人の教えを削除し頭脳をリセットして神の言葉に聞き入る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

考えれば考える程、神の言葉を曲げる、否定する、削除する

又は異邦人には関係ない、今は無効になったその様な教えは

神に対する冒涜、侮辱、神の権威に対する人間の挑戦表明であり

聖書とは全く1000000%永遠に関係のない教えであり、

嘆き悲しむべき人の思想を、刷り込まれ続けているのです。

 

神の言葉はDNAです。神の言葉を生きる時、何が起きると思いますか?神の性質が私達の内側から環境に現れ出るのです。

それがキリストの香りであり、神の栄光が神の性質を生きる人々の中から環境に目に見える形で現れ出て、人々が見えない神の

性質に触れる事になるのです。

 

地の塩、世の光の意味を考えるのです。

塩の契約〜神の性質を保存する塩〜神の言葉を保存して生きる

人達、そして、光〜暗闇を照らすのは、イエシュアの光です。

 

最初に”光あれ!”とあります。これは私たちの肉眼で見る光とは違う性質の光を伝えているものです。イエシュアの光です。

私達の生きる生き様〜神の性質を生きる中から見えて来るイエシュア=光の事です。

 

だから、神の性質を生きる人がこの地の面に増えたら、サタンには都合が悪い、困るのです。だから、クリスチャン達に、神の言葉を生きる事を阻む為、神の言葉とは異なる人間の思想をうまい具合に刷り込んだのです。エデンの最初から同じ!神の言葉とは異なる事を言う人の思想を通して、神の言葉を曲げ続けている事に気が付いたら良いのです。

 

神の教え=トラーとは違う教え〜伝統の人の言い伝え、律法の

行い、先祖の言い伝え〜口頭トラーの事を話しているのです。

口頭トラーとは、今タルムードなどの書物になっていますが、

モーセの五書以外に、神は口頭で色々な事をモーセに伝えたと

言う仮説=伝説から来ています。でも、この口頭トラーはラビにより違う解説がされていますから、その時点で、それは神の言葉とは異なるのですし、神は神の言葉を文字として神から直接語られた言葉を預言者が記したものを神の言葉としているのです。

だから人間の思想が混じるものは、純粋な神の言葉ではないのです。

ユダヤ人の中にも、モーセの五書ではない事を神の言葉であると信じて実践していますから、それらは聖書ではない、モーセの五書、預言書、に書かれていなければ、それは神の言葉ではないのです。イエシュアも議論していた”手洗いの儀式”などトラーには

記されていません!

ユダヤ人の場合は、神の言葉を曲げるのではなく、神の言葉を

どう生きるのか?と言うその”実践”に於いてそれぞれが異なる

見解をし、ある事柄は神の言葉に沿っている、ある教えは神の

教えとは関係のない解説がされていると言うものです。

 

クリスチャンの世界の教えと違うのは、神の言葉を削除、否定

無効としている、それ自体が神に対しての反逆であると聖書から

気が付いていない事なのです。

神は神の言葉を修了させたり、途中で変更したり、又は新しく

付け足した教えなど、福音書以降ではしていません。

なぜなら、聖書の全てはモーセの五書で完結しその完全なる神の

教えをヨシュア記〜マラキで更に解説し、福音書以降は、

最初の部分に書かれたメシアの事実が地上で表された短い解説

註解、補足が書かれている箇所だからです。

 

聖書から、人間が神の言葉に手を付ける罪、黙示録の最後に書いてあるヨハナンの警告が全く耳に届いて理解されていないと言う

事を理解すれば良いのです。ヨハナンは、ヘブライ人であり、

神のトラー=モーセの五書を10000%支持し、語っている!

その事に気が付いて福音書以降の全てを読めば正しく理解出来る様になります。

エデンの園の最初〜アダムとハワが神の言葉を無視し、世界に死が入った。それは今も変わらないのです。神の言葉を無視し生きる事をすれば、神と人とそして本物の生き方との隔たりが出来

神が意図している通りの生き方〜命が生まれないのです。

 

黙示録 22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

 

ヨハナンは自分が書いた書の事を指して話しているのではなく、ヨハナンは、トラー預言書に記された神の言葉の基づいて書いているのです。

神の言葉=預言者が神から預かった言葉=トラー、預言書に記された内容に、人間が人間の教えを書き加えるな!

ヨハナンは神の言葉の何を考えて書いているのか知れば良いのです。

黙示録 22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。下矢印

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

 

異邦人には、ヨハナンが申命記=トラーから警告していると言う

事に全く気が付いていないと思います。だから、神の警告に

気が付いていないから、人間の教え=神の言葉が廃れら、削除せよ、無効である!人の教えを付け足して、神の言葉に人間の教えを混ぜて別物の教えに変形されているのに全く気が付いていないまま聖書を読んでいるのです。

 

気がつけば気がつくほど、なんて事を神の言葉に対してさせられているのか、驚愕するはずです。神の言葉の性質=永遠普遍、神の言葉の意味に気が付けば。そして、クリスチャン、そして教師達の口から聖書とは異なる神の言葉に対して戦いを挑む教えを

している、それが驚愕でなくて何なのでしょう?

 

神の記念日がクリスチャンの中で祝われなくなった理由は、

ダービーの様に聖書ではない教えを言い出した人々が居た、今も居るからです。神の言葉を否定、削除、破棄した人間=異邦人が居た、その教えを次世代へどんどん教え続けて今がある。

19世紀と言う長い間、恒久化した教えと、伝統の実践。

神の教えを曲げた儀式や祭りの数々。それらは何かと思いますよね。

幼児洗礼〜本物は何?誕生8日目に行われる、男の子に与えられるアヴラハム〜信仰義人が永遠である印である割礼。

聖餐式〜クリスチャンは月の第一日曜日に、種ありパンと葡萄ジュースで行いますが、本物オリジナルは何ですか?

イエシュアが祝われた、過越の祭りの晩餐で行われる、種無しパン=マッツア=要らないものが削ぎ落とされた=罪がイエシュアにより削ぎ落とされた新しい人を表す種無しパンと、贖いの血を

表す、食後に取る3杯目のワイン、贖いの杯と呼ばれる杯。

これは出エジプトの6:6-8に記された神がされた業を表す4つの杯の3番目なのです。全部福音が入っている事に気が付きますか?

イエシュアは代々この過越の祭りを祝うたびにイエシュアがされた業を、この儀式を通して思い出して!と遺言されたのです。

種ありパンを日曜日に祝う事はしても、過越の祭りを祝う祝福の招きも捨てさせられて、本物の過越の晩餐、イエシュアがされた

儀式を知らないままなのです。変えている!

日曜礼拝など聖書にはありません。シャバットは永遠に第七日目に祝われるとしか神は人に伝えていないのです。神の記念日も

異邦人が変えてしまったのです。

 

どうして神が言われた事が終了で、人間の考えた教えや儀式

記念日が神の創造されたものより尊重され上に位置して祝われるのか。考えれば良いのです。聖霊が記された聖書の記述から。

 

そして、神の記念日を祝う事を2世紀以降やめた!

クリスチャンは日曜日=ローマ帝国の記念日、太陽神とローマ皇帝を拝む日を復活の日とかけて変えたのです。

イエシュアは、いつ復活されようとそれは、神の聖別された記念日を変更すると神は教えてなどいません。もしかしたらイエシュアは日曜日以外に復活されているのです。日の数え方が、聖書の暦と、グレゴリオ暦とは違うからです。でも関係ない。

復活の日時がいつだとしても、神の創造されたオリジナルの記念日は変更されない。永遠に神の子らにより祝われるものと神が

そう言われたら、それが真実であり、人の教えは勝手に言っているけと言うだけのことなのです。

 

本物に気が付かないから、神の教えに戻る、軌道修正が出来ないのです。人の作った教えが神の教えだと信じているからです。

聖書に書いてもないのに。

 

神が代々永遠に祝われるわたしの記念日と教えているのに、神でも無い人間が勝手に神が創造された記念日を終了し、自分達が

考えついた記念日に変更したのです。1列王記12章にあるヤラべアムの罪と50回以上も記された、神の記念日と神の教えを勝手に別物に変えた事と同じ事を2世紀以降、異邦人、西洋教父達がやってしまったのです。当然、彼らは神の教えを無視した人達

と認定されます。なぜなら、神ははっきり人に警告しているからです。

神の記念日以外の自分の記念日〜どの日が大事か自分で決める。その自由はあります。国の記念日を祝い、誕生日、命日、結婚記念日や、父母の日を祝ったりするのは自由〜やりたい人が自由にやれば言い。それは個人の決める事、個人に委ねられています。

だからパウロはローマ14章で”人の意見”と言っているのです。神の仰せの話ではないからです。どの日=普通の日=人が考えるレビ記23章以外の神が呼び出している聖日以外の日のどの日

普通の日!!!!自分で決めれば良い。

 

でも神が神の子らを呼び出しているミクラ コデシュは神が聖別された日でなくてはならず、いつでも良いなどと神は今日も言っていません。それらは、神の子らと異教神に仕える異教徒と区別するものであり、イスラエルの神に贖われ神の家族とされた人に

与えられた”永遠の印”〜婚姻指輪、外側から目で見て分かる

生きて祝う日、神がその日に神の仰せ通りを生きる人の中に

特別な出会いをしよう!と約束された日なのです。

 

神は神の子らを1つに修復しようとしているのに、人間がその逆をやっているのです。分裂!!!時代、人種により2つの教え、人種により2つ別の記念日、人種により2つの別の群れ!

それは全部、神の言葉ではなく、人の思想であると言う事実に

聖書から気が付けば、どれほど聖書ではない人の思想を土台に

聖書を語られ、教えられているそのズレにはっきり気が付いて

行く事が出来ます。

 

どうして、神がヘブライ語で神の教えを書き記したのか。

コンパクトに1つの言葉に様々な情報を詰め込む事が出来る、

そして絵画的言葉でもあるからだと思います。

そして、どうして、神が1つの民族を選び出したのか、はっきり

分かります。世界〜異教の神々の世界に生きる異教徒と、イスラエルの神の子らをその中から取り出して、ダントツに違いが分かるために、1つの民族に神〜天に属する聖なる民=神の目的通り意図通りに生きる事をする民族を選び出し、その人達に最初に神の教えを伝えて、それをガードし生きる訓練をしたのです。

それが荒野の40年で表されています。

他の教え=異教神の教え人間の教えと、神の教えが混ざらないために!混ざったら何が本物の、元なのか分からなくなってしまうからでしょう。

イエシュアが生きたのは、父の教え=モーセの五書であり、人に教えたのもモーセの五書です。クリスチャンの世界では、イエシュアがトラーを生きたので、もう他の人は生きる必要がなくなりました、などと言う変な教えが聖書だと誤解していますが、

考えたらおかしいでしょう?神=言葉=イエシュアと書いてあるのに、それを否定する教えをイエシュアがいつ教えたと書いてありますか?

詰まり、ダービー思想は全てファンタジー。人の空想。

聖書に書いてない事を平気で語り続け、それが真実だと思わされるのです。それはイエシュアが地上に現れた事、今までに起きて

いない、神である人が初めて地上で生きて処刑され昇天されたから今までとは違う教え、違う救いの方法、違う時代が始まったと考えられているからです。

でもそれは異教徒思想であり、西洋哲学思想であり、永遠から

同じである、ヘブライ思想で考えていない、神は永遠から永遠に存在し、同じであり、救いの方法も同じ!何も違わない!と言う

聖書に記された事実を把握、理解していない事によるのです。

 

教育は大事です。正しく聖書を読む、聖書に書かれている言葉の意味を正しく紐解き教えられる。その様な土台がなければ、異教の地で育ち、神の言葉が何かなどの基本的意識が無い。

詰まり、赤ちゃんがダイアモンドや金の延べ棒の価値が分からないのと同じで、神の言葉に対する取り扱いが、神の言葉の重さ通りではない取り扱いを人間がしている事に気がつかない。

それが異邦人思想なのです。気が付いたら、神の言葉をどの箇所も神が言う通りに付け足し差し引きする事は、黙示録にも記された罪に重さに匹敵すると理解出来るはずだからです。

 

続く