神は神のシャバット祭りを永遠に変えない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1週間は、7日間。この事実を人間は、誰も否定する事は出来ないのです。否定しても、神の創造の事実が永遠に固く立つ。

ある国である人々が、1週間を4日にしようと実験、試みたら、うまく行かなかったと言う結果報告があります。

 

人は神を知るとも知らないとも、神の造られた世界、神の造られた時の中に生きる様にデザインされているからです。

人は夕方、日没後仕事の手を止め、ゆるみ休む。

1日は神の安息〜休みから始まり、夜寝て、朝目覚めて活動する。これが神が造られた人間の性質です。

時には、このスケジュールに反して生きないとならない時もありますが、体、も精神も辛いですよね。自然に反するからです。

例えば、子育て。24時間営業です。得に生まれたばかりの赤ちゃん、1、2年しても夜何度もおきる子、色々あります。

おねしょもすれば、怪我したり、病気になるし。夜泣きその他色々。子育ては笑ったり泣いたり心配したりの連続。

眠たい時に起きるあの辛さ。夜勤の人もいれば、色々あります。

レビ族の地上の祭司達も神殿の中に仕える時は夜も寝ずの番が

あったのです。24時間/7日間、祭壇の上に燃える言う意味の”オラー”(全焼の生贄と訳されていますが)のコルバンの点検やらその他諸々。だから祭司の勤務は交代制であったのです。

しかも神殿の中は裸足。コルバンの暴れる動物を抑えたり、それはそれは激務だから祭司は50歳で定年だったのです。

ヨハネの父、大祭司であるゼカリヤがいつ勤務であったのか、

その勤務表があるのです。だから、ゼカリヤが勤務ではない時にヨハネをエリザベトが懐妊して、イエシュアの母である、ミリアムが共に懐妊中に会う、それがいつだったのかでも、イエシュアの生まれた時期が推測出来るのです。

これは別の話なので横に置いておきます。

人が神が造られた性質を外れて生きれば、不具合があるのは当然の事なのです。神は人を男と女に造られたと書いてあります。

生きる上でのどの内容、どの点に於いてもその神のデザインに反したら、人は本来の姿を生きられなくなり、破壊されて行きます。例えば、嘘を言ったら罪悪感を持つでしょう。人を騙しても同じ。人を傷つけても同じ。人を無視しても同じ。どうしてそう感じるのか?それは神に造られた人間の本来の性質ではない事を

するから、自分が傷つくし他者も傷つける、シンプルな事実です。

神の教えは、あなたは誰か、神が造られた神の似姿通りの人が

どう生きるのか?それを人を造られた神が人に伝えているだけなのに、人は全て複雑化し、宗教の教えを作り上げ、神の言葉や

教えを律法だ〜と言い続け、神の言葉に敵対、削除、もう終わり

などと言い続けているのです。何が変なのか聖書に照らし合わせれば見えてきます。

第一、もし人が皆神のデザインではない同性の婚姻をし続けそれが浸透して行くなら、命は生まれなくなります。生めよ、増えよ地を満たせ。人はこの逆をやっているのです。世界が推奨する

17の項目、人が増え過ぎたので減らす計画。それは、ある人々が全ての富を牛耳っているから、問題なのであり、人口が多過ぎからではありません。

これが神の創造、神が造られた時、神のデザインに反する思想、それは全て神に反するあの3つの数字が付くタイトルでヨハナンが表したグループの思想だと聖書から認識したら分かる事です。

神より劣る存在、神の教えに反逆する思想を浸透させて実践する

その思想に賛同するグループ=人々の事です。

 

そして、神が創造された記念日も人の為に造られたものです。

これは、人の命をガードする為に重要なものです。神との親しい

関係の中に留まる大きな鍵でもあるのです。

神は人が生きるべき事を伝えているのです。それが人の性質だから。神と親しい関係〜顔と顔を合わせて何の隔たりもない関係を

生きるのが本来の神に造られたエデン=喜びの園に造られた人間の生き方です。エデンを飛び出して、神が見えなくなり、神との

間に隔たりが出来てしまったけれど、目に見えない現実を目で

見える事を通して体験させて学習させているのが、レビ記の中で教えられている一連の教えです。イエシュアの贖いの業、新しくされた人の事実神と人とどの様に修復、和解するか、そして罪許されて、和解したら、本当の意味で交わり、祝宴が出来る、喜びの宴会が祭壇の上で捧げられた動物のBBQなのです。

皆で食する。

この記念日の中に福音の全て〜イエシュアの贖い、救いの意味、イエシュアの完了の業が全て詰め込まれて、神の臨在〜聖霊により実際に生きて学習する様に神がデザインされているのです。

シャバット〜第七日目=完了の業が全て揃っている事実。

人は神の創造された全ての中で生きる様に造られている。

月の第一日目〜新月〜神の契約がずっと再更新続けられる。

第一の月の15日過越の祭り〜出エジプト=奴隷=罪から贖い出され、神の元に

取り戻された。子羊の血の贖い=イエシュアの処刑、復活〜初穂

新しくされた人の事実=種無しパン=要らないものが削ぎ落とされたマッツアを食べる7日=完了の数字7で表されている祭り。

過越から7週目=シャヴォート=神の花嫁とされた人が与えられた神からの婚姻契約=神の家の中で住まう人の生き方、保証が与えられた祭り。

そして秋の祭り:第7の月の1日、ヨムテルア=目覚ましコール、王の到来を伝える。同じ7の月10日目。大贖罪日

7の月15日=仮庵の祭りの7日間=イエシュアの中に住まう。そして第八日目の祝い〜永遠の中イエシュアと共に生きる!

全部預言的、福音の全てが網羅されて教えられているのです。

クリスチャンはどうしてこの神の祭りを祝わなくなったのか、

歴史の経緯、事実を知る必要があるのです。神が変えたのではない。人間が変えてしまった。初めの愛=婚姻契約に記された生き方を忘れよと教えた人々がいたからです!

 

聖書の中に書かれた事は、全て”生きる!”と言う事に繋がっています。思想や哲学頭の中で考えるだけの事ではなく、全部生きること!だから信仰や思想があっても実際に神の言葉を生きない=行いの無い信仰は無意味!と教えているでしょう。

でもクリスチャンの世界は、行いと聞くと違う思想と結び付けて

悪いこと、恵みを捨てることなどとドンでもないズレた思想に

変えているのです。

このブログは私個人のヘブライ聖書の探究の記録を書いているもので、決して誰か個人的に批判する目的ものもではありません。

でもよく考えて見て下さい。本当によく考える。

聖書に何が書いてあるのか??世界で19世紀間語られる思想と聖書とは違う!と言うことを聖書から発見して考えると言う事が

今求められている終わりの時に来ているのです。

 

どうして、これ程迄に、神の言葉が退けられた教えが、多大に

賞賛され、推奨され、実践されるのか?それは人の思想が神の言葉であると誤解されているからです。

 

恵みの時代、聖霊時代に入ったなどと言う異邦人思想ダービー思想が聖書だと誤解しているからです。

 

恵みの時代、聖霊時代と対比させ、怒りの時代、怒りの神、

律法時代など聖書には書いてもない、存在さえしない、人が編み出したイスラエルの偽りの神像、聖書概念、コンセプトであり、単なる人の思想であると言う事にさえも聖書の記述を読んでさえも、気が付いていないだけなのです。

人の思想が邪魔するから。7と書いてあっても1とどうして

読み違えているのですか?読み違えではない、読み替えている!

神の言葉を無視して、違う事を言っているだけです。

永遠に変わらない!と書いてあっても、暫定的、一時的、

歴史の途中で変わると人間が言い続けているでしょう?

どうしてですか?聖書ではなくて、人の思想を通して神の言葉の方を曲げて解説しているからです。

変でしょう?普通の本に、教科書に永遠と書いてあったら永遠と読みませんか?どうして聖書だけ、書いてある事を曲げて読んでるの?と今日から考え続けたら、聖霊=神の言葉を書き記した

お方は、聖霊=神の言葉の真実を必ず聖書からはっきり教えて

下さいます!人の言葉、教えに聞き入るから、神の言葉が遮られている!と言う事に気が付いてください。アダムとハワと同じです。神の言葉を遮る蛇の声=嘘に聞き入ったのと同じです。

 

神の言葉が変化したと考える場合は、神の言葉など真実であるとは本当には信じていないと言う証拠なのです。なぜならそれは神の言葉とは異なるからです。人の思想を信じているだけであるとも気が付いていないのです。

なぜなら、神の言葉は完全であり人が語る様に歴史の途中で1つも変化していないからです。それが神が伝える真実でしょう?

聖書にはそう書いてありませんか?

ぜひ聖書の記述だけに戻り確認してください。

福音書以降のある箇所〜神の言葉が変わったと解説されている箇所は10000000%全て、正しく内容を把握せず、書いてある意味とは違う解説がされているだけなのです!

 

神の言葉が神が伝える通り永遠不変で、永遠に固く立つ!

途中で変わらない、廃らないと言う事実を掴む人は、

神の伝える神の考え、永遠の真実、神ご自身を真実に知る扉の

戸口に立って神の教える事を正しく聞く、理解するスタート

地点に立つ事が出来ます。

 

巷で聞く聖書解釈や教えは、実は聖書=神の言葉が語る真実ではない、人の思想を語っているのです。全部ではありませんが、

聖書の土台、柱となる事実が、曲げられている!!!

 

1世紀に戻ったつもりで、1世紀のユダヤ人の中に混じっていた

少数の異邦人イエシュア信者たちになったつもりで考えてみましょう。イスラエルの神は異邦人、ダービー思想を持つ人達が言う様に、今は神の言葉は廃れて(神の言葉は完全、永遠に固く立つ)今の時代は人の確信を持つ事でそれぞれが選択すれば良いのだ!などと一言も今日も言いません。

聖書の最初、エデンの園から、神が言う通りを生きて!と

言っているでしょう。ずっとずっと黙示録まで同じ!

勘違いしてはならない事は、神は人を見張り律法で縛り付けていると言う、ダービーが唱えた様なイスラエルの神像を空想していては、神の本当の性質は見えません!

人の命を守る為、必要な全ての教えを人に与えていると言う神が

言う通りに意識を変えて下さい。

それがどんな教えであれ、神の性質=DNA私達の生きる全てと

イスラエルの神との深い最も親しい関係の扉の数々を開き続ける

鍵であると知っていれば良いのです。

 

どうしてこれ程までに神の言葉が妨害されるのか?エデンの園の

最初と同じです。敵は終わり、自分の敗北する結末をはっきり知って悪あがきしています。私達が神の言葉に根付いて神の性質通りを生きる時、エデン=喜びが溢れてしまうから、そして私達に与えられている永遠の祝福、神の子らしさの性質が死ぬのど妬ましい!だから、私達が誰であるのかひた隠しにしたいのです。

だから、クリスチャンでも自分が誰か分からない人が大勢いる。あんたはただの罪人!などとクリスチャンの間でも言い続けるでしょう。そうして過去のあれこれの出来事や傷、後悔している数々に縛り続けられて、自分てどんなにダメな惨めなどうしようもないやつと自虐の歌を歌わせられている人は少なくないのです。

緋の様に赤くても、雪より白くなる!そうです。イエシュアだけがその過去に遡れる、私達を雪より白くして下さっている。感じなくても!それが現実!罪を繰り返すのは、注意深く生きる

練習に欠けていて、しかも過去の記憶、思索、行動パターンが

邪魔しているだけです!だから、赤ちゃんの様に障害物に気をつけてゆっくり歩く。

自分の考えている事、行動が神の言葉が伝える性質通りか、日々の出来事の中で練習するだけ!それけです。神の言葉を捨てる人は神に何を教えられているのか、その内容さえ知らないままになります。練習しない人は上達しません!当然でしょう。

楽器もスポーツも勉強も練習しない人は上達しない。

楽譜なしに適当に演奏する、台本なしにアドリブで語る〜それが神の言葉を捨てる事です。

そして過去の傷は自分が新しい人にされていると言うその事実からだけ考えて、向き合いたくない傷に敢えて向き合って神の前でその過去の出来事、起きてほしくなかった事、その他を神の前で嘆いて話して癒されるプロセスが必要なのです。それを誰かと

共に助けられてやる、それがカウンセリングなのです。

でもその時に、自分は所詮ダメな罪人と言う意識のままでやってはならないのです。主と共に復活した新しい人にされている!と言う宣言とその事実をしっかり握りしめて生きないとならない。これがレビ記の中にで教えられている祭壇の前での神との会話なのです。責めるのはサタンとあるでしょう!罪悪感を持たされてはダメです。正しく罪を認識し、そしてそれらは自分の性質では無いと認識して、神に戻る=神が伝える性質通り、神が伝える生き方通りを生きる事に戻る。それには神が何を人に生きよと教えているのか知らないならば、自己流、自分よがり、自分の思いついた聖別になってしまうのです。

 

 

続く