人の教えは神の言葉に敵対し矛盾する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

詩篇119:43 またわたしの口から真理の言葉をことごとく除かないでください。わたしの望みはあなたのおきてにあるからです。

119:142 あなたの義はとこしえに正しく、あなたのおきてはまことです。

神が神の言葉は永遠の真実であると言い、後でその宣言を神が自ら訂正し、翻したのでしょうか?

完全なる絶対の真理が後に変更になる?そもそもそれでは、神の言葉は、最初から真実として始まったと言えなくなります。
真理、真実とは何?その様な矛盾に耐えられなくなるのです。
自分の誕生日が4月5日であるのに、12月25日があなたの
誕生日と架空の日を言われ続ける嘘、矛盾に耐えられますか?
自分が女性であるのに、あなたは男性と言われる矛盾に抵抗感じませんか?猿から人間が進化した、真実を知る人=神が全ての種に従って、全ての生きるものを創造された事を知る人は、その偽の教えの矛盾に耐えられないのです。
詰まり、真実ではないのに、あたかも皆が真実の如く語るその
嘘、矛盾に耐えられない。嘘なのに、本当と言わなくてはならない、そんな嘘偽り矛盾に耐え切れない。
詩篇119:44 わたしは絶えず、とこしえに、あなたのおきてを

守ります。

119:45 わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。

聖書には”自由”が 後で私達を神が伝える自由からさらに別の自由に解放するなど聖書のどこに書いてありますか?
ここに全ての人が自分に問う道理、聖書に叶った質問があるのです。
聖書の中に”自由”とであると言う神の教え〜インストラクションは、後に神がその自由の教えから、私達を別の自由に解放する、自由から解放、解き放たれて更に別の自由を与えられる??
それは、なんの宗教の思想ですか?
その教えは、聖書=神の言葉が伝える真実ではない、馬鹿げた
解説なのですが、クリスチャンの間の主流の教えは、その様に教えているのです。もちろん、それは聖書=神の教えなどではありまん。
そして、神が神の教えの中で伝えている”自由”をクリスチャンは
同時に”束縛” ”縛り”などと別物の教えにすり替えて教えているのです。ダービー思想に則って。
神は最初から、”自由”〜イエシュアにより新しくされた人が、
神の性質通りに罪の性質から解放されて、神の教え=神の性質に造られた人の成り立ち通りを自由に生きれる!と言う永遠から
存在するイエシュアの業は確立されていて、信仰により信じて受け取るどの時代のどの人種にも与えている事が書かれているのに、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に書かれた事とは
違う別の教え、別の福音、別のタイプの救いや、自由を昇天以降与えたと聖書に書いてあるのでしょうか?
クリスチャンの世界で語られる、自由の律法〜聖霊時代の生き方=恵の律法の教えの中身が何であるか言えますか?エレミヤ31章は、新しく更新されたシナイ山の婚姻契約である事を知っていますか?頭脳に割礼がされた人々、それを心に記されたと訳されていますが、神の言葉を裏表よく理解する人達により実践される
神の大家族の生き方と書いてあるのです。その契約の中身は、
モーセの五書と全く同じ内容で、ユダの家とイスラエルの家に対して与えられる契約とはっきり書いてあり、イエシュアも同じ事を言っています。”イスラエルの失われた羊の元にだけ遣わされた!”と。そして過越の祭りの晩餐でイエシュアが再更新された契約書はモーセの五書=シナイ山で父が与えた神自らが手で刻んで記した命の言葉の契約の板です。
語った相手は、弟子たち=ユダヤ人だけでしたよね。異邦人は居ない。では、異邦人はどうなるの?と言う問いがあるでしょう。
異邦人も、1つに修復されるユダの家とイスラエルの家の大家族に加えられ=野生のオリーブの枝、別の羊の囲いの羊、同じ神の
婚姻契約を与えられて同じ大家族として生きる!と聖書にははっきり記されています。それをクリスチャンが違う教えに創作、
アレンジ作り変えて聖書とは異なる教えをし続けているのです。
ある部分は聖書の事実です。キリストを信じるだけで救われ、
罪許されると言う点は事実です。でもその後、個人が確信を持つ
事を生きれば良い時代になったと言う聖書とは異なる人間至上主義、神の言葉より人間の考えを上に引き上げた思想を教えていて、神との関係は神が提示する婚姻契約を生きることで正常に
成り立っている事実がまるで見えないまでいるのです。
イスラエルの神との関係、婚姻指輪的に表向きに見える印を
与えられているのです。それが何か知っていますか?
”シャバット”です。だから異教徒はイスラエルの神の記念日を祝いません。
神の子らは、人が創作して呼び出している日ではなく、神が創造されて、神が神の子ら全員を呼び出している”聖別された日”週一度の記念日は、第7日目のシャバット、それを祝う事が神との関係にある世界に向けて見える印である事を教えているのです。
私は宗教の教え、記念日だけを教えられて来て、聖書に書いてある事をまるで理解しないまま、宗教の教えを生きていました。
人に与えられた”自由”とは、イエシュアに在る自由、1つしか
ない!エデンの園から、黙示録まで、同じ1つのイエシュア=
救い、福音が語る神の中に罪から解放されて生きる事が出来る
自由しか書かれていないのです。同じ!
 
クリスチャンの世界の解説は、聖書が伝える同じ自由を、
父に与えられた自由=古い教えと、キリストにより与えられる
自由が別物であり、古い、新しい自由の2つは対立するなどと言う、ダービー思想を聖書だと勘違いしているのですが、聖書には
そんな事書いてありません!
よくよく注意して考えて下さい。福音書以降には創世記~マラキとは、別のタイプの福音、救い、贖い、が書かれていると
勘違いしているでしょう??
福音書以降に記された事、言葉がありますね。
それらの言葉は、創世記〜マラキに書かれている言葉の意味と
内容と全く同じ事を解説している事に気が付いていますか?
その永遠の事実に盲目状態で、別の教えや別の定義が書かれていると誤解しているのです。
タナックに記された贖い、救いの内容は、福音書以降に記された
贖い、救いと同じです。なぜなら、イエスキリストは昨日も今日も永遠に変わらないからです。変わると主張するのは、ダービーの様な異教徒思想を持ち込む人の考えなのです。
神が伝える一貫性、永遠性、1つ〜エハッドである事実を聖書から読み取っていない理由は、人の教えは神の言葉を2つに分断しているから、2つ別な教えが書かれていると思っているからです。
福音書以降に使われている言葉、救い、贖い、愛、許し、全ての言葉の定義、全部ですが、創世記〜マラキで使われている言葉の意味と全く同じなのです。何も変わらない。福音書以降は、聖書の最初を短く解説しているだけなのです。福音書以降に、愛と書かれていたら、それはモーセの五書=婚姻契約に記された愛の実態の事なのです。
み言葉、教え、おきて、仰せ、戒め、知恵etc etc etcと書かれていたらそれらは全てモーセの五書を指して、その中に書かれている同じ事を話しているのです。
 
先ず、人の思想=初代西洋教父たちに始まりダービーや現代の
異邦人が語る、神の言葉が廃れると言う、作り話の伝統の人の言い伝えの方を完全破棄、捨てて、聖書だけに向き合い、書いて
ある通りに聖書を読み直し、正しい理解に軌道修正する必要があるのに、軌道修正する必要に気が付いていないのです。
詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

 
もっと混乱させるのは、完全であると神が宣言するものがどうして歴史の途中で不完全になると言うのでしょう?
ここをよく考えて下さい。クリスチャンの中の主流の教えは、
神の言葉が変わると言う砂の上に建てた家の思想を語っているのですそれは、神の言葉に完全に相反する思想であり、神の言葉は完全で変化ないと書いてある聖書のどこに照らし合わせても、
全く矛盾する表明なのに、クリスチャンはその矛盾に無感覚、
盲目なのです。その理由は、人の思想と言う別のフィルター回路
を通して、”古い教えは縛りの律法”だから、メシアは律法の下
にある人々を解放したからだ〜と解説するのです。
 
でもそれは、パウロの書簡に書かれた言葉を完全に違いしているからであり、ダービーの様な人が、古い箇所は道徳的な教え以外異邦人には今は全部関係ない、福音書もユダヤ人だけへの教え、そして、パウロの書簡、いくつか読むだけで今は十分と言ったからです。どうして?こう説明するでしょう?今は聖霊時代で、
その人の心に記された事、示された事、確信を持つ事を生きれば良いから聖書の古い教えはいらないのだ〜!”これ全部聖書に書かれた事と全く関係のない、神の言葉と異なる、相反する人間の思想なのです。人間至上主義〜神の教えを無視せよと言う冒涜。
 
そして、神の完全な言葉を、今はより良い優れた教えになった、神が言葉を変えたと言うのも神の言葉と相反し、矛盾しています。神の言葉は完全、完全なものはそれ以上手を加える必要、
修正する必要のない完璧な状態のものなのに、どうしてその完璧な神の言葉を神が後で手直しするのですか?不完全な人に合わせて教えを変えた?いや、そんな事などしていません!
クリスチャンはこう言うことを言っているのです。人が生きれない教えを神は古代に与えたから、それまでの色々な規定を取払い、人を自由に解放した〜と。罪を罪とも認識出来なくなる、
いや現になっているのです。人間が神の言葉にどの部分でも、
手を付ければ、どこまでも破壊、崩壊させる事が出来ます。
これは次の記事の内容になると思いますが、先月12月8日、
ローマ教皇が、同性婚=罪を祝福しますと発表し、その他諸々その解説を表明しましたが、完全に背教の宣言です。それはどこから来たのか?神の言葉を人間がこの様に崩壊し続け、神の言葉に人間が勝手な解釈を施し続け、神の教えは廃れた〜と言う、
そう言う思想が世界へ罪の扉を開く事をしているからです。
もし、あなたが、ダービー思想の様に、神の言葉が変化する、
神が、完全である神の言葉と言いながら、より優れた教えに変化させたと言う、その様な聖書の記述とは丸で矛盾している人の
思想に心地よく、何も疑問に思わない場合、神が伝える永遠の
真実は耳に、頭脳に入って来ないと言う事です。
 
イエシュアは耳のあるものは聞きなさいと言われたでしょう。
耳を引っ張って、神の言葉の真理に意識を向けてと言われているのです。もし、神の言葉の真実を聞かないと言うならば、これは
ルカ16章のラザロの例え話でイエシュアが諭している警告そのものです。
”16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。”
 
モーセの五書、預言書、諸書に記されている神の言葉に今耳を傾けて考えない人、詰まり、神の教えている事は100%タナック以外の教えなどこの世に存在しないから、タナックに記された事に聞かない人に何を言っても無駄!神の永遠の真実など通じませんと言う警告なのです。
イエシュアを通して贖われ救いを受けた人は、内側に聖霊を与えられています。聖霊は神の言葉に1つも反する事など教えないと言う重大原則事実をまず理解して下さい。そして、私達は全部を
知っている訳ではないので、絶えず神の言葉を聖書の中に探り、自分の考えている事が神の言葉とマッチしているのか、検証する、探り求める事を神が私達にそうしなさいと求めているのです。それをしないから、人の教えに騙されて、神の言葉が歴史の途中で変化したなどと言う人の教えが神の言葉であるなどと考えているからです。
私達は間違いを正す事に対して謙虚でなければいけないし、
それが無いなら成長も無い。嘘を本当なんて信じながら生きる
虚無を続けるのは無意味だからです。実のならないいちじくの木
になってはならないからです。
神の言葉により生きて、御霊の実がなる。偽物の教えに植ったら
御霊の実はならないのです。
箴言3:12 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。
 
神が私達子らを愛するから、正しく教え、戒められるのです。
箴言12:1 戒めを愛する人は知識を愛する、懲しめを憎む者は愚かである。

15:9 悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。

15:10 道を捨てる者には、きびしい懲しめがあり、戒めを憎む者は死に至る。

神の教え=トラーを憎むものは死に至ると書かれています。

 

テトス2:15 あなたは、権威をもってこれらのことを語り、

勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。

 

1テモテ 5:20 罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れを
いだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。
箴言 9:8 あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。
 
今日は神が呼び出している週一度の聖日、記念日です。
聖書に登場する人、神の子らは永遠に祝われるわたしの記念日と
言われた神の言葉を理解し、シャバットを第7日目に祝った
記録だけが聖書には書かれています。
 
 
続く