今現在書いている連続記事では、一般にクリスチャンの世界で
普通に語られている聖書解説は=ダービーの思想を通して語られている内容が殆どですが、人の思想を通して語られる聖書解説と実際に聖書に記されている内容とはどの様に異なるのか、そしてこの思想が大多数のクリスチャンの中にどの様に浸透し、どうして聖書ではない人の思想が神の言葉だと誤解されているのか、
その原因、問題点を言及しています。
人の思想を聖書の中に書き込んだ註解書=スコッフィールドリファレンスバイブルは、聖書と言うタイトルを付けられて1909年からアメリカで爆発的に売り出されてしまいました。その中身は
人の思想で覆われてしまっている内容が聖書のページに記されていて、聖書=神の言葉を正しく解説していない、ダービーの思想=デイスペンセーション神学思想が書かれているのです。
そして、20世紀、1900年以降のアメリカでは、聖書教師
牧師、神学校の教師がこぞって、聖書ではなく、聖書のページに書かれたこのダービーの思想を熱心に読んで、それが聖書に書かれている事だと解釈し、多くの一般の人に聖書では無い思想を
教師、牧師達が教え、神学校の講壇から聖書ではないダービー
思想で塗り替えられた聖書解説が未来の牧師、聖書教師の卵達に教えられ続けてしまったのです。
その人達の中に熱心にヘブライ聖書を忠実にヘブライ思索で1世紀の人々、パウロ達の様に学び続けた人はいないはずです。
だから、私達の周りにはユダヤ人の様にどの国に住んでもヘブライ聖書を学び知って教える事をする教師がいないのでしょう。
聖書ではなく、人の思想=神学を学んでいたのです。
聖書を元の言語で読み学ぶより、誰かの書いた肉にアピールする
肉の理解に納得する思想を読んだ方が手っ取り早いから、
皆一斉にこの註解を読み、聖書を元の言語で学ぶ様な事などから
遠く遠く離れた事をしてしまったのです。
それが世界に浸透し、今聞いている、聖書教理、聖書=神の言葉が廃れたと神の宣言=永遠に変わらない完全な神の言葉と言う事実を曲げて解説する、聖書を聖書で読み解くのではなく、聖書をダービー思想で読み解く様な解説が一般にされてしまっているのです。
一般のクリスチャンの世界で語られる思想そのもの、その出所は聖書=純粋な神の言葉ではなく、ダービーの思想が土台となってその思想から語られる聖書解説なのです。
ダービーの思想=デイスペンセーション神学は、彼が最初に言い出したのではなく、その思想の根は既に1世紀後半の異邦人、神の教え=モーセの五書に対する反トラー思想、反ユダヤ思想を持つ、異邦人西洋教父たちの教え、そのルーツに遡るものです。
空中携挙もある少女の幻想、幻覚を人々が聞いて、それを神の
啓示などと信じて、それをダービーも聞いて彼にアイデイアを与え、ダービーがそれを思想として形態化したのです。
殆どのクリスチャンは聖書ではない解説をされているその原因、その事実を知らないし、教えられないし、誰からもその事実を語られもしないので、今聞いている一般的な聖書解釈=神の言葉は廃れた、神は怒りの神から恵みの神になり、怒りの時代から恵みの時代になり、律法時代から、聖霊時代になった、それは全部聖書の教えと完全に真逆、聖書の教えと全く違う、人の思想であるとも気が付いていないと思います。
私も15年前までは同じ様に空中携挙や、神の言葉が2000年前に廃れて、以前の神の言葉は呪いの律法で人を縛ってきた悪いもであると言う事を教えられた事が聖書に書かれている神の言葉だと信じていました。
そして今は異邦人の自分に関係のない神の教えが殆ど、まるで
他人事の様に聖書の自分の都合良く大部分を読んでいました。
でも聖書を読めばどの箇所も霊感=聖霊により書かれた神の生ける言葉ですから、確実に感銘を受けたり、感動したり励まされたり、ある道を示されたりしていたし、今もしているし、これからも同じです。
どの聖書箇所も100%モーセの五書が記されているなんて、
15年前はそんな理解も全くない、何も知らないままただ読んでいました。
救われた直後、将来の進路に関して、やはり神が計画を持っているから、それに沿って生きたい。それには、私に対してどの様な道を進むのか神が教えてくれるはずであると言う生まれ変わったばかりの幼いながらの知識が聖書からあったので、創世記から
黙示録まで分からないまま全部読んでみたのです。
そうすると、その時の印象は理屈抜きに創世記から黙示録までは
同じで1つとして繋がっていて同じ事を言っていると言う大きな印象を得たのを覚えています。何も分からない、ただ翻訳聖書をそのまま読んでも、偏見〜神の言葉が途中で終了などと言う人の思想を挟まなければ、分からなくても、神が伝える通り、神の
言葉は永遠に変わらないと書いてある事を土台にしてその事実に立って読めば、ところどころ臭い翻訳箇所があっても一貫して同じことを話している〜神の言葉が永遠!と言う事実から考えれば、神の言葉が途中で変化したなどとは考えないのです。
<福音書以降には不具合な翻訳があってそれが読書に対して正しい聖書の内容を理解をすることを妨害していますが>
そして信仰生活が進む中、聖書を読んでも、常にこの様にダービー思想=神の言葉が2つ分断、神の贖い救いの業は時代ごとに異なり、古代の人は救われなかったとまで教えられ続けた影響で
正しく聖書を読んでいない、本当に混乱する教えだけを聞かされて、結局人の思想に染まった聖書を曲げた=神の言葉は歴史の前後で変化したと言う思想からだけ聖書を歪めて読む様に頭脳が洗脳されてしまったのでした。永遠と神が言うのに、人間が神の言葉は暫定的と言うその矛盾何か変!と思わないとならないのです。
聖書を書いてある意味通り、元の言語の意味通りに正しく読むと言う、今の様にヘブライ聖書に書いてある言葉の解説、神の言葉は創世記〜黙示録同じ!神は変化しない、神の言葉は変化しない、イスラエルと異邦人は同じ1つの家族と言う聖書に書かれた
通りの読み方、捉え方をしないままでした。神の救いの方法は最初から同じ!その様な聖書の真実から教えられると、まるで違う事が聖書に書かれている事を発見出来るのです。
教育と言うものは本当に大事です。神は神の子らに正しく神の
言葉を学び、知り、生きる事をずっと教えているのです。
でも導き手がなくて誰が真実を知ることが出来ようかとは正に
それで、”教師を選べ”と言う事なのです。信仰以外の他の面で人はその分野に長けた教師を探すのが普通でしょう?
塾を選ぶ場合、その塾に自分が行きたい学校の入試対策に熟知している先生がいるから、その塾を選ぶ。ある学校に行くのは
ある大学に入るために、その学校に行けば受験対策があるから
行く。又は、楽器、スポーツどの分野でも素人ではなくプロに
学びたい。ちゃんと教えられる事が出来る教師を探すのが普通です。でも信仰に関しては全く別分野だと思われているのです。
聖書を正しく教える事、それには正しく聖書を学んでいないと
ならないと言う大前提があるのです。そして神の教えを実際に
生きる事を続けている事。それが聖書に記された長老の特徴です。
イザヤ56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日=シャバット=第7日目を守って、
これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。