神の言葉をどれ1つでも削除する教えは神から出た教えではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ダービー思想を書いていますが、彼の思想は彼が突然自分だけで考え出したものだけではなく、非聖書的な教えのcolletion、集積物であり、1世紀後半から出現した、西洋教父=異邦人達、

ローマ帝国の宗教迫害と、そして元々異教徒背景の異邦人達で

あり、ユダヤ人の様に神の教えに何の馴染みのない所謂神の教えに対して新参者達が神の言葉を原典から正しい教師の元、正確に学ぶ事なく、神の言葉に反する勝手な考えを色々編み出して

行ってしまったと言う背景があるのです。だから西洋宗教と言うヘブライではない西洋の宗教が出来上がってしまったのです。

神は西洋宗教〜宗教など作っていません。神は純粋な神の言葉=教え=トラーを人に与えただけです。人間が神の言葉を取って

宗教と言うものに変形、調理してしまった。

 

それは1世紀後半、ローマ帝国による、イスラエルの神殿崩壊前後から始まったのです。それ以前の歴史の中にも、様々に反キリスト=神の言葉に敵対する教えを強要して来た歴史があるのです。それが、マカバイ戦争であり、1世紀モーセの五書を捨てる様に勅令を出したローマの迫害です。ユダヤ人、イエシュア信者達は、重税、餓死処刑、投獄ローマ皇帝に迫害され続けて行きましたから、同じくトラーを生きる異邦人は神のトラー=モーセの五書の教えとは別の教えの路線に逃げ、そしてユダヤ人達は

エルサレムから追放され散って行ったのです。

5世紀まで、福音書以降の聖書は書かれている途中、聖書として

認識されておらず、その当時の人全て聖書=モーセの五書、預言書、諸書のみを聖書として読み認識していた事を覚えておいて下さい。そして福音書以降には聖書の最初の75%より、より優れた新しい教えは1つも書かれていません。同じ事しか書かれていません。モーセの五書、預言書、諸書の短い要約、抜粋、註解が書かれているだけなのです。聖書のどの箇所もモーセの五書を語り、どれ一つ、どの箇所もモーセの五書に反する教えや、否定、破棄する教えなど書かれていないと言う永遠の事実を捉えて、

初めて聖書が1つである事実が見えて来るのです。

つまり神の言葉や性質を変化、分断させる思想は人間の肉の目から見る聖書とは異なる思想であり、神が伝える神像、神の永遠不変で完全なる言葉とは異なる教理なのです。

 

焦点がずれてしまうので、色々書けませんが、ユダヤ人イエシュア信者の事が2世紀以降語られなくなったのは、ユダヤ人の中に

イエシュア信者がいなくなったからではなく、深く静かに潜航する残りの民達=ユダヤ人はずっとどの時代にも存在していたのです。

今でさえ、イスラエルでもイエシュア信者は、隣近所のユダヤ人にイエシュア信者である事をひた隠しにしています。

どうしてかと言うと、政府に通報されたら、迫害、又は家が奪われたり、正統派に妨害されたり、国外追放になるからです。

今も1世紀よりももっと多くユダヤ人達がイエシュア信者として居るのです。

どうして深く潜航なのか。考えたら分かると思います。

中世でも、ユダヤ人はカトリックに改宗しないと異邦人に虐待された歴史があるでしょう。もしユダヤ人が神の教えを捨てて、

別の宗教=カトリックになど改宗したら、同胞のユダヤ人から

迫害されます。両者からの軋轢があったし、今もあるのです。

 

彼らが頑なに救い主を拒絶しているのではない事を理解しないとなりません。彼らが拒絶、抵抗しているのは、偽の教え、偽の

救い主像に対する拒絶なのです。神の教えを捨てよ!と言う異邦人のその様な教えは聖書ではないと知る人が、どうしてそんな神の言葉=教えを捨てて人間が作った宗教に改宗なんてしたいですか?異邦人が語る聖書ではない教えが、ユダヤ人に本当のメシアに繋がる、発見する事を実は大きく阻んでいると言う事を知らないとならないのです。彼らは偽の教え=福音書以降に書かれていると思ってその箇所を読みません。読めば分かるのに、異邦人の教え=人造の教えが邪魔して彼らに警戒心を与えているのです。ユダヤ人は聖書=神の言葉の真実ではない事に同意なんて

出来ないからです。

クリスチャンも進化論に同意せよ、LGBTQに同意せよと言われたら、聖書の正しい知識=神が伝える罪の定義が何であるのか

知っていれば、それには同意出来ないと理解出来ると思います。

もしプロテスタントの人がカトリックに改宗せよと言われたら

しますか?そうたやすく出来ますか?クリスチャンの間では、

教派間でさえ教えが違う、ギャップがあるから交わるなとか教えられているのですから。別の宗派に改宗しないのはどうしてですか?考えたら分かるでしょう。ある事柄が聖書ではないと考えているからではないでしょうか?

だったら、ユダヤ人は、神の教えは変化しないと聖書から知っているから、どうして変化した神の言葉、怒りの神から恵みの神に変化し、その神が古い教えは悪い律法だから神の言葉を破棄せよと教える、そんな救い主が偽物だと考えるのは聖書に照らし合わせて真実であり、当然なのです。

もちろんそんなモーセの五書=父の教え=婚姻契約を捨てる様になど、イエシュアは教えていません。その様な教えは、人が作った教えから来ているものであるのに、その教えが恒久的に異邦人の間に浸透してしまってそう信じて実践しているから、ユダヤ人には、偽物の教えと聖書からそう認識するのです。

ユダヤ人は第一日目がシャバットであると言う救い主は偽物と

聖書から理解しているのです。なぜなら、シャバットは神との関係にある永遠の印として神が人に与えたからです。

どうして人間が作った教えに、神の言葉を捨てて同意出来るのか?と理解すれば良いのです。

反神の言葉=反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ人達が自分達で考え思い付いた思想を系統立てて神学としてまとめたと言う

思想の1つが、デイスペンセーション神学であり、それは人間の創作した教理にすぎない、神の語る純粋な言葉ではないのです。人の思想と、神の言葉=聖書に記された事実の間に矛盾があるのは当然です。聖書からズレた思想で聖書を解説すれば、それは

自ずから、聖書の事実〜神の言葉は永遠に固く立ち完全であると言う事実から外れた解説〜神の言葉は暫定的、変化する、歴史の途中で終了すると言う事が聖書ではないと聖書に照らし合わせれば明らかな事実だからなのです。

 

人は神の言葉が悪い物=人間が生きられないものだから、神が終わらせたなどと考えてその様に解説していますが、人の罪の肉の性質が、本来神に創造された性質通りを生きる事を阻んでいるのだと言う聖書の事実に戻して言い換えて下さい。しかも神の教えが厳しすぎるので、神が神の教えを取り去らなくてはならなかったなどと言う思想、一体どこから来たのでしょう?そんな神は神ではない。人間主体の神であり、当てにならない信頼ならない神です。神の完全な言葉を神が取り去る?人が生きれるか生きれないか最初から神は知っています。神が人に降参した?子供が駄々をこね続けるから、ダメと言ったのに後から、良しとしようそんな親は境界線の無い、子供の上にしっかりした権限を保たない

失格な親です。

神は人に神の教えは生きるのに難しくないと最初から伝えています。

 申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

イエシュアもイエシュアのくびきは負いやすく、軽いと言って

いるでしょう。

生きる事が出来ない教えだから、神が削除したなどとは、人間の思いついた思想であるとはっきり気が付かないとなりません。

モーセの五書聖書に記されているのは、神が創造された人間の性質本来の人間の性質が搭載されている人=新しい人がどう生きるのかを教えている、クリアーにシンプルな事実しか書かれていません。神に造られた神の似姿通りの人は、〜を生きる様に造られ

〜を生きる様には造られていません。あなたの性質通りに生きて

と教えています。これこれは人間の食べ物ではありません。

なぜなら、それは清掃動物であり、人間が食べたら毒で、寄生虫、菌、ウイルス満載であり、掃除機のごみフィルターに溜まったゴミを食べるのと同じです。あなたの細胞、臓器を痛めつけ、病気になります。環境にウイルスを撒き散らし他者をも病気にし、疫病の原因になります。それらの動物を食べるのは聖別を汚す行為であり、その様な事は聖なる民のする事ではない、神の前に忌まわしい行為ですと神が伝えているのです。簡単でしょう?難しいですか?

犬、猫食べるな!難しいですか?全部自分の慣れ親しんだ異教神の世界の慣わし、生き方に馴染んでいるから、異物に聞こえるのです。神は人が食べてはダメなものを教えているとどうして子供の様に素直に聞けないのかその方が不思議です。

 

そして、神が創造された神の記念日はこれこれですと全部教えているのに、それを全部丸ごと削除〜初めの愛から離れたとありますが、異邦人は神の教えを知らない、元々根付かないまま、最初から神の教えを捨て去っているのにも気が付けないのは、神の言葉全てが永遠不変完全と言う神が伝えている事を人の教えで塗り替え、神の言葉の真理を理解していないからです。

読めば分かる通り、神がどの様に人の命を尊重しガードするのか、雛鳥にさえもその憐み、愛をかけていることが書かれているのに気が付くのです。気が付かないのは読まないから、学ばないから、何が聖書に書かれているのか本当は知らないからです。

 

翻訳聖書とヘブライ語聖書では意味が違います。聖書を翻訳で読むとは、花嫁をベールの上からキスするのと同じ事と言いますが、翻訳では本来の意味が失われるからです。だから、本当に何が書いてあるのか、聖書を教える人達がヘブライ聖書を学び

教える〜それがユダヤ人の世界では代々受け継がれているのです。神はヘブライ語で書かれた聖書をガードするユダヤ人、残りの民をどの時代にも確保しています。世界のどこに住んでも、

他の言語を話していても、ヘブライ聖書を読む、学ぶ事を幼い頃から教えられているのです。

これは本当にものすごく大きな差があるのです。

 

しかも、どうして神の言葉に敵対する様な意識を異邦人はこれ程までに持たされているのか、神の言葉、教えが律法? 神は人に大事な事を伝えている、神が誰であるのか人に教えている、神の考えている事を人に伝えているのに、人はそんなもの知りたいとも思わなくさせられている。聖書は神からのラブレターと言いながら、それは捨て去られ読まれない。まあ難しいからと言うのもありますが、手ほどきがあれば、中身に何が書かれているのかに触れたら感動を抑えられなくなります。神があなたに今直接語りかけて神の麗しさ、愛、さまざまに私達が知らない世界の扉を開こうとしているのに、その手がかりを捨てよ!と教えられているのでから。永遠をかけて神を知るのに、その手がかりを捨てる様に教えている教えは神に敵対するものの仕業以外にないのです。

 

人が生きられない教えだから、神が全部罪の定義も取り払いました〜それって無法地帯の事でしょう。イエシュアが無法=トラー無し!と警告しているのに、どうして神がそんな事するのですか?

だからLGBTQをクリスチャンの牧師達も推奨し本人達も生きて他者へ奨励する様な今の世界、ソドムとゴモラを歓迎する扉を開いてしまったのです。これからこれは益々エスカレートして行きます。破れた戸口に立つ神の子らが、破れた戸口を益々破いて

罪を招き入れているのです。

食べ物の教えも、神が創造された動物の性質〜人間の食べ物として造っていない動物は何か、それらは害毒!と教えているのに

そんな単純な事も理解出来なくなっている、今は祈れば何でも清くなるとパウロの言葉=ローマ14をトンデモなく誤解する。

ペテロの幻使徒10章を食規定変更だなどと誤解する、マルコ7章、イエシュアの言葉=翻訳者が挿入した言葉で誤解する。

7と書いてあってもあえて1と考えている、聖書を曲げる矛盾だらけの聖書の読み方が教えられているのです。

聖書〜モーセ、預言書、諸書を読む人達、古代ユダヤ人達に与えられた神の言葉は、モーセの五書を理解していると言う前提で

全て語られているのです。古代のユダヤ人に書かれた彼らが理解している通りに聖書を読まないとならないのです。

現代の自分の生まれ育った文化や慣わし、思想で、古代ヘブライのヘブライ語で書かれた聖書の翻訳を、ダービー思想=人間の思想=神の言葉は変化、終わり、分断、などと言う聖書とは異なる

思想から読めば、当然聖書とは違う読み方をしてしまう誤りは

免れないのです。

神の言葉は人の命をガードするものなのです。鎧兜を脱ぎ捨てて

家のドアを開けっぱなしにしたら、外敵は好き放題入り込みます。その様なことを平気で奨励する事をしているのです。

どんな綻びでも、どんなに小さく扉を開けても、そこから津波はどどっと押し寄せて、破壊して行きます。

 

 

続く