背教の時代 罪を祝福し堂々とサタンのプランに扉を開いてしまった | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イザヤ5:20 わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、

善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。

5:21 わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、

みずから顧みて、さとしとする。

神の知恵=言葉を捨てれば、罪に対しての理解、色々な識別がなくなり、判断に欠き、生ぬるく、罪に扉を開く事になります。

日本人のクリスチャン、プロテスタントの牧師達の間でも、今や神が罪と聖書で言っている詳細全部を理解しないまま、罪を堂々と許容し、受け入れる様に人に教え、罪に対して扉を開いてしまっている事が今現実に起きています。危機です。

 

誰でも受け入れる〜罪=同性愛、同性婚を受け入れる事が愛だ、

マイノリテイを理解し受け入れよう、それが神の伝える愛などとと〜んでもない勘違いをしています。

なぜそんな背教を受け入れているのか?聖書を読んで理解していたら、決してそんな事言う訳ないのです。神の言葉が廃れた〜

今は個人の確信と判断に頼る時代になった〜とクリスチャンは

ダービーや西洋教父たちの言葉を信じて、神の言葉を却下しているからそんな背教に扉を開いてしまうのです。そして神の伝える教えをどの箇所でも破棄する、捨てる人には、今はその人の確信する事を生きれば良いなどと人の考えついた言い訳を神の言葉であると信じて、人間が神に成り変わり、神の言葉を否定するから、神が伝える真実、警告が見えなくなって行くのです。

嘘の教えの曇ったメガネをかけて、視界が見えなくなる状態

聖書を正しく読み理解しない状態になっているのです。

12月18日のBBCニュースの見出しにこんなのがありました。

2000年に渡る、信仰の土台を覆す、嘆くべき腐敗をカトリックの教皇が発表をしました。

カトリックは以前には、”神は罪を祝福する事は出来ません”と

言っていたのを完全に翻し、今は神は罪を祝福出来ると言う事に変更しました。

神の教え〜神が創造された人の性質に反する、腐敗、墓場の教えです。どんな人をも愛する、人のために祈る、それはその相手がどんな事を生きていても変わることではありません。でも問題をスリ違えてはならないのです。これは誰かの為に祈るとか、愛するとかそんな事ではなく、カトリックの教皇が神が罪としている事を祝福出来ると公に言ってしまった、神に対しての冒涜をしている事なのです。

個人的にその個人を攻撃するのではないのです。もし教皇がお隣に住んでいたら、ただの普通の良いおじさんであるでしょう。

でもそうではなく、その人は世界に仮にもイエシュアの御名を

使い福音を伝えているとしている立場で、その様な発言、行為を

している事が重大問題であると言う事なのです。

”ローマ法王、ローマカトリック司祭は同性婚を祝福できると

発言”と言うBBCニュースの見出し。

はい!これを全員ではありませんが、今や日本のプロテスタントの牧師達も同じ様に言い、罪を許容しています。

結婚は、はっきり男女間で、しかも男女の間でどの様な間柄が

婚姻可能か、どの間柄が婚姻出来ないのか、神は伝えています。

古い箇所は終わりさ〜破棄!と言うならば、その人の中には神が

伝える罪の定義の理解が無いと言う事です。福音書〜黙示録には

モーセの五書の中にある、神の教えの完全版、罪の定義の完全版は復唱されて書かれていないからです。古代ヘブライの世界の

ユダヤ人が皆モーセの五書を理解している、その人達に向けて

福音書以降は、知っている前提で書かれているから、聖書の最初の75%を復唱して書いていないからです。

 

とんでもない背教に対して、クリスチャンの牧師、リーダー達が今罪に対して扉を開いて悪魔を招き入れているのです。

これを宣言した後に、どんどん扉が開き、イギリスの聖公会も

教皇と同じ思想に賛同したと宣言しました。個人ではなく、

クリスチャンの団体がこれから益々、同調圧力により背教を宣言し、罪に扉を開き、もう留める術がない、確実にソドムとゴモラへ向かっているのです。

同性婚あり?同姓カップルあり。カトリックはそれを祝福します!と言うならば、カトリックは、これから、婚外交渉、近親相姦も、小児性愛も、堕胎、獣姦も、な〜んでもありで祝福します!出来ると言う方向に行きます。その人が良い気分になればそれが良いと言うからです。

神の言葉をどの箇所でも曲げる場合には、神に対しての罪に扉を開いている事に気がついていますか?言い訳がつくからです。

今は神の言葉が絶対ではなく、人の確信が根拠とクリスチャンも教えているからです。

神の教えをどの箇所でも、破棄された〜終わったとする、神の言葉を歪めて来た1900年間の結果が今の危険な状態であると言う事に気が付いて下さい。全人類に死が入ったのは何でしたか?食べる事〜神に禁じられた実を食べた!と言う警告が耳に届かず、今はなんでも許される〜などと、神が言っても無いエデンの園の蛇の声の囁きに聞き、とんでもなくゆる〜い、脇の甘い思考回路になって、確実に罪を招き入れ続けているのです。

神が伝える罪を罪とも認識せず、罪を祝福すると言う事を、教皇は、他の人を排除しない事が愛であると言いましたが、そんなのは神が定義する愛でもなんでもないのです。その行為は、アポスタシア=背教、背信、神に対する違反行為と聖書には書かれています。神は聖なる民の群れにその様な行為をする人がいれば、

追放されるとはっきり人に教えています。

2テサロニケ2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法=トラー=モーセの五書を生きない=者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。

2:17 あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉=神の教え=トラーを語る者として下さるように。

神の言葉を生きるとは、イエシュアを生きると言う事です。生きることはキリストとあるのは、イエシュア=トラー=言葉だからです。

教皇の歴史的瞬間〜背教、背信を世界へ表明してしまった瞬間が訪れたのです。赤信号、異端的教えの標識を設置し、世界へ悪影響を与える機会、扉を開いたのです。

こう言う事です。神の言葉をどの箇所も否定する場合、同じ事をしているのです。よくよく教皇の言う事、そしてダービーが言う事と同じである事を発見して下さい。

カトリックは以前この様に言っていました。

他の神を作るな、姦淫するな、盗むなと十戒に書いてある事に

同意していましたが、今は何と言っているのでしょう?

これは、ダービーやクリスチャンが言っている事と全く同じです。よくよく神の言葉に立ってこの事を考えてみて下さい。

教皇は今この様に言います。

”神は、あなたの良心に従い確信する事を選べば良い!とする。”

でも本当に神はそんな事言いましたか?

では、シナイ山で神がモーセに与えられた神の言葉は間違いで

あったとでも言うのでしょうか?モーセが山から降りてきて、

神からもらった神の10の言葉が書かれた石の板を見せて、神はこれを与えましたが、あなた方の良心に従い、神の言葉を自由に

仕分けて選んで下さい。神の言葉ではなく、自分自身の十戒=

あなたの良心が同性婚が姦淫が時と場合によりOk、盗みもOk、他の神々?Ok、金の子牛を自分の手で作ったものを拝んで神としても良い、きよくない動物を食ても良い、あなたの良心がそう言うなら、確信するならなんでも良いのです?

神があなたを祝福します。神は罪も祝福します?!

金の子牛があなたを祝福します。教皇が、十戒を重視する人は

何か異常であるかの様に言いましたが、それではイエシュアも

異常ですか?イエシュアは神の言葉〜トラーを生きる事に熱心でした。

教皇は、十戒は神からの贈り物ではありませんと言ったのです。

<言葉は違えど、クリスチャンも同じ事を言っているでしょう?

神の言葉は古い、廃れた〜無効〜終了〜破棄〜呪いの律法〜縛りであ〜ると。古い律法から解放されたと。>誰が神の言葉が廃れて変化すると言いましたか?神ですか?いいえ、人間です。

では十戒〜10の言葉=神の言葉は誰が人に与えたのですか?

人間が想像するエーリアンが空からシナイ山に来て、くれたのですか?

そして教皇は、こう言います。十戒は神がくれたのではない、

山上の垂訓はあなたに与えられ、あなたを良い気分にしますと

教皇は言うのです。しかし、教皇は知らないのでしょうか?

山上の垂訓、イエシュアが解説している全ての教えはモーセの

五書をイエシュアの天の解説で人に教えているのに、気が付いていません。しかも、イエシュアのモーセの五書の解説は、

姦淫とは、人が女性を情欲の目で見る、考えるだけで既に罪を

犯したと、究極の事を話しているのに。極度にリアルな十戒を

イエシュアが解説しているの教皇は読み取れないのです。

10歳の子供でも、聖書を教えられている子なら分かるのに、

教皇はそんな聖書の内容さえも正しく理解していないのです。

そして教皇はこう言いました。”3000年前子供がモーセが十戒をもらうのをその場で直接目撃していないのにも関わらず、どうしてそんな神の言葉を理解して、それに熱心に生きたいなどと思うのか?と不思議に思います。”と言ったのです。

大丈夫ですか?この人。

どう言う意味ですか?十戒は3000年前に与えられたのだからもう意味がない、古い、あなたの年齢が3000才ではないのなら、神の言葉はもう意味がない!気にしないで!と言ったのです。

十戒は人を救わない、メシアが人を救うのだから、十戒は関係ないと。<これクリスチャンの中にも語られている教えです!>

それだから、姦淫も腐敗も良しと言うのです。十戒を捨てるなら

全部神の言葉を捨てても良い、聖書は今の人が生まれるずっと

前に来たのだから、今の人には関係ない、意味ない。

ダービーも全く同じ背教の教えを言いました。

 

イエシュアは私達が生まれる2000年以上前に生まれたから

私達と関係ないのですか?イエシュアの教え=トラーを聞いて

ついて行く事は無意味になるのですか?古いから。

古い教えは廃れたと言う思想は教皇と同じ事を言っている事に

気がついたら良いのです。

教皇もこの同性婚を祝福すると言う指示を出した後、とんでもない事を発言しています。

”神の言葉をしっかり握り生きることは、悪い。

その様な教えは、新しい時代を前に進むことを阻んでいる考えであり、人々を分裂させる教えである。”

危険、背教、イスラエルの神、イエシュア聖霊が語っている言葉ではないのです。恐ろしい。

これ、食べ物に関して説明していたプロテスタントの牧師が言っていました。神の言葉を頑なにしっかり握り生きることで、人との間に溝と争いが生まれると。今はそれぞれが確信し、良心に

叶う事を生きれば良いのですと。なんでも自分で考えて良い。

今はきよくない動物を食べても良いと言う事と同じです。

相手と時をわきまえないで、人に議論をふっかける様な知恵のない行動を取るから分裂が起きるのです。問題をすり替えてはならないのです。知恵が必要なのです。分裂が起きるから、なんでもありと言うそれは背教です。神はきよくない動物を食すことは、忌み嫌うべき行為であるとはっきり人に教えていて、それは変化していません。白黒はっきりしている神の教えを、白黒はっきりしてないなどと教皇と同じ事を語っているのです。

 

問題は神の言葉にしっかり握り根づき生きない人達が、神の言葉を生きる人達へ対しての批判で、律法に戻りしばられるのかと言う、神の言葉を退け自分の良心、確信によって今は生きるのだ

などと聖書とは真逆の事を教えている人がそう言うのです。

教皇が、神の教えは前に進む事を阻む、人を分裂させるものであり、新しい時代を進む事を阻んでいますと言うのです。それは

イコール神の言葉から離れて生きよ!、今まで体験した事のない新しい生き方を追求しましょうと背教を教皇が世界へ発信しているのです。それってダービーの思想と全く同じです。

神の言葉は今はクリスチャンには無関係と言う教えと全く同じです。

そして教皇は続けます。”私達は東方の博士達の様に、未だ体験した事のない新しい道を探究し歩もうとしているのです。

詰まり、聖書に立つ信仰=神の言葉ではない、今までとは違う

教えを歩もうと言っているのです。異教徒の様に生きよと。

 

東方の博士〜と訳されている言葉は、マゴス、マギアン 彼らは異教徒です。異教徒の占星術師、彼らは星を見て、神の啓示を

空に見て、イエシュアの元にたどり着いた人達です。

彼らでさえ、イスラエルの神の言葉を聞いて、ヘロデ王の所には戻らないと言う決断をしたのに、イエシュアに連なる人がどうして神の言葉から離れよ!神の教えは古くなったから離れよ!と

言う教えに聞き入っているのでしょう?

神の言葉をしっかり握り、異教神信仰、背信から離れる。

 

2テサロニケ2にある様に、イエシュアが来られる前に背教が

あると預言されています。背教=アポスタシア、教皇はそれを

宣言したのです。神の言葉とは違う、別の方向へ、新しく体験した事のない教えへ踏み出そう!

ある意味、神の言葉を曲げて、昇天以降は新しい教えになって

古い神の言葉は廃れたと言う教えも全く同じことを提唱しているのです。しかも、福音書〜黙示録には1つも新しい教えなどない

神の言葉が終了したなどイエシュアもパウロも教えていない。

その中には、モーセの五書の教えしか書いていないのに気がついていないのです。

カトリック教皇がとうとう罪を祝福しようと言いましたが、

罪を祝福することは死に至る病と同じです。

その病が癒やされる方法を知っているなら、その人にそれを伝える、それが愛です。病=罪を祝福などしてどうするのですか?

サタンの作戦に乗っています。それは人を愛することでありません。そして周りの人も確実に汚染していく、だから神はその様な背信行為をする人は群れ、民から追放されると言われたのです。

罪を罪と指摘しないこと、それは人を死に引き渡すことであり

愛の行為ではありません。

同性愛、同性婚を祝福する人達、容認する人達は、彼ら罪に汚染され溺れ、人が破壊に向かうことを祝福しているのです。

レビ記18:22 あなたは女と寝るように男と寝てはならない。

これは憎むべきことである。

18:29 これらのもろもろの憎むべき事の一つでも行う者があれば、これを行う人は、だれでもその民のうちから断たれるであろう。

18:30 それゆえに、あなたがたはわたしの言いつけを守り、先に行われたこれらの憎むべき風習の一つをも行ってはならない。

またこれによって身を汚してはならない。

わたしはあなたがたの神、主である』」

1テモテ1:10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、
偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。

<もとることとは、神の教えに反する、矛盾する事と言う言葉>

続く