1テモテ4章 パウロは神の言葉〜トラーを否定しているのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1テモテ4:1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰

から離れ去るであろう。

4:2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。

4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、

感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

 4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

4:5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。

4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の

言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。

4:7 しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。

信心のために自分を訓練しなさい。

 

1 1テモテ4:4 全ての動物はきよくなり、人の食べ物と

   して受け取ると書いてあるのでしょうか?

2  レビ記11章、神が人に与えた、食に関しての神からの

   教え、指示、神のお仰せは、”惑わす霊と悪霊の教”

   なのでしょうか?(4:1)

3  神の教えは、悪霊の教え?(4:1)悪霊の教えが神の仰せな    のでし ょうか?レビ記11章は悪霊の教えなのでしょうか?

4 その様な神の教えは、偽り者の偽善のしわざなのですか?  

  (4:2)レビ記11章の神の教えは、人に結婚を禁じていると    言うその教えと同類の偽りどもの教えなのでしょうか?

5節では、何が感謝と祈りによって受け止められる、神の言葉にきよめられるものと書かれているでしょうか?

5 神の教えは、古い迷信の教えなのでしょうか?

  神の教えは汚れているものなのでしょうか?

レビ記11章は、今ではもう神聖なものではなくなったのでしょうか?レビ記11章は、良い教え(6節)ではなくなったのでしょうか?

神の言葉、教えに聞き、教えられた通りを生きる事は、信仰から離れる行為なのでしょうか?(1節)

レビ記11章はもう、聖書=神の教えではなく、義を生きる事の教えではなくなったのでしょうか?

 

2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもので

あって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

レビ記11章は、今現在はもう、人を教え、戒め、正される基準ではなくなってしまったのでしょうか?

もしも、1テモテ4章が、レビ記11章を否定、削除しているならば、クリスチャンの世界ではレビ記11章は今は無効で撤廃されたと言い、神の言葉をその様に取り扱っていますが、それは神が教えている事なのでしょうか?神の言葉は永遠に廃らないと神が人に言いながら、同時に廃るなど有り得るのでしょうか?

この矛盾に気が付いて。

その様な教えは複雑であるだけではなく、恐ろしい教えです。

そして、この様に教えています。神はレビ記11章の教えを撤廃終了、破棄しましたとクリスチャンはそう信じて教えています。

神の言葉ではなく、異邦人が考え付いた神の教えを手っ取り早く撤廃する思想に聞き入ってその教えに頭脳が占拠されているので、ある箇所の神の言葉が通じなくなっているのです。

 

今は全てがきよめられているので、それ故食べるのに相応しくなったと言います。

これは、きちんとパウロが書いている内容を正しく読み、理解すれば、簡単に間違えるものではないのです。

4節と4節以降に書いてある事を読めば分かります。

 

1テモテ4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

神の造られたものはみな良いものである。

 

もしレビ記11章を信じている人だとすると、その人達は、

テモテ4章1〜3によれば、

1 肉を食べることを控えよと教えているのですか?

2 人々を信仰から離れる原因を作っているのですか?

3 偽善で嘘を言っているのですか?

4 悪霊の教えを推奨しているのでしょうか?

5 昔の迷信や作り話に固執しているのですか?

6 汚れたものにしがみついているのでしょうか?

7 神聖を実践していないのでしょうか?

8 良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざをしているのですか?

 

もし1テモテ4章をその様な読み方をしているならば、パウロが書いた意図通りには正しく読み取っておらず、パウロが書いていない内容を誤解して、解釈しているのです。

1テモテの書簡を、最初から最後まで書いてある意味通りに読まないとならないのです。

ある箇所だけを取り出して、又は半分だけ取り出して、著者の意味通りに理解せず、ある言葉だけを取って、それに基づいて神の教えとは異なる別の教理を作っている事をしているのです。

パウロの書簡の一部だけではなく、他の部分も何十箇所もその様な事をしたらどうなるのでしょう?

パウロの書簡が難しいだけではなく、パウロが書いている内容が、トラー無し=無法=神の言葉を撤廃になり、それは神の定義では罪であり、神に対する背信行為になってしまうのです。

 

2テモテ 3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、

3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

パウロの書簡は、難しいですが、ダービーの様に神の言葉〜トラーに対して無知な人達が、神の言葉を歪めて曲げているのです。

2000年前にパウロがこれを書きましたね。パウロが書いている相手は、神の言葉=トラー=モーセの五書に対して正しく共通の理解があった人々に宛てて書いているのです。パウロの書いている内容が、モーセの五書を土台として話している事を理解していた人達に当てて書いているものなのです。

 

1世紀、神の言葉が語られ議論される時に、ユダヤ人が理解している共通の理解=モーセの五書を聖書=モーセ、預言書、諸書が語っていると言う大前提があった人々なのです。

私達は現在、1世紀から2000年も離れています。しかも、神の教えに代々馴染みの無い異教徒思想、文化、背景の育ちです。

 

でも聖書解釈の大前提、聖書は聖書=神の言葉で解釈すると言う事をしないとならないのです。人の思想に照らし合わせて解釈しても聖書を正しく理解、読むことは出来ません。この1テモテも、1000%モーセの五書、預言書、諸書しか存在していない、100%モーセの五書、預言書、諸書の中に記されている神の言葉、教えだけを考えてパウロが書いていると言う事実に軌道修正して下さい。そして福音書以降には新しい別の教えなど書いてません!

聖書を人の思想〜ダービー思想=神の言葉のある箇所を撤廃、

削除、否定、無効とする教えで解説したら、神の教えを破壊する行為をしていると気が付かないとなりません。そして聖書を正しく読み理解する事が出来なくなってしまいます。聖書に書いてもない人の思想を盛り込んで解説しているからです。

 

この1テモテ4章は、何を話しているのか理解するのに難しくないのです。3節は次の4節に繋がり、続いている内容を話しています。

4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。

しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

 4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

4:5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。

4節の内容は5節に繋がっているのです。4節は3節を、5節は4説を理解して考えると言う事が分かるのです。

 

聖書を誤解して解説する原因は明らかです。ある1つの箇所を、内容、文脈から取り出し、書いてある内容から逸脱して解説する行為、それが原因なのです。

パウロやペテロの書簡は、この1テモテ4章もそうですが、

パウロは神の教え=インストラクション=トラー=モーセの五書に記された教えを土台に話していると言う事を頭から外したら見えなくなります。

3節 信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

ここ3節でパウロが言っている真理を認めるものとは何ですか?真理=神のトラー=モーセの五書を認める人々の事です。

そしてこれは、”神の言と祈とによって、きよめられるからである。”と繋がっています。

神の言葉〜トラー=モーセの五書の事です。

パウロが食べ物と話したらそれはレビ記11章にある神の教えで人に伝えている人間の食べ物、そうではない食べ物を考えて話しているのです。

真理を知るとは何ですか?神のレビ記11章の食に関しての教えは撤廃されたそれが今の神の言葉、真理ですか?

神の教えは神が伝える通り、人間が考える様に、分解して取り出し、破棄、撤廃など出来ない性質なのです。契約は神の側では

永遠に有効であり、人が破ることがあっても神の側では、訂正

撤廃、撤回、破棄など出来ないからです。神は嘘つきではないからです。

神は人間の生きるために食べる食べ物も含め、全て神の言葉は、神の永遠の真理の教えであり、人間が撤廃出来ないものです。

レビ記11章は、聖書の宣言に基けば、パウロが書いている通り、真理であると記されているのです。

 

詩篇 119:142 あなたの義はとこしえに正しく、あなたのおきてはまことです。

あなたのおきてとは、トラー=モーセの五書の事なのです。

掟と訳されているそのヘブライ語の言葉は、トラー=モーセの五書だからです。

神の教え=トラーは全て永遠に正しいとあるのに、もしレビ記

11章にあるきよくない動物は、今はきよくされた動物であるならば、今は神の言葉、教えは撤廃、真理ではないと言う事になってしまうのです。動物も変化進化していないのに、清掃動物がきよい動物になると信じているだけで、同じきよくない清掃動物はその種に従ってずっと清掃目的動物であり、人間の食べ物としては相応しくない菌、ウイルス、ゴミを体内に溜め込む汚い動物です。神の教えを否定するなら、神の言葉は人に真理伝えていないいことになります。

レビ記11:7 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。

11:8 あなたがたは、これらのものの肉を食べてはならない。

またその死体に触れてはならない。これらは、あなたがたには汚れたものである。

11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

11:46 これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に

這うすべてのものに関するおきてであって、

11:47 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。

 

神の教えか、そうではないか事実は、2つに1つしかありません。はっきり神が人に教えている事の中では、時と場合により

神の言葉の真実が歴史の途中で変化するなど、あり得ない教えなのです。それは人間の思い付きの思想、空想、発想にしか過ぎないのです。

神の教えは今も正しいか、それとも今は神の教えは間違いなのか、どちらかしかないのです。

パウロは全ての神の言葉=聖書は正しい教えであると言い、もし義の実態を実践して生きるのならば、レビ記11章も同じ神の教えであり、それを生きると言う前提の上でパウロは全てを話しているのです。全ての神の言葉=聖書は正しい教えとパウロが言いながら、同時に、全てではないと言うパウロがそんな矛盾を言っていると空想している時点で、聖書〜永遠不変の神の言葉を人が

遮っている偽りの思想に基づいて考えていると気が付いて下さい。

 

続く