は

動物のコルバンは変わらず捧げられていたのです。

だから、福音書〜黙示録を書いている記者は全員昇天以降、この

神殿で動物のコルバンが捧げられている事が当然としているのです。

今動物のコルバンが捧げられない理由は、エルサレムに神殿がないからであり、イエシュアが処刑され昇天されたからなどではありません。未来にイエシュアがエルサレムに戻られ再臨された暁には神殿で祭りが行われ、全世界の民族が神のシャバットや祭りを祝う事に戻り、そして、コルバンが神殿の祭壇の上に捧げられる事が聖書には記されています。

ちゃんと聖書に書いてある通りを読んで、神の言葉を勝手に寓話化したり、素通りしたり、作り替えた解説をしたり、否定したりしなければ、事実は永遠に神の言葉の中に証明されているのです。未来預言で神の神殿で動物のコルバンが捧げられる事がちゃんと教えられています!

エゼキエル46-48章、ぜカリヤ14章、イザヤ56章。

異邦人は神の言葉を余りにも軽く見る事を教えられてしまったのは1世紀後半以降、神の教えに反する、敵対する思想を持つ、

異邦人教師達の考え付いた教えが浸透し続けた結果なのです。

 

大体神の言葉を神に造られたにすぎない人間が変えて良いと考えている事自体、神の言葉、教えとはズレた場所で考えている〜

神の声の下ではない周波数ずれた場所に居る事に気が付くべきなのです。

人間が変えて良いほど、軽い神の言葉!???と遠回りに言っているのに気が付きませんか?この思想はものすごい背教なのです。

神の言葉に基けば。

間違った前提から聖書を読んでいるのです。1世紀当時、福音書以降が書かれている間に生きていたユダヤ人、ユダヤ人イエシュア信者で、現在の様なクリスチャンの世界で教えられている

神の言葉終わりありきで語る思想など、誰一人として考えても

いないし、西洋宗教の教えなど実践していません。

シャバットは、昇天が何曜日であろうと永遠に第七日目です。

一週間が7日である事実が永遠に変わらない様に、神は6日の間で全ての創造の業を終えて、第七日目を週の日で唯一聖別され、

止まられて、その日は神と人と共に代々永遠に祝う日と教えています。神との関係にある表向きに見える印は、シャバットです。

 

 

Shabbat Shalom