イエシュアは純粋な神の言葉=父の教え=トラー、モーセの五書しか語り、教え、生きませんでした。そして神の子らに同じ様にトラーを生きる様に教えているのです。今日も今も。
それなのに、イエシュア を愛する人達が神の言葉を攻撃し続け、退け、遠回しに、神の言葉から人の意識をそらせる教えを語り続けそれが正義だと思い込んでいるのです。
本当に蛇のトリックはすごいです。
嘘が良いものとしてすり替えられて紹介されている。この嘘に目覚める人たちそして多くのクリスチャンも神の言葉の永遠の真実を聖書の記述から再発見しているのです。
終わりの時代がきたからです。それが聖書に書いてあるのです。
ちょっと寄り道をして書いてみます。月は同じ月ですね。光!!
新月〜暗く全く見えないところから月がうっすら出てくる。
これが聖書の暦の第一日目です。この日は神の聖日であり、
祝い日である事聖書から知っていますか?
なんでだろう〜と思う。これ契約が更新され続ける事とつながるのです。神の契約は永遠!そして満月になる。満月の時に神の祭りがありますね。過越、仮庵!天の万象は神の記念日=モアデイムを司るために造られたと神が言われました。
そして満月を空に見て、今も神が与えた契約が有効である事を
イスラエルの神を知る人は知っているのです。
そして、又満月から新月に向かう時、だんだん月がかけて、
そして真っ暗で月が見えなくなります。
この暗さ分かりますか。神の永遠の真実がある時代、ある時期
ある人達には覆い隠されていて見えない状態になる、暗黒の時。
神の星も月も昼間は見えませんが、夜になると現れ出る、それとも繋がっています。
私もそうですが、神の言葉の真実を別の教えで覆い隠されていて見えませんでした。
でもやがて、その時代は終わり、再び神の永遠の真実、光=イエシュアの真実が全世界に表される時がやがて来るのです。
それが預言されているのです。これヘブライ語で読むとインパクトがあり、顕著に見えます。
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
<ハジナ〜耳を引っ張って聞いて!と。何に聞くのか。
”わたしのトラー=言葉=モーセの五書に記された言葉に耳を
傾けよ!と神が言っているのです。ヘブライ語では、神のトラーを聞いて!と書いてあるのです。
トラー=神の教え、インストラクション。
私が教えられて来たのは、神の言葉を無視〜終了せよ!そんなとんでもなくズレた矛盾の教えを聞いて、それが聖書だと騙されていました。>
聖書に言葉、聖書、おしえ、おきて、いましめ、知恵、などなど
書かれていたらそれは1000%モーセの五書に記された神の教えを指して話している事実を知ってください。聖書に聖書、神の言葉とあったらそれはイコールモーセの五書の父の教え!!!
これはヘブル書に書かれた”太古から語れる同じ福音!”とマッチ
しています。
78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、
なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの
先祖たちがわれらに語り伝えたことである。
78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、
その力と、主のなされたくすしきみわざとをきたるべき代に告げるであろう。
最後の時代の人が神の永遠の真実=言葉=トラー=イエシュアを知り、そして次の世代に伝えて忘れない!
今迄異邦人の世界にトラーが伝えられてきたけれど、それは1000%純粋に聖書=神の言葉ではなく、人の教えが混じったものでした。ユダヤ人の世界も同じです。でもどの時代にも神は
残りの民を保存し神の純粋な言葉を伝えて来たのです。
預言者も、神のトラーを伝えて、人々に嫌われ、ないがしろにされ、預言者達はその民衆に殺されて来ました。でも終わりの時代最後の世代の人々は神の純粋な言葉=教えを忘れない!!!!と預言されているのです。イエシュアが戻られる準備を神ご自身がされているのです。神の国を建てあげようと言いながら、どうして神の言葉を破壊する教えをしているのか、たちどまり聖書に
戻り、人の思想が混じっている=神の言葉終わりありき、その神の言葉、信仰の根幹を破壊、揺るがす、歪んだ教えを一層する事!
天の国が近づいた!それが主の道を用意せよ!詰まり人の頭脳=畑=耕された肥沃の生ける水を吸収する良い地になり、神の言葉=種が植えられる。神の教えを理解する人達により天の現実=
イエシュア の似姿そのものを地上で生きる人々により新しい契約=再更新される中身は同じ婚姻契約=トラー=神の言葉を生きる時代に入って行くからです。
神との関係は”ブリット”〜契約〜当時中近東に存在していた契約形式の書式で書かれたものである事を書きました。
モーセがトラーを記したのは紀元前14−15世紀です。
そして、この契約は、異邦人の世界で語られる様に、変更や取り消しのない性質のものである事を覚えておいて下さい。
神の側では契約を破りません、作り変えません。人間の側で破る
又は分からないまま生きているので、節目節目に契約の再更新が
行われ続けるのです。これを”新しい契約”〜詰まり再更新され続ける同じ契約と聖書では伝えているのに、異邦人の世界では
別物の契約が出現した、すると意味を誤解、取り違えて考えているから聖書の記述とズレて行くのです。
そして、この契約は継続して行く性質があると言う事が書かれている事も話しました。申命記の最後の章、31章に書かれています。そして、神との関係に入るとは、神の家の中に神の国〜聖なる民の一員としての責任が伴う!と言う事を神が教えているのです。
信仰義認〜単に信じて新しい命を受け取った、アヴラハムの契約は、信仰により受け取る行為だけでした。何かの努力をしたから
聖霊を内側に受けて新しく生まれ変わったのではないのです。
そして、ここから先、クリスチャンの世界で大いに誤解されているもう一つの契約モーセの契約があるのです。
これから春4月に過越の祭りが来ますが、この過越で祝われる
一連の出来事は、イエシュアの贖い、救い、復活、新しくされた人となり、そして、花嫁として正式に神と関係を結ぶ、神の家の
婚姻契約を受け取る〜シナイ山で出エジプトして後7週後に
トラーの題目が書かれている石の板を受け取った祭り〜シャヴオートの祭りがあります。
1つ1つの祭り、記念日の意味を知れば、この春の祭りは、
永遠の中に完結、完了しているイエシュアの業=福音を教えて
実際に祝い生きて学習する内容である事、地上で起きた預言的
出来事の最初の部分を祝っている事が分かるでしょう。
繋げて考えれば、色々見えて来ます。
イスラエル〜カナンから出て、エジプトに住っていた。
人は神との隔たりの場所エデンから出て〜神と離れた所に住んでいた。
神の子らであるのに、別の主人に仕え、虚しくレンガを積み上げて生きて来た。
偽の神々に仕えて、偽の王〜偽の人生目標、価値基準を生きて
イスラエルの神を知らなかった。
10の災いは、エジプト〜異教の神々への裁きであり、それらの神々1つ1つで表される人間のズレた生き方の内容が表されているのです。その嘘から解放される事、それが神の裁きです。
神の裁きは人を呪縛、嘘から解放するため、義をもたらす為のものだからです。
偽の神々に仕えて生きて来たけれど、神がそれらに裁きを与え
義と解放をもたらされた!
最後は初子の死。エジプトの初子は偽の神々に仕える生き方を
遮断する事、絶たれることを教えているのです。
一方イスラエルは、初子=子羊の血の贖いで贖われ救われた〜
新しい命に繋がる生き方、イエシュアに在る命を次世代へ受け継ぐ事を表しているものです。
エジプトの10の神々で表される様に私達も偽物に縛られて生きて来たそれらから解放される事を表しているのです。
そして、クリスチャンも屠られた子羊〜と言うでしょう。その意味は聖書のどこに教えられていますか?このエジプトで表された子羊の血の贖いです。それはエデンの園から教えられ、ヘブライ語ではアケダと言う”イサクの縛り”木の上にイサクを縛りましたね。イエシュアも木の上に縛り付けられました。
ちゃんと最初から同じ子羊の贖いの意味を神は人に様々な方法で教えているのです。
ヨセフの人生もイエシュアの影です。ヨセフ〜死んだ、殺された
と思ってエジプトに隠されていた。再び、兄弟の前に現れる。
ヤコブの家族を救い出す。全部イエシュアの業の影を表しているのです。
イサクはアヴラハムの大事な大事な約束の一人子。
イエシュアも神の一人子です。ちゃんと意味が重なっているのです。ひとり子を父アヴラハムは差し出した!
そして、イエシュアの頭には薔薇の冠が被せられました。
イサクの代わりになるコルバンを神ご自身が用意されたのです。
その雄羊は、いばらの中に角がつっかえて動けなくなっていた
のです。いばらの冠〜角、頭、全部繋がっているでしょう。
そして、その雄羊を屠ったのです。イサクの代わりに。
福音は最初から伝えられている。アヴラハムは未来の日に見る
イエシュアの贖い=子羊の血の贖いを実際にイサクを屠ると言う
神からの仰せを通して行動して、福音の意味を体験的に理解させられていたのです!
そして過越で、家の鴨居に屠った1歳の雄羊の血を塗った家の
初子は死を免れました。イスラエルだけではなく、異邦人の家も同じです。神の言葉通りにした人は皆死を免れた。
これはイエシュアの子羊の血の贖いを表しているものです。
わたしは、羊の門と言われたでしょう!聞いただけでは想像付き
ませんが、1世紀のユダヤ人は何をイエシュアが言っているのか
理解して聞いています。それはモーセの五書に記された贖い救いの事実と確実に繋げてイエシュアの言葉を聞いているのです。
エジプトを出る前に鴨居に子羊の血を塗った。
”わたしを通してでなければ誰も父の元に来ることは出来ない”
全部繋がっていて、最初から同じ福音を色々な形、実際に教えられているのです。
エジプトで表されているのは、エデンから出た人の姿です。
本来居るべき場所ではないエジプトで偽の主人に縛られて生きていた。これはイエシュアに出会う前の人全てに共通する姿です。
そして、神が永遠の中に払い済みである、子羊=ひとり子の命の代価で私達は偽の主人から本物の主人の元に買い取られ戻った!
この贖いの代価は自分で支払えない!だから神が支払われた代価を通して新しくされる事を受け取る、信仰義認を教えられているのです。
そして、主人の元に戻った人は娶られた!と神は言われました。
出エジプトして7週間、過越の祭りから7週間たった後には
何がありますか?シャブオートの祭りです。これはペンテコステとギリシャ語で言いますが聖霊初降臨祭などと言う名前、性質の祭りではありません!
最初から聖霊は信じるものの内側に住んでいる事が聖書に書かれています。特別な時に特別な力を与えられる、これは使徒たちの
記述、使徒2章での出来事でも同じです。新しい別種のパワーアップした聖霊が与えられると教えられているでしょう?ペンテコステ系のグループの中では。力付けられるとは、色々な場面であるでしょう。。特に使徒達はこれから世界へ向けてタナックに
記されたイエシュアが地上に来られた事実を伝え、聖書まで書くのですから。聖霊の助け無しに聖書は書けないです。使徒2章のシャブオートの祭りの出来事、神殿の中で起きた事、他国の言語で話していたのは、使徒達です。ランダムな関係のない人が他国の言葉を話したのではないのです。使徒達により世界へトラーが大々的に伝えられる幕開けです。
そして、ここからが問題です。
クリスチャンの世界では信じたら、自由が与えられ以前の教え=
呪いの律法から解放されたと言う、聖書とは真逆の人の思想を
神の教えだと本気で信じて教え続けていますが、それは聖書とは
関係のない人の思想!!!!信じたらユダヤ的な事を一切やめよとラオデキヤ会議で宣言した異邦人思想です!
モーセの五書を生きるな!と決めた西洋人の教えです。
神の国の一員にされた人〜出エジプトした人=神の聖霊を受けた
人は聖なる民=神の家の人=花嫁として生きる事を1から教えられる、それがブリット=神の家の住まう人の生き方を神が教えているのです。ここを全然理解していないまま、人の教えで、今は
それぞれが確信する事を生きる=神の言葉を退けて人の考え、
確信が勝るから、それを生きて良いなどと神の言葉=聖書とは
丸で無関係の人の教えを教えているのです。
教皇は、今神の教え=聖書ではなく、一般的に人気のある常識を
基準に生きましょう!などと宣言してしまいました。
神の教え、言葉を否定することがたどり着くのはこの様な教えなのです。そして、誰でも神の言葉のどこの箇所でも否定するならば、結局同じことをやっているのだと気がつかないと危険です。
神の記念日、祭りはもうすぐやって来ますので、又再び書きたいですが、神が人の中に住まう事を神のミシュカン〜家〜移動式
神殿、そしてそれは福音そのもの、人の生き方そのものを教えるものであることが聖書を学べば見えて来るのです。
羊の門、私は門と言われた意味は過越のこの鴨居、ドアに表されています。1世紀のユダヤ人たちはイエシュアがモーセの五書に記された事実、歴史の事実、教えから全て語られている事を理解していました。私達現代異邦人は自分の空想、想像で聖書を読む事をしています。
続く