人の作った教えや記念日は神が教える事実とは違う | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の記述の事実をどれほど解説されたとしても、神の言葉を

神が伝える通りに受け取らない場合には何も通じないです。

本当に神の言われている事を知りたいと願う場合には、神は聖霊により書かれた神の言葉を聖霊を通して、人に真実を教え続けて下さいます。人々に神が永遠普遍であり、神の言葉=約束永遠普遍が真実であると言う事を伝えようと、知ってほしいと誰よりも神こそがそう願っておられるからです。

 
神の言葉を永遠不変、完全、絶対であると認めず、神の完全な
言葉が歴史の途中で変わり、神が伝える本物の自由=新しい人を受け取り、神の性質通りを生きる教え=トラーから、又別のレベル上の自由に解放されたと言う、クリスチャンが唱える教えは、聖書ではなく人の思い付いた空想、思想です。
 
完全なものは、完全完璧で手の加えようが無い状態である事を
神が言われたのです。シャバットで表されているでしょう。
付け足すもの何もない状態、完璧状態が地上に現れた。
神は神が言われた事を変えない!と言ってるのに、異邦人の聖書解説は、全く矛盾しているのです。
 
聖書のどの箇所をも人間が否定するなら、それは必ず背教に繋がる行為である言う事実に気が付かないとなりません。
歴史の中で人が作った宗教〜西洋宗教は、神の言葉を変えて
ありとあらゆる違う教えを編み出しました。
 
あるパスターがこう言いました。クリスチャンは、クリスマスと
イースターを祝います。そして日曜礼拝を祝うのです。
そうですね。でもそれらは聖書に記された神の教えだから、
その様に実践されているのでしょうか?
いいえ、人間〜異邦人〜ローマ帝国が歴史の途中4世紀以降に
それらの記念日を国の宗教の記念日であると正式に決めて祝う事を始めただけで、イスラエルの神がそれを祝えなどと、人に一度も言われてはいない、聖書にも書いてありません。
 
この事を考え始めたら良いのです。どうして、神が伝える記念日を異邦人は生きるのをやめて、人間=ローマが作った宗教の教えや記念日を実践しているのだろう?と。
日曜礼拝とは、4世紀以降に、ローマ帝国、ローマ皇帝=人間が決めて作った彼らの人造宗教の記念日であり、それは聖書に記されてはいない、神の命じている事でもありません。

 

神が神の子らを呼び出している特別に聖別された記念日の

全ての暦は、レビ記23章に記されていて、これは永遠に変わらないのです。これが神が創造された神が呼び出している本物の

記念日です。今も同じ。変わらない。神は普通の日と、聖別された日を区別しています。福音書以降に登場する人全てもレビ記

23章の神の呼び出し日、聖別された会合、祭りを祝っていた事しか記されていません。

日曜日、その日は永遠に、神の聖日、主の日になどなり得ない

普通の日第一日目であると言う、聖書に記された永遠の実に事実を戻して下さい。

聖書では、日曜日は止まる、休む日ではなく、他の6日同様、

普段の労働日、創作、活動をする日であり、神が人を呼び出している聖日ではありません。

聖書に書かれた聖別の定義を無視し、神の言葉を無視するなら、その場合は、いくら神の言葉の真実を伝えようとし何を言っても、その人には通じないのです。でも偽りを語ってはならなら無いのです。神が言ってもない事を神が言ったなどと人間が偽証してはならないからです。

人間定義〜自分よがりの聖別は、神の定義する聖別とは異なるものです。

今は多くの人が土日仕事は休みです。でもシャバットとは仕事を

休むだけではなく、家庭に居ても、様々な創作活動や、物を作り出す作業もやらないのです。移動式神殿〜ミシュカンも固定式

神殿も土曜日には建築されませんでした。だから、会社、仕事が休みでも土曜日物作り制作をしたら、それは止まる事にはならないのです。ここ大事なポイントで、神の聖別された日=第7日目のシャバットは、神殿建築する事より上、優先され尊重されている事、この中に神の大きな教えが教えられているのです。

 

シャバットは皆がその日の為に6日の間同じ意識で一致して、

その日を考え生きて準備して、神の聖別された日を中心に6日間の生活をプランする。家族と共に神の前に楽しく過ごす日であり交わりの日、神の言葉を聞いて学び考える日、普通に普段皆それぞれ勉強や仕事で忙しく交わることもままならないのを、止めて、宿題もその日は日没までしないのです。目に見えない天の現実〜エデンの中に存在している事を、皆で思い出して意識を巡らして過ごす日。

異邦人の世界では、土曜日働かなくてはいけない人もいますが、

その日が何であるのかを意識して、24時間働いてる訳ではないので、時間を取ってシャバットとして、過ごす事が出来ます。

努力の手を止める。余計な事をやめる。エデンの安息に皆で戻る。こう言え変えれば良いのです。神は命じていないけれど、

ローマが4世紀に作った宗教の教えを今異邦人達は生きて、

その宗教の教えを伝統で継承していますが、聖書、神の言葉によれば、神が創造された本物の呼び出し日、週一度の呼び出し日は本当は第7日目です。私達は神の呼び出しに応じず祝っていませんと言い換えないとならないのです。

宗教の伝統の教え、習わし、人の言い伝え〜と、聖書、神はこう言われると言う違いがたくさんあるのです。

日曜日を祝う理由は伝統で、異邦人クリスチャンの間に広く浸透し定着しているし、復活は日曜日と考えていて、神が伝えるシャバットの主旨を、復活を祝う事にカトリックが変えたので、今は

日曜日が安息日と言うことにしているだけですと事実を言うべきです。偽証するなかれとあります。

それが本当の真実だからです。神がメシア昇天以降に神の記念日、週一度の聖別された日を、第7日目から第一日目に変更などしていないのです。そして異邦人とイスラエルに別の記念日、

呼び出し日など、神は設定していないのです。

神の子らは同じ日に、神に呼び出されている。

レビ記23章の神の記念日が本物のオリジナルの神が創造された記念日で永遠に祝われるもの。異邦人は神の教えを古い教えであると捨てたので、同時に神の記念日を祝うことを捨てました。
それが聖書に書いてある神の聖別された呼び出し日をクリスチャンが祝わなくなった本当の理由です。
でも、神は神との関係に入った印として、神は人にシャバット=第7日目を与えていることはこれからも永遠に変わらないのです。永遠に大事にガードして!と言われた夫からもらった結婚指輪を捨て、婚姻契約書を破棄し、そして夫との記念日を忘れると言うのが何を意味しているか考えた事がありますか?
人の教えに聞き入っている事に気が付かないから、夫=神が文字で記して永遠の証拠として与えている言葉=祝福が古い、廃れた
などと読み違えているのです。夫との婚姻の関係に入った証、
印として夫から与えられたシャバットも捨てている。
キリストの誕生日を祝う事は悪いことではないですが、12月25
日は異教徒の祭りに便乗して作られた記念日であり、12月25日にキリストが生まれた事など聖書には書かれていません。
誰か書いてあると言うのを見つけたら、ぜひ知らせて下さい。
そしてその日を祝う様に神が言われた事が聖書に書いてあったら、ぜひ教えて下さい。12月25日がキリストの誕生日ではないこと、クリスチャンではない普通の人にも今多く知られる所となりました。そうするとこう言われるのです。
どうしてクリスチャンは、聖書に書かれた真実ではない事を
言ったりやったりするの?と。それ嘘じゃん!と、私自身も、
実際に何度もそんな事を親戚から言われて来ました。どうして
真実を語らないの?と。
しかも洞察力鋭い、義弟に言われました。神は神の言葉が変わらないと言いながら、どうして歴史の途中で変えてるの?と。
その通りです。神が嘘つきではなくて、クリスチャンの教師達が勝手に神の言葉が変わったと言って、それを一般の人に教えて、皆がそう言う様になってしまっているだけです。
 
普通の人〜人の思想で聖書を記述を読み変えない人の方が、
聖書に書かれている事をその通りに見ることが出来るのです。
普通の書物を読む通り、勝手に読みかえることをしなければ良いのです。
イースターとは異教の女神の名を付けた、春分の満月の後に来る最初の日曜日に祝う、ローマ教が決めた日です。復活の記念日を
祝いたい!ですよね。聖書では、復活=初穂は、過越の祭り=
子羊の血で贖い出された事を皆で思い出し祝う記念日、そして
新しくされ、罪が削ぎ落とされている事実を教える種無しパン=の7日間を祝い、真ん中の日に大地から新し命が芽生える、復活の命を表す日としてずっと祝われているのです。
過越=贖い、救い、初穂=新しい命、復活、種無しパン=罪が
削がれている、7日間=完了!これだけでイエシュアの業が網羅され、福音の中核を生きて学び祝う事が盛り込まれている事に気が付きませんか????
これが神のデザインした復活を祝う記念日です。
福音の全てを網羅する、それが神の記念日であり、生きて学習し続ける神のデザインされた記念日なのです。
神が創造された記念日の方が優れて絶対であるのに、どうして神の創造されたものを退けて、人が作ったものにすり替えてるの?
と考えたら良いのです。
そして、日曜礼拝は、4世紀、聖書が閉じられた後、完全に人が編み出した記念日〜ローマカトリックが編み出した記念日です。これは土着宗教=太陽神、太陽の日、サンデーが彼らの記念日であり、ローマ皇帝を崇める日でもあるので、大衆に新しく作った宗教が浸透する様に、安息日を日曜日に変更したのです。

でもクリスチャンは聖書、神の教えで昇天以降、使徒達が日曜日を安息日として祝う事に変更したなどと解説していますが、

そんな事1つも聖書に記されていないどころか、聖書には安息日=第7日目を祝い続けている記録しか福音書以降には、それしか書かれていません!
人間が作り話を創作して、聖書の記述を曲げ続けて解説しているのです。その様な違反は今後一切やめなくてはならないのです。
全部人が作った教えを通して、聖書を曲げて解説しています。
神が言われていない事を言った事にしている矛盾に気がついて、宗教が考えた教えや記念日と神の教えと神の創造された記念日は異なると言う事実を先ず知れば良いのです。
 
聖書には、何が神の創造された記念日であるか書かれています。
レビ記23章は神の聖日=主の日=神が聖別し神の子らを呼び出している全ての日の暦と内容が記されています。
これは永遠に変わらない、代々永遠に祝われるわたしの記念日
と神が宣言している記念日です。
宗教が作った記念日、人が人を呼び出している日と、神が創造されて神が人を呼び出している聖別された日は違うのです。
そして、国や文化の記念日も、レビ記23章の記念日とは違います。ハヌカとプリムは、イスラエルの歴史の中で起きた、神がイスラエルを敵の手、背教から救出した事を記念している日です。
だから、ハヌカもプリムもイエシュアは祝っていたのです。
これらは、背教、汚れ、同化、同調〜異教の神々の教えに染まる
警告と、そこからはっきり境界線を敷く事、そして神が伝える
聖別を汚す生き方をしてはならない事をはっきり教えているものでもあります。

人はいつ集まっても良いのです。交わりは大事だからです。

神が呼び出している日以外は、いつ集まろうと、それは普通の日
として集っているだけで、神の聖日の意味はその中にはないのです。今日1月21日は日本の元旦ではないでしょう?
でも神の呼び出している日ではない日を人間が勝手に聖日とか
主の日などと言い変える事は、神の前に背信であり、神が言ってもない偽りを人に語っている事に気がついたら良いのです。
 
人間関係の中でも、自分が言っていない事を友人が代弁して
違う事に言い換えて他者に伝え続けられてしまったら、大迷惑であるし、どうしてその友人は自分の言った事と違う事を人に言い続けているのだろう?と不信感が湧いて、関係が壊れるでしょう?

だったらどうしてクリスチャンは、イエシュアの名=実態を内側に帯びているのに、神に対して神が言われていない事を、神が

言った言ったと言い続けている、その矛盾に聖書から気が付かないのでしょうか?

考えたら偽証は神に対する背信、罪、酷い行為でしょう?全部
聖書とは異なる、人の作った教えを頭脳に叩き込まれて刷り込まれ、洗脳されてしまっているからです。
神は人に神が伝える通りに生きてと教えているのに。
伝統で長く実践されている事は、神が教えているのだと勘違いしますが、聖書だけに戻れば、1世紀の人達誰一人ローマ帝国が
作った教えや記念日など祝っていません。神は神の言葉、教え、
契約を歴史の途中で変えてなどいません!

そんな事1つも聖書には書いてないのです。聖書に書いてない事は、神の教えではないと言う、こんな単純な事実を認識していないのです。

ダービー思想の様に、聖書に書かれていない、預言されていない
秘密の神の計画があったのだ〜と言う都合の良い言い訳、嘘、
その様な肉的異教的思考回路と全く同じ事を主張しているのです。聖書に書かれていない事は神の教えなどではありません!
と言う大前提を人間が覆すから、人の作り出した教えや記念日と
神の教えと神の造った記念日の違いが聖書には書いてあるのに、
識別できなくなっているのです。聖書を読んでみれば分かる。
そうして人は神の教えや言葉、記念日を曲げ続けて無感覚になり宗教の教え=人の教えを熱心に信奉しているのです。
神が言われた意味は永遠であり、未来預言です。   下矢印
 

エゼキエル20:21しかしその子どもたちはわたしにそむき、

わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日=第7日目を汚した

そこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、

わが怒りを漏らそうと思った。

 

22:26その祭司たちはわがトラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日=第7日目を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

イザヤ56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、

「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた

言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。

56:4 主はこう言われる、「わが安息日=第7日目を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。