ミシュカン 朽ちる体と永遠に朽ちない体 神の臨在が宿る宮 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2ペテロ1:13 わたしがこのミシュカンにいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。

 1:14 それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこのミシュカンを脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。

 

出エジプトして、体はエジプトを出ても、以前のエジプトで学んだ生き方まま、イエシュアと共に死んだ人を頭脳の中に記憶として搭載したままで荒野に導かれました。

荒野の40年の主の臨在の中で主の声を聞いて、主が共に住まうこと、神の言葉=実態を生きる訓練を受けて、新しい人として

生きる事を神と共に生きて学ぶ人生の旅路を表しているのです。

 

この旅路の間、移動式ミシュカンは、異動のたびにたたまれて

持ち運ばれました。神が共にずっと人と共に生きて人の中に住って人を導いた事がこれでも教えられて証明されています。

荒野を付いて来た岩=救いの岩=水が溢れ出た岩=イエシュア。

エデンの園から世界の四隅に流れ出る生ける水=イエシュア。

雲と火の柱〜様々なものを通して、イエシュアを教えているのです。荒野のオアシス=湧き水もそうです。

 

脳回路〜自分の意識が入れ替わるためには、日々のたゆみない

注意深い生き方が必要である事が聖書には書かれています。

なぜなら、今までの生き方で学習して来た事は、すべて新しいものと入れ替わる作業を生きて続けない限り、脳回路は本当に物理的に何も変わらないからです。それが聖書に書いてあるのです。

 

だから、信じたらあれこれ生きなくて良いですよ〜と言う教えは、全然神の言う事を理解していないのです。神が言われた通り、神が与える本物の自己像〜神の似姿、雪より白くされている事実を、生きて学習し続けること!聖なる民の生き様を神の言葉により教えられて生きる!生きる事=キリスト=トラー=神の

言葉を生きる!と書いてあるからです。

 

エデンの園の中で神が言われた事を考えても見えます。

人が創造されて神の霊を吹き入れられ、生きるものとなった

その人は、何を神に言われましたか?

園を"シュマ”〜ガードするです!この部分が抜けてしまって

いるのです。園をガード、シュマする方法は神に聞く=シャマ

神の言葉=教えを聞いてその通りにガードして園を耕す!と言う事が書かれています。だから神の言葉=教えを捨てるとは、新しく生まれた!その後が抜けてしまっているのです。園をガード!耕すと言う言葉は、礼拝と訳されている言葉です。何をするにも神の前には礼拝なのです。

 

ちょっとピンとこない翻訳なのですが、神に造られた人はそれぞれが神の性質通りを生きる!それが礼拝!歌ったり踊ったり賛美したりそれだけが礼拝の意味ではないのです。

信じたらその後は厳しい教え=古い廃れた呪いの律法からイエシュアが解放して下さいましたから、もうそんな教えは生きなくて良いんですよ〜!それ人の教えであり、神が言った事ではないです。神の言葉が呪いの律法だと本気で考えている時点で聖書に書かれている神の言葉=教えを理解していないからそんな事考えつくのです。神の言葉は蜜より甘い!と書いてあるそれが見えない、分からないから。神がどんなに良いお方であり、正義であり永遠に変わりなく、公平であり、エコ贔屓なく、憐れみ深く、赦しに富んだ愛の神である事がタナックに記されているのに、それが見えないから律法〜呪い〜縛り〜古い〜無用!なんて言っているのです。

赤ちゃんがダイアモンドの価値が分からないから、舐めてみて

味しない、美味しくないからポイっと放り投げるのと同じです。

 

日々の中で、全然神の言葉を生きない人が、神の記念日に集まり祝うことに耐えられない!と神が言われたでしょう。

詰まり、普段神の言葉=教えを無視して生きているのに、神の祭りだけ祝うそんなズレた意識や状態、生き方で祝ってもそれは

神には耐えられないと書いてあるのです。イザヤ書1章。

 

出エジプトは過越で表されています。贖われた事実〜買い取られた、子羊の血の代価=だから、羊の門を通らないと誰も父の元に来ることが出来ないとイエシュアが言われたのです。

そして、過越の祭りで表される、贖いの事実、復活の命=大地から出る新しい命=初穂を祝う日でイエシュアの復活の命が最初から教えられているのです。アダマ=土から造られた人〜新しくされた人が、同じアダマ=大地から新しい初穂=イエシュアの命に

連なって生きる事実を神の創造から教えているのです。すごい!

それは、7日間、過越からずっと種無しパンを食べる7日の間で新しくされた事実を種無しパン=マッツアを食べる事で教えられているのです。ハメッツ=パン種=要らないものが削ぎ落とされた=マッツア。

そして過越から7週間、7回のシャバットを通して初穂が成長する週を数えて生きる、新しい人にされた事をインプット強化週です。そして7週目にシャブオート(ペンテコステ)の祭りが来る。ブリット=婚姻契約を花嫁として正式に受け取る祭りなのです。ペンテコステには、種無しパンではなく、パン種の入った

2つのパンが捧げられます。このパン種は=新しい人=イエシュアの性質を受け取った人を表しているのです。

ミシュカンは何で覆われていますか?動物の皮です。私達の体も皮膚で覆われています。ミシュカンは体を表しているのです。

創世記3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

神が人を皮で覆われた。イエシュアご自身で覆われたのです。

神が人の罪を覆われたとあるでしょう!!全部繋がっているのです。神が人の罪〜ずれてエデンから飛び出した人を皮で覆っている、子羊が屠られたから、皮が存在するのです。

パズルのピース=神の言葉を捨てたら、パズルの画像の全貌は

見えてこないのです。

出エジプトと、荒野の旅路、約束の地に入る事は、私達の人生の

旅路を表している事が分かりますか?

贖われ、救われ、神が神の言葉を生きる事を人に教えられる地上の旅路があり、やがて本物の神の国に住まう時を迎える〜約束の地に入る事です。

 

そして、ミシュカンも2段階。これは人間の体を表している事

ペテロの言葉にも書いてあります。

 

ミシュカンは最初、移動式ポータブルでしょう。頼りない吹けば飛ぶ様な、固定式ではないものです。これは何を表していますか?朽ちる体です。人はこの朽ちる限りのある体に今居て、

やがて、朽ちない体に変えられるでしょう。

でも、朽ちる体=人の体=ミシュカンに神の臨在が宿っている

ことを教えているのです。最初から人の中に神が住まう事を神は教えているのです。

荒野の旅路〜この世の旅路、約束の地〜やがて神と顔と顔を合わせて生きる約束の地に入る。

 

人は最初、神の息〜ネシマとありますが、息=霊=風=ルアフと

言う言葉でも表されるのです。人は神の霊=神の性質を吹き入れられて生きるものとなった、聖霊が住まうそれが人の本来の状態なのです。

この息と言う言葉は、吸う、吐くと言う言葉です。

息が取られたら人は死にますよね。神の霊が取り去られたら

死んだ状態=神から切り離された状態になる事を教えています。

体はすぐ死ななかったとある通り、でも本来の状態=神の霊から

切り離された場所に閉じ込められた、生きていても本来の状態ではない死んだ生き方になる、神との隔たりが出来たと言う事です。そして神を直接見る事も声も聞くことも出来なくなった

大きな分厚い超えられない壁が出来たのです。

でも、その朽ちる体、隔たりがあって見えないけれど、今その

朽ちる体に神の霊=聖霊が宿る、それを表しているのです。

 

朽ちない体は、約束の地イスラエルに入った後!エルサレムの

固定式石で出来た頑丈な神殿に作り変えられたもので表されています。

やがて、イエシュアはエルサレムのご自分の家=地上での神の家に戻られる時が来ます。

だからペテロの言っている意味が見えるでしょう。

ミシュカン=朽ちるミシュカンは、やがて朽ちないミシュカンになる。神の記念日〜祭りで表されていることでも分かります。

すべては神の臨在〜神の家=宮〜エルサレムを中心に教えられているのです。

春の祭りは地上で実際に起きて成就した出来事〜福音〜イエシュアの業を表しています。

過越、初穂、種無しパン、シャブオートの祭り。

贖われ救われ新しくされ、そして花嫁とされて神のブリットを

生きる、神の中で生きる。

秋の祭りはこれから来る再臨の一連を表す祭りです。

ヨムテルア〜王の到来を告げ知らせる目覚ましコール!

大贖罪日、そして仮庵の祭り。

仮庵の中、自分の仮の住まい、そして地上で実はイエシュアの中に朽ちる体でも住っていたけれど、実はこの仮庵はイエシュアご自身であり、そして私達も神の臨在が住まう神の宮であり、神の宮の中に神の臨在があり、そして私達も神の中に住まう〜地上での仮庵は実はイエシュアご自身の中に私達は住んでいた!これを教えているのです。

ミシュカンには神ご自身の臨在があり、神が天から下した火が

祭壇の上にいつも燃えているのです。私達を浄化する火。

そしてこの7日間の仮庵の後、独立した記念日第8日目の祝いが

あるのです。これは永遠に神の中に住まう事を表しているものなのです。神の記念日は全部福音、イエシュアの業を網羅して、

実際に生きて学習リハーサルするものであり、そして永遠の中に

神と共に住まう、全て預言的要素が搭載されている神が創造された記念日なのです。でもこれを異邦人は捨てる様に教えられたので祝う事をやめたのです。

 

地上で頼りない吹けば飛ぶ様な仮庵〜病気になったり、怪我したり色々不具合がある体=仮庵です。でもその仮のミシュカンの中に神の臨在が宿る事を教えているのがミシュカン〜神の家、

神殿なのです。

 

出エジプト26:7 また幕屋をおおう天幕のためにやぎの毛糸で幕を作らなければならない。すなわち幕十一枚を作り、

26:8 その一枚の幕の長さは三十キュビト、その一枚の幕の幅は四キュビトで、その十一枚の幕は同じ寸法でなければならない。26:9 そして、その幕五枚を一つに連ね合わせ、またその幕六枚を一つに連ね合わせて、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねなければならない。

 26:10 またその一連の端にある幕の縁に乳五十をつけ、他の一連の幕の縁にも乳五十をつけなさい。

26:11 そして青銅の輪五十を作り、その輪を乳に掛け、その天幕を連ね合わせて一つにし、

26:12 その天幕の幕の残りの垂れる部分、すなわちその残りの半幕を幕屋のうしろに垂れさせなければならない。

26:13 そして天幕の幕のたけで余るものの、こちらのキュビトと、あちらのキュビトとは、幕屋をおおうように、その両側のこちらとあちらとに垂れさせなければならない。

26:14 また、あかね染めの雄羊の皮で天幕のおおいと、じゅごんの皮でその上にかけるおおいとを造らなければならない。

 

神の臨在が人の中に宿る事をこのミシュカンを通して教えています。しかも荒野では実際に神の臨在を目で見る事が出来ました。

固定式神殿もそうです。

神の臨在はどこにありますか?荒野では雲の柱、火の柱がありましたし、神のこのミシュカンが稼働する時に天から直接降った火を皆が目撃し、その火は神の祭壇に24時間途絶えることなく

存在していました。

そして、神の指で刻んだ石の板が臨在の箱の中にありました。

神の臨在は神の家の一番奥の場所〜至聖所に設置されていました。これ、人間の体を表す、様々なものがミシュカンの中に

置かれていますし、神が教える命のパン、世の光〜メノーラも

この中にあります。1つ1つに意味があります。

 

神の臨在神の中に人も住まうと言う事、聖なる民がどうして

神の前にタメー、汚れたと訳されていますが、相応しくない状態が何であるのか事細かに教えています。

 

至聖所にある契約の箱の中には神の言葉が入っています。

これは命を生み出す源を表しているのです。言葉から全てが創造される、神=言葉=命の厳選だからです。

 

神の家の一番奥、至聖所にある契約の箱。

 

命を生み出す場所〜神の言葉に戻れ!と言うシグナルが

チャラビムで表されています。

そして、ヘブライ語で憐れみ〜とは”胎”と言う言葉と同じです。

ミシュカンの構造が人の体を表しているので、この契約の箱も

命を生み出す胎を表していると思います。

 

そして人は生ける水、イエシュアの中に住まう事を教えられている。最初から神の中に造られて、神の中に生きる様に教えられている。

臍帯は命を繋ぐもの、人は神の言葉=命の源に繋がれて生きる

様に造られている〜人は神の口から出る1つ1つの言葉により

生きる。

 

 

 

 

真ん中の幕は赤い皮。皮膚そっくり。三重構造。

 

神の火の柱、雲の柱。天から直接降った火でミシュカンが

稼働開始した。

 

神の臨在を皆でぐるっと囲む宿営。お互いを神の目、神が見ている通りを通して見る再学習の旅路