人の教えが神の言葉に敵対し相反し矛盾する場合神の言葉を取る! | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の教えは、昇天以降変化した〜と言うクリスチャンの教えの

世界では聖書と勘違いされている神の言葉に対する定義は、神が

伝える真実ではない、反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ異邦人が1世紀後半以降編み出した教えであり、聖書には神の言葉が変化する、救いの方法が変化するなどと言う人間が考えついた

思想など書かれていません。聖書にはその逆が書いてあります。

最初から最後まで同じ、同じ変化しない神、変化しない神の言葉変化しない同じ贖い、救い、同じ1つの福音、1つの道〜義の道イスラエルと異邦人1つの群れ=カハール、エクレシア=神の声に応答し、異教の世界の四隅から呼び出されて神の聖なる民と

なった人達。神が伝える教え=トラーに記されたものが、聖なる民の歩む義の道であると聖書には書いてあるのです。

同じカハール、エクレシアと言う言語を福音書以降は、群れ、集会と訳さず、教会と言う新しい翻訳造語が当てがわれているから今までに存在しなかった新しい異邦人クリスチャンと言うグループが現れた!などと誤解、錯覚しているのです。

神の家族=群れ=集会=カハール、エクレシアは1つしかない。教会と言う造語で誤解されている異邦人の新しい群れなど、

ヘブライ語、ギリシャ語の聖書には書いてないのです

例え、異邦人だけの群れが諸外国に点在していたとしても、本家大元はイスラエルでありその同じイスラエルの家族に属するメンバーである異邦人である事、同じ神の教え=契約を受けた人達は、イスラエルと同じ生き方をする事を神は教えているのです。

 

イエシュアはユダ族出身、ヘブライであり、西洋、ローマでは

ないのです。イエシュアは西洋宗教を作るために地上にこられたのではないのです。イエシュアを信じる〜これ以上ユダヤ的な事はなく、イエシュアに属する人は、皆イスラエルの大家族に加えられた1つの体。神は分裂の神ではなく、エハッドの神。

 

クリスチャンと言う言葉も1世紀当時のニックネーム=あだ名でしょう。キリストに付くもの。キリストに付くものと言うあだ名をタナック=モーセの五書、預言書、諸書では何と書かれていますか?聖なる民、祭司の国の民、残りの民と書かれています。

だから、パウロの書簡の冒頭に、”聖徒達へ”とモーセの五書の中に記された言葉を使っているのに、気が付いて読んで下さい。

別物の新しいグループ=家族、異邦人単独の家族と言う思想は

ダービー=人間の思想であり、神が人に伝える真実ではありません。

変化球の思想は、創世記〜マラキを別の教えであると考え、福音書〜マタイ以降に時代が移り、神の教えが新しく変わり、初めて聖霊が人の内側に住まう聖霊時代になり、<時代ごとに神の教えや業が変わると言うのがダービー思想=人間が思い付いた教えであり、聖書ではない。>メシアが地上に来られてから、罪の許しが初めて人に与えられ、初めて聖霊が人に与えられ、そして、

メシアが来るまで、救いを得るために与えられていた”律法”が

そこで終わりになったと言う教えですが、これ全く聖書に記されている内容と全く違う人の思いついた考えなのです。聖書を本当に知らない人が解説しているのです。

聖書を読む前提が、土台が完全に最初からズレているのです。

永遠不変と神が伝える大前提を土台、柱を人が破壊、崩壊して、人間の思想を通して聖書を曲げて読んでいるのに、丸で気が付いてない盲目状態なのです。聖書とは違う別の物語創作の聖書解説をし続けているのです。

福音書〜黙示録には、モーセの五書に反する教えや、モーセの五書とは別の教え、聞いたこともない預言や、隠されていた神の新しい啓示、教えなど1つも記されていないと言う事に、聖書の記述から気が付かない人には、福音書以降は、別の教えに聴こるでしょう?神の言葉が終わりありきで全て聖書はその思想から講壇から語られ、解説されているからです。

トラーとは別の神の教えはこの世にはない。でもタナックに記された言葉とは、別物の言葉で意図的に訳している翻訳などもあるからです。

前に解説したスコッフィールドの注解訳聖書など、聖書とは異なる解説=ダービー思想==デイスペンセーション神学思想が聖書のページに記述され、それを、神学校の教師が読み、聖書ではなく、その人間の思想、教えを教師達が買い、それを一般の人に

教え続け、聖書とは異なる思想を爆発的にアメリカで、世界へ

浸透させてしまい、今に至る経緯があるのです。

ダービーもスコッフィールドも正式な教育=神の言葉を学ぶ、

まして、パウロの様なトラー教師からヘブライ聖書を学ぶなどと言う正しい神の言葉の教育を受けていない、只のレーマン、元弁護士であり頭脳明晰であっても、聖書を正しく学んでいない。

その様な人が勝手に自分の解釈や思想を聖書の中に記述したのです。人間の思想の聖書の註解が、神の言葉であると、その聖書が出版された1909年以降、アメリカの神学校の教師がこぞって神の言葉を曲げる思想に賛同し始めたのですから、普通の人には何が聖書で何が人の思想なのか、正しく聖書を知るパウロの様な人でなければ、何が人の思想で、何が神の言葉なのか識別する

知識がない。

神の言葉を否定する、破棄する、反モーセの五書、反ユダヤ思想は、1世紀後半から出現した、西洋教父達の間に、既に蔓延っていて、それがずっと今に至るまで続いているのです。

聖書に登場する人達は、神の言葉を一点一画も否定、変更など

していません!異邦人がその様な背信をし続けているのです。

 

不適切な解説や翻訳、プラス、原典に無い、文章や、言葉を挿入する違反を翻訳聖書ではやってしまっているのです。

タナック=モーセ五書、そしてモーセの五書を解説する預言書、諸書に書かれている同じ教えの抜粋が福音書以降にも書かれているだけなのです。

神がはっきり人に伝えている事。人がして良い事〜人がしては

ダメな事、白黒はっきりしている事が書かれています。

モーセの五書を捨てている人達には、神の教えや、罪の定義の

全貌、聖別された生き方の全貌、その意味、その他諸々神が伝えている永遠不変の人の生きる全てが教えられていても、聖書を正しく読まない、理解しないから、神が人に何を教えているのか

分からないままでいるのです。白山羊と黒山羊さんのお手紙交換と同じ、読まずに捨てたら、中身に何が書いてあるのか分からないのは当然です。

しかも、古い教えは終わって、今の時代は、それぞれが確信持つ事を生きれば良いなどと言う、人間の思想〜神の言葉に反する教えがされていて、人間至上主義=人間が神の立場の上に立って良いと教えているのですから、神の言葉の真実など、その場合にはその人には届かないままになります。書いてあっても、他人事〜昔の人に言われた廃れた教えさ〜と読んでいるからです。

神が人に伝えている事、して良い事、悪い事は白黒はっきり書いてありますから、普通に読めば分かるのです。

道徳的な教えだけが、白黒はっきりしているなどと、考えていては、神の国、聖なる民、祭司の国の国民としての生き方など知ることが出来ません。民法、道徳、儀式全部神の教えは1つとして繋がって完全であるからです。

 

神の教えは、神がはっきり白黒伝えている事があり、その中でならなんでも自由選択が出来ます。神が伝えてない事は自分の生活の中で、神の子らとして常識がズレないで考えれば分かる事なのです。目的地にバスで行こうか、車で行こうか、電車で行こうかそんな事まで聖書には書いてないでしょう?

そんなのは、人の常識で、一番良い方法を考えれば良い。

神の教えでは、シャバットには、遠い旅には出ません。

だから、イスラエルでは、飛行機はシャバットが終わる夜遅い

フライトから開始になり、スーパーも土曜の夜に開きます。

ある人は椅子に座る、ある人は床に座る、ある人はコーヒーを飲まない、甘いスナックは食べないと決めているなど、色々あります。それらは、どちらを選択しても良いのです。分かりますか?

神が指定していない、禁じていない事の中では、人の判断で選べば良いのです。今日、スーツを着ようか、ドレスにしようか、

カジュアルな格好をしようか、その場、その時に相応しい装いをすれば良いと分かりますよね。

制服着て行かなくてはならない学校なのに、私服を着て行くのは非常識です。私服、服装が悪いのではなく、学校に通う規定があるので、その学校に通う生徒はそれをしなければならないからです。私服が罪ではなくて、それぞれの学校や会社、社会の中での決まり通りにするのは、当たり前のことであり、人を縛る律法ではないと分かるでしょう?奇抜な格好、人を不快にする服装、

女装、男装などその様な事はしてはならないと言う事は、

聖書にははっきり記されています。

 

こんな解説を聞いたら、焦点がなんだかぼやけてしまうのです。

論点をすり替えている事にはっきり気が付いて下さい。

ある人は野菜しか、食べない、ある人はポークを食べ、ある人はそれを食べないと言う、それは今は自由ですとクリスチャンの

教師はそう人に教えていますが、それ神の教えではありません!食規定は、神が永遠の教えとして聖なる民、祭司の国民、異邦人であれ、イエシュアを通して同じイスラエルの神の大家族に加えられた人は、神が白黒はっきりしている食規定を教えているのに、それは今は無効と主張し人に神の教えとは違う事を教えるのは、ダービーの様に人が神の言葉を塗り替える教えをする教えで、聖書ではありません。

 

この点ですが、神が言われる事が絶対であると、神の言う事を

取る人は、安全に守られます。神の言葉ではなく、人の教えを取り理解しない場合、なんでもあり、背信へ向かう行為なのです。

イスラエルの神を信じない普通の人でも、もし、それらの動物の生態を調べた場合、それらが毒、ウイルスの宝庫であり、人の

健康、細胞、臓器を害するものであり、ウイルス、疫病の元で

ある事、人間が食べる代物ではない汚いものである事を理解したら、賢い人は、他にたくさん食べれるものがあるのに、その様な汚いものを、わざわざ食べようなんてしないはずです。

クリスチャンが、今は道徳的な教え以外、全て白黒はっきりしない、グレーゾーンだなどと、神の言葉を退けて、人の教えを信じているだけで、聖書には食規定が昇天以降変更になったなどと言う事など1つも書かれていませんクリスチャンが食規定が

変わった証拠が書いてあると勘違いする箇所は、マルコ7、

使徒10、ローマ14、1コリント8、コロサイ2:16などの箇所を、完全に読み違えて誤解した解説をしています。

その箇所は、すべて食規定が変更になった,シャバットが変更になった話など1つもしていません。

使徒15章のエルサレム会議の意味が見えてないのです。

そこにははっきりと書いてあるでしょう。異教徒が食べる、汚れた動物=豚、血、異教の神々の祭壇に捧げられる様なものを食する事は神の教えに反するから、異邦人は先ずそれだけでもはっきり最初に理解して、認識して!と書いてあるではないですか?

その他項目=異教の神殿娼婦と多産の儀式で交わる、動物を絞め殺す、それはモーセの五書には罪であるので自覚して!と、パリサイ派の長老達が神の教え=モーセの五書を知らない異邦人が先ず、知らなければならない事、イエシュア信者として、仲間と

フェローシップする上でも、最低限の罪を理解してと言った言葉が書いてあるのに、その意味を全く読み取っていないのです。

そして、更には、異邦人はこの4つだけのモーセの五書を守ればあとは何でも自由などとも解説していますが、そんなバカな事をパリサイ派の長老は言いません!彼らは、こう言っているでしょう。”異邦人もシャバット毎に、ユダヤ人の会堂でトラー=モーセの五書を学んで行くうちに、神の教えを徐々に理解して行くだろうから、忍耐して寛容に受け入れよう!”と言ったのですよ。

パリサイ派=偽善者?嘘です。どのグループも一部の人は神の教えから逸脱した事を言ったりやったりするでしょう。それらの人が特筆されているだけなのに、クリスチャンはパリサイ派=偽善者と言うのです。それならば、日本人が何かしたら海外では日本人丸ごと同じレッテルが貼られてしまう、そう言うことを言っているのです。

パリサイ派〜当時国民全体に尊敬され、信頼されていたとあります。ガマリエルはパウロのトラー学者=大先生、ラバン ガマリエルであり、イスラエルの政治家国会議員なのです。

 

使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、

 
国民全体に尊敬されている、偽善者?ありえないでしょう。
1つのグループに居る誰かが道外れた生き方をしたら、その群れの他の人はみんなズレた人とはならないでしょう?でも、一人が
違反すれば、その群れは、世間からその様な目で見られてしまいますから、個人個人の生き方に注意が必要なのです。

 

ここ解説が必要です。生きるとは、衣食住、その他全部含めて

聖なる民は何を生きるのか?と神が教えているのに、その神の

教えの中心、土台=モーセの五書を終わり!道徳的な教え以外

自由選択!などと、人間が言っているだけなのです。それ神が

言っているのではない事に、聖書の記述からいち早く気が付いたら安全に守られます。

聖書は、どの箇所も、100%モーセの五書に記された教えを

解説している!と言う事に気が付いて下さい。

福音書以降は、タナック、モーセの五書、預言書、諸書の短い解説でしかないのです。そして、福音書以降には、モーセの五書に記された聖なる民の生き方の詳細全部書かれていません!だから

その箇所だけ読んでも、神が教えている事がよく分からないのです。だから、人の思想=神の言葉は廃れた〜今は人間の確信する事が基準〜その様な人の思想が神の教えではないと識別できないのです。

いやそうするとハードル高く感じるので、こう言い換えます。

人の教えと、神の言葉の見分け方の大前提を知れば良いのです。

全部分からなくても、神の言葉は永遠に固く立つ!神は神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!イエシュアも同じ事を言われた!ならば、どうして人間が神の言葉に付け足し差し引きする様な教えは、単なる人間の教えだと理解しないのでしょうか?

簡単です。神の言葉のどの部分も古い、廃れた、異邦人には関係ない、そしてユダヤ人と異邦人は別の家族だからそれぞれに違う教えや記念日が設けられたなどと言う思想は聖書ではないと神が伝える真実からのみ聖書を読み直せば良いのです。

 

続く