歴史の中でいつシャバットが7日目から1日に変わったとされてしまったのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ソクラテス~哲学者469AD、サラマネス・ヘルミアス・ソゾメノス(400−450AD)ローマの弁護士、カトリックの歴史家も

記述している様に、シャバットが第七日目から日曜日に変更されたのは、長い歴史を通して徐々に人=異邦人により変えられたものであったと記されています。

 

1世紀後半以降は、異邦人の中には、シャバットが日曜日に変更されたと言う教えが浸透していなかったのです。

だから、アレクサンドリア、ローマ以外に住む異邦人達も、

1世紀のイエシュアやイエシュア信者達、ユダヤ人達と同様に

変わらずに、聖書に記された神の創造された記念日=第七日目をシャバットして5世紀の間変わらずに祝っていた人がマジョリテい〜大衆であったのです。

なぜなら、イエシュアも、使徒も、1世紀当時の信者も、そして

聖書にも神が神のシャバットの日を日曜日に変更したなどと聖書には1つも書いていない!誰もそんなこと教えてもいない、

日曜日=安息日など誰も実践していなかったからです。

ローマ帝国では、神殿崩壊前から、モーセの五書に記された神の教えをユダヤ人、異邦人関わらず実践する事を禁じられ、投獄され、重税を課せられていたのですが、ローマ帝国以外の場所に

住む人にはそれほどローマ帝国の影響はなかったからです。

 

日曜日とは、当時ローマ帝国では太陽=サン=サンデー=太陽神を崇める日でも分かる通り太陽神=宗教の日であり、ローマ皇帝を崇める日だったのです。これは聖書の教え=神が創造された

記念日=レビ記23章に記された記念日と何の関係もない日です。そして4世紀まで、日曜日はローマ帝国でも普通の労働日であり休みの日ではありませんでした。

ローマ帝国による残酷な迫害があったのは歴史家が記している

通りです。その根は、モーセの五書に記された事を生きてはならないと言う事です。

これ、今の世界と同じです。国民が同じ信念で団結すると、国に対する不満による暴動を起こし政府に対して反逆すると言う事を恐れるからです。

”隠語でネズミ”(鳴き声から想像すれば分かります)と私達の間で話していますが、ネズミでは庶民が政府の許可無しにどんな

種類の集まりでも、家の中でも政府に許可なく集まりをしては

ならないと言うルールがあります。

それはトラー、又は宗教の教えを生きるうんぬんカンヌンが問題の中心ではなくて、そこに集まる集団が同じ信条、思想で団結し政府に逆らう行動を起こす事を恐れているからです。

 

それと同じで、神の教えに根付いた生き方をするユダヤ人〜

異邦人も共に団結したらダメだから、ローマ帝国はモーセの五書を生きる事を禁じたのは大きな要因なのです。

 

ユダヤ人達は、タナックから、神の祭りの時にエルサレムにメシアが現れると知っていたので、その度にローマ帝国はエルサレム

周辺、厳戒態勢を敷いていたのです。ユダヤ人が暴動を起こす事

を恐れていたからです。事実、その通り、過越の祭りに、イエシュアがエルサレムの神殿に入りました。それは過越の祭りで屠られる子羊のコルバン達〜ベツレヘムで飼育された子羊達がその日にエルサレムの神殿に入れられる同じ日にイエシュア=屠られた子羊が入京したのです。

皇帝ネロはユダヤ人に対しては割と好意的であったそうですが、異邦人イエシュア信者に対しては酷い迫害を施したそうです。

皇帝ネロが異邦人イエシュア信者達をパンテオンで動物の餌食にした事を多くの人は知っているでしょう。

 

紀元後66-135年の間には、ローマ帝国と、ユダヤ人の間に数々の戦争がありました。

この様な背景の上、異邦人イエシュア信者達は徐々に自分達の

イエシュア信者としてのIDをユダヤ人とは切り離して表明するため、聖書ではない教え=モーセの五書とは関係のない教えを

編み出し続けて行ったと言う経緯があるのです。ユダヤ人と見なされる〜モーセの五書に記されている独特の生き方、シャバット

祭り、割礼、食規定 その他諸々、異教徒の中には異物な馴染みない教えの全てから決別しないと異邦人もユダヤ人と見なされ、異邦人もユダヤ人同等に処刑されたからです。

それらの教えは一般人が考えたのではなくて、当時の西洋教父達

により、反モーセの五書思想を土台に考え付いた教えの数々なのです。それが歴史の中をずっと通して異邦人の世界の教えに影響を与え続け、ダービー思想や置換神学を編み出して行ったのです。

歴史の中で起きた、異邦人が聖書に記された神の教えや記念日から離れて行った経緯が記されています。

Larence Geraty

Josephus Antiquities 18.81  19:5,2 

Jewish Wars 2:18-7

Skip MacCarty, The seventh day sabbath  

Perspective on Shabbat 

4  views on Shabbat

( Nashiville TN  B & H Academics 2011)

1世紀〜5世紀の間には、普通の異邦人信者の中にも、聖書ではない教え=日曜日が安息日と言う概念、意識もありませんでした。聖書にその様な事、教え、記念日は書いてないからです!

多くの人はローマ帝国に住めば、ローマの日=太陽神、ローマ皇帝の日=サン=太陽、日曜日はその帝国の記念日と認識していました。そして、シャバットは第七日目であり、それをガードしていたのです。

それがどうして今の世界の教え、記念日の様に変わったのでしょう?急な変化ではありません。

 

今の世界に照らし合わせても分かります。

ローマ帝国の宗教の日、日曜日と国の勅令で決めた!と言う事が

起きたのは大きな分岐点なのです。

4世紀321年、3月7日に、ローマ皇帝コンスタンチヌスが

決めた勅令がありました。

日曜日には何何をする事を禁じると言う勅令です。

これは聖書ではありませんが、当時の異邦人信者達がこれを

聖書のシャバット=安息日にしてはならない事と重ねて、

ローマ帝国の皇帝が決めた日〜日曜日がカトリックの新しい記念日と制定された事に流れて行ったのです。長いものに撒かれなければ生きていけない時代が来たと言う事です。

憲法〜勅令で決められたら逆らえないからです。

この勅令が決められた60年後に何がありましたか?

ラオデキヤ会議です。

ラオデキヤ会議 キャノン29に記されています。

反モーセの五書思想を唱える異邦人教父達の中には、ユダヤ人に対する反感と、ユダヤ人が主に生きている神の教え=モーセの

五書に対する敵対心が初めからあるのです。

敵対心?考えれば分かります。その大元は5世紀以前に遡るのです。現代のクリスチャンの中に根付いた思想と同じ思想です。

反モーセの五書=永遠不変の神の教えに対して廃れた、呪いの律法、人が生きる事が不可能な厳しい掟をイスラエルの神が与えたと言い続けている教えがそれです!それが聖書に記されている

神の言葉に対する敵対心であり、背信、反逆であると気がついたら良いのです。聖書ではない教えを言った言い出しっぺがいる!

それは神ではなく異邦人!人間が勝手に神の言葉に対して物申す様な冒涜を神に対していても、その冒涜にさえ気が付いていないのです。

しかも、福音書以降には、モーセの五書=父の教え=トラー=イエシュア=言葉は呪いの律法だの、廃れただのと書いてません!福音書〜黙示録の中には神の教えの全部は記されていません!

そこに記されているのは、聖書の最初に書かれた75%を同じ様に解説する、モーセの五書を短く解説した内容が書かれているのだけなのです。内容が別の新しい契約でもない!!!!

だから、モーセの五書=呪いの縛りの律法と考えるなら、福音書以降に書かれている教えはモーセの五書の抜粋ですから、同じ

呪いの律法を読んでいると言うその誤解に気がついて下さい。

 

聖書の最初と最後には同じ事、同じ福音、おなじ救いの方法しか

書かれてないのです。神は時空を超えて存在しているのです。

神の贖い、救い、赦しも同じです!!!時空を超えている!

永遠の中に存在している!

古い〜新しい〜と言う言葉は、中身が古い新しいではないのです。時空を超えている事、自分の救われた事実を考えてれば分かると思います。

古い契約〜頭脳に割礼がない状態=新生体験がない状態〜生まれ変わる=義とされた人が、再更新された同じ婚姻契約〜神の大家族の生き方に招かれた!それだけです。

古い契約〜出エジプトした人達全員が、救い、贖いの事実を深く

理解していたのではない。荒野を生きる間に、様々に学ぶ〜

頭脳に割礼がされた人らしく、神の教えを生きる!それが古いと新しいの違いです。神の教えの中身は変わらない!

契約の性質を学べば分かります。契約は何度も再更新されるものであり、中身は同じ、神の約束は変わらない!参加する人の状態が変化〜人数、そして頭脳に割礼を受けた状態の人が参加する

それだけが違いです。中身は同じ!

今は恵みの時代〜と読んで、今初めて神の恵みが作動した?なんて考えるのは異邦人異教徒思想、聖書のヘブライ思想とは真逆であり、神は永遠から永遠に恵みの神で変身していません。

神を知らない時は神の恵みに生きる事が何か分からないまま生きていた、でも今イエシュアに贖われた新しい命を頂いた〜その人達には、今は恵みの時!を生きている事実、自覚がある!と

言っているのです。恵みにより贖われた事を自分で自覚したからです。

聖書に書かれている意味、事実を完全に読み違えているのです。

 

ラオデキヤ会議の経典に記された内容ですが、この様に言ったのです。

異邦人クリスチャンは、ユダヤ人化してはならない!

シャバット=第七日目に働きなさい!!!と言ったのです。

でも、神は何と言いましたか?第七日目=シャバットを聖なる日として永遠に祝いなさい、シャバットは使用人、異邦人、動物

含めて止まり、祝いなさい!と神の子らに言われました。

聖書=神の言葉に逆らう教えなのに、それが真実と錯覚するトリックに気が付けないのです。聖書=神の言葉を曲げるから、全部曲がって行くのです。

この教え今もクリスチャンの教えの中に存在しています。

律法に戻るのか〜キリストを信じたらユダヤ人的な事、

ユダヤ人やめなさい!と言うのですが、イエシュアがユダ族出身である事がどの様な意味があるのか全く理解していない、分かってないのです。イエシュアを信じることほどユダヤ的な事はありません。その思想の根拠は人間が言い出した、この様な教えに

あるのです。ラオデキヤ会議でそう決めた!WWJDとはどう言う意味でクリスチャンは言っているのか、考えたら良いと思います。イエシュアの歩いた後をたどると言いながら、イエシュアが教えられた父の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書を捨てよと教える大矛盾の思想、説教、解説、教え。。。。。。。。

 

そして主の日と聖書に書いてある意味を曲げて、主の日=日曜日を尊重し休みなさいと言いこれ以降、日曜日が休みと言うことになったのです。事実は、神がシャバットや祭りを変更したのではなく、人間が勝手に言い出して勝手に神が創造した記念日を放棄、捨てた!それが本当の事実です。

主の日とは、レビ記23章の神の記念日、プラス、神が歴史の中で特別な事を行われる日である事を聖書から読み取って下さい。

主の日=日曜日などではありません!!!その様な定義は聖書に書かれていません!もう偽情報は全部やめないと、真実が伝わらないまま、人の思想を語っているのです。

そして、中世に入りそれ以降、この人間が考え付いた思想が定着して日曜日を第七日目のシャバットとすり替えたものになった事が浸透して行ったのです。

異邦人の群れで語られ続けている教え、その中で教えられている事が全部聖書の事実ではないのです。逆に神の教えを否定している教えが当然の如く語られて浸透しているです。

大きな問題は、神の言葉=土台=柱を覆す教えが根付いている

事であり、神の言葉に盲目にさせている事なのです。

神の教えが歴史の途中で変化した、廃れた、破棄された、終了、異邦人には関係ない教え〜それら全て人間が思い付いたヤラべアムの罪と呼ばれる罪なのです。

わたしの顔の上に別の顔を置くなかれ!!!!別の顔〜神の言葉を否定する教えの全ては別の顔です。

霊には聖霊と悪霊の2つしかありません!

イスラエルの神の言葉を否定する教えは、あの蛇=エデンの園の

神に反逆するものが語る教えである!と言う事、背教、背信を

神が警告していること、聖書の事実をしっかり考えたら、神の

言葉に反する教えがどれほど真実からズレた罪であり、神に敵対する行為であるかはっきり聖霊が示してくださるのです。

 

2テサロニケ 2:2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。

2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。

まず背教のことが起り、不法<アノミア>=トラー=神の教えを捨てる者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

不法〜不=無し、捨て去る、法=トラー=モーセの五書=婚姻契約=はじめの愛=父の教え=イエシュア=言葉を捨てる者と

警告している事を読者は読み取らなくてはならないです。