歴史を線上に描いているチャートをよく見ますよね。でも神は、その様なご自分が造られた時の中に制限されているお方では無い事をはっきり知らないとならないのです。
神は永遠の中に居られて、人間の様に時や空間に妨げられる存在ではない!と言う事、クリスチャンは知っているでしょう。
神は永遠から永遠に同じ!!!人間の歴史の中での出来事の
コースの中で、神は何も妨げられていない事を理解する必要が
あります。そして、神は時代ごとに人種ごとに神の人相、性格、言葉、救いの方法を何も変えてなどいません!最初から同じ!
イエシュアも言われたでしょう。父とわたしは一つ。わたしを
見た者は父を見た!と。イエシュアは昨日も今日も永遠に同じ!誰もイエシュア=わたしを通して以外父の元に来ることは出来ない!とはっきり言った言葉は、モーセの五書にその事実が書かれているからです!
アヴラハムもまだ見ぬイエシュアの日を見て喜んだ!とあるでしょう。それがどう言う意味かよくその内容を学び把握しないとならないのです。
エデンの最初から1つの同じ贖い、救い、福音なのです。
この事を聖書から読み取っていないのは、聖書に書いてある意味を書いてある言語=ヘブライ語に記された事実から教えられていないからなのです。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白く
なるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
この箇所よく取り上げられる箇所ですよね。イザヤ書の冒頭。
ここに記されている言葉は、法廷用語です。この前に訴えとか
弁護とか書いてあり、ここで論じ合おう!法廷に出て論じ合おう!どうして?神の婚姻契約を破って違反した生き方をした
イスラエルに対して、神が契約の命の生き方に戻れ!と促して
契約の中身を思い出して論じ合おうと招いている箇所なのです。
そして、クリスチャンの世界で”悔い改め”と言う言葉をよく使いますよね。悔い改めて言うと、反省みたいな感じですが、聖書に書かれている悔い改めとは一体どう言う意味だと思いますか?
告白と言う言葉も、同じです。詰まり、神の前に出て、神が見ている通りを見て、自分の何が神の教えとズレているのか確認する事〜それが告白と聖書で記されている言葉です。神の見ている
通りを自分が認識しそれを口に出して言う事、その行為をする事は癒しをもたらすプロセスでもあるのです。曲がってズレた事、うちに秘めている痛みをその通りに口に出せたら、癒される
プロセスがスタートするからです。
そして、悔い改めとは、シュヴァー、元に戻る事です。
元とは何ですか?この法廷に出て語り合おう!と神が言っている
婚姻契約に記された生き方とどこがズレたか、確かめて!と言う
事です。自分の反省とか、悔い改めではなくて、どの様にズレて
その原因は何なのか、神の言葉に照し合わせて軌道修正する事です。そして、神が伝える通りの生き方=神の教えに戻り神の教えを生きる!それが本物の聖書が伝える軌道修正なのです。
もし神の伝える神の教え=インストラクションを捨てるなら自分よがりの軌道修正になってしまいます。
そして、ここで、”あなたがたの罪は緋のようであっても、雪の
ように白くなるのだ。”とあります。
私達は過去に起きた色々な出来事、それはズレ、罪、様々な事に
より、今影響を受けているでしょう。過去の出来事は誰も過去に戻ってやり直せない。でも、私達の現実、贖い、救いは主と共に死んで新しくされている自分が存在している!のです。
この箇所、罪が緋の様であっても、雪のさまに白くなる!
と言っています。過去に戻ってそれを解決するなんて自分には
出来ませんよね。でも神は時空に妨げられないのです。
神は過去も、未来も今も、永遠の中を自由に存在出来る唯一のお方なのです。
だから、過去の様々な事で自分の自己像を自分で決めてダメな自分だなどと考えなくて良いのです。なぜなら、イエシュアが自分の代わりに罪となって死んだ、私達もイエシュアと共に死んだ!
私も死んだ!死んだら死んで亡くなった。神が過去に遡り緋の
様な罪の所に行って雪より白く出来るからです。
新しい自分がイエシュアと共に蘇った。全く感じないけどそれが
現実なのです。神は過去も未来も今にも縛られない自由にどこの
時点にも存在していると言う事実から考えないとなりません。
ダービーは古代は律法を生きて神の祝福を人間の努力で獲得したと言い、2000年以降は、律法は廃れて恵で無償のギフトが与えられるのであると言っていますが、それは聖書の神の教える言葉とどの様に違うのか、聖書に記された事実から考えれば良いのです。
過去は、努力で義とされて、努力で神から祝福を得たと言う思想は、どの時代も同じ性質の神、同じ贖い、救いがあった、永遠の中から同じ!と言う事実を知らない人が語る肉の思想なのです。
この様な思想こそが偶像礼拝の根なのです。異教の神々に仕える人は、神の許しを必死に乞う為に、神に受け入れられる為に必死で何かをする事を要求されるのです。天に向かって努力をし続けて、神に必死でアピールし、愛してくださる様に、乞い願う。
これが偶像礼拝〜異教の神々に人々が接する態度、それが偶像礼拝なのです。でもイスラエルの神は違うのです。
神は、”ハタン”です。どう言う意味でしょう。
神は、私達に”花婿”と教えているでしょう。
ヘブライ語で”花婿”をハタンと言うのです。神の性質、名です。
異教の神々へは、憐れみを請い、私達を愛してと必死になる。
それはイスラエルの神ではありません。
ハタンは、私達と1つになってくださるお方。神の方から私達の
所に来て、アプローチして下さるお方です。失われた羊を探しに
来てくれた例え話でも分かるでしょう。たった一匹の小さな羊を探しにイエシュアがアプローチして下さった。
ハタンは私達とピッタリ1つになって下さるお方なのです。
だから、永遠の中に居られたイエシュアは、永遠の中に屠られた
子羊の血の贖いを実際に地上でも証明して下さる為に、私達の
所に神なのに私達人間と同じ様に、無抵抗の赤ちゃんとして生まれたのです。そして人として人の間に生きて、トラーそのものを
生きて、人の本来の生き方を見せて下さったのです。
そして、あの木にかけられて、私達の全て、罪、歪み、傷、痛み
全て全て闇の全てと一体になって下さり、ご自分の上に全ての
破壊、罪、闇を負って下さった。私達の醜い部分全てイエシュアが1つになって下さったのです。だから何物も神の愛から私達を
引き剥がせないのです。
ダービーの様な思想〜努力で神の恵みや祝福を古代は得ていたなどと言う思想は、聖書とは真逆、ハタンが何であるのか丸で理解しない人が勝手に言っている思想です。
クリスチャンの中にも遠くの距離に居る神と感じている人もいるでしょう。必死で神に何かして、許しを請い、神が愛して下さる様にアピールし、必死に神に求める事をしている人もいるでしょう。ダービーは古代は努力で神の前にあれこれしなくてはならないなどと言う思想を語っているのです。それは聖書、イスラエルの神ではありません。神が私達を愛したい!私達と近くありたい!と願って下さっているのです。どうしてか分からないけど。それには、神の性質ではないゴミ、クズを自分の中に抱えていてはならない、汚れたものを取り込んで、以前の様に生きていてはならない、それらは神と隔てる障害物になるからです。
それは本来の自分の性質ではないからです。
ダービー思想は、2つの契約の意味を完全に混同して、違いを理解していないのです。無償ギフト=贖われた事実です。そして花嫁とされた人は、神の家の中で、花嫁らしい生き方を神から要求されている!それに気が付いてないのです。好き勝手、自分の
感覚で、神の言葉より自分の確信により生きれば良いなどとダービーは教えているでしょう?
そんな事神は1度も語ってなどいないのです。
好き勝手=無法=トラー=神の教え無しに生きるのは、神の子ら
ではないと神は教えているのです。危ない!危険状態になるからです。
そして神の教えに対して律法、古い、悪い、廃れたなどと言う敵対心を持っているその意識自体が、神の目線から完全にズレていると気が付いた方が安全です。神=言葉だからです。神の言葉に敵対心、又は軽視する様な思想を持つ場合、それがその人の神に対する態度であると気が付いた方が安全です。神との関係を阻まれるからです。神を愛すると言いながら、神が教える事を同時に毛嫌いし憎む思想。それは聖書の教えではありません!
神を愛する人は神の教え=トラーを愛して生きるとある。
アダムとハワは神の言葉より蛇の言葉を取りました。
神の言葉を蔑ろにしても良い、自分達の確信の方が正しい、
巷で教えられるダービー思想と同じ事をヘビがエデンの園で
語った事に気が付いていますか?神の言葉を蔑ろにしても良いと言う思想を敵が放り込んだ。それが死を招く原因になった。
これは今も同じなのです。
神に造られた人間の生き方を無視する教えは、死、危険、不具合
病、破壊を招きます。
ダービーの思想を証明する土台として使っている聖書箇所は以下です。
申命記28:1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従いわたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、
あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、
このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
28:4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。
8:5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。
28:6 あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。
ここに書かれている言葉を取って、ダービーは古代は努力、行いにより祝福を獲得したと言います。神との関係は、この婚姻契約を土台に成り立っている、成立保証されていると言う事実を
理解しないとなりません。もし神との関係にあるならば、
神と近しい関係、翳りのない関係、そして祝福を受けたいならば
神の言う事を生きて下さい。それが聖なる民=聖なる祭司の国の
人々の生き方だからです。と言われて、それがそんなに毛嫌いするほどの神の教えだとする方がどうかしてませんか?
花嫁の特権!麗しい生き方を神から教えられているのに気が付いていないのです。
神の教えを何より慕い求める心より、神の言葉を律法であると
毛嫌いせよ!と教えられる不幸。麗しいものを醜いものの様に
取り扱うズレ。
神の教えは人の命、健康、聖別を守るための教えなのに、それを
捨てて良いとする人間の教えは愚かな教えであり、神の知恵を
捨てよと言う教えこそ、拒絶されるべき教えなのです。
だから、クリスチャンの間に、神の教えが何か分からなくなり、
罪の定義の全部が書いてあるモーセの五書を捨てて学ばないから
何が罪なのかにも気が付いていない事が起きているのです。
エペソ2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
このエペソの箇所は、新しくされた人=贖い、救いは恵みにより信仰により受け取ったと書かれています。
この神の賜物はエデンの園から同じ!と言うことをダービーは
聖書から知らないのです。残念ながら。
信仰義認とは、アヴラハムの契約でも表されているものなのです。2000年前にイエシュアが来られたから、突然神が恵の神に変身したと言う空想ファンタジー話は聖書ではありません。
時空を超えた、永遠から神は同じ子羊の血の贖い、恵、祝福
人に必要な全てを備えて下さっているのです。子羊の血はこの世
の礎が造られる前から屠られており、私達も同様にこの世の礎が出来る前=永遠の中に選ばれていたと理解不可能な事が聖書には
書かれているのです。信仰によりそれを受け取り信じる!
永遠から考える。ヘブライ思想です。ギリシャローマ思想は
歴史線上、人間の肉の目から見る、時代ごとに違う変身するイスラエルの神、変身する神の贖い、救いの方法、変化する神の言葉これら全て聖書ではなく人間の作り話です。
ローマ 4:4 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
この箇所も、信仰義認=アヴラハムに与えられた譲渡契約の事を
話しているのです。どの時代にもエデンの園から、人の努力や
行いで新しく生まれ変わり、義とされた人は1人としていないと言う事に気が付いて下さい。
誰も、わたし=イエシュアを通して以外、父の元に戻る事は
出来ない!と言っている事をそのまま理解すれば良いのです。
続く
スコッフィールド レイファレンス聖書。
ピンクの部分が人の思想の註解。聖書のページの半分を占めている事実上、人の思想の注解書。