ローマ14章 パウロの意図を曲げた解説をしてモーセの五書が終わりとされてしまっている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ14:5に、日を重んじるとあります。

そして、その前に食べ物、野菜だけを食べる、肉を食べないなどと書いてあります。

この箇所は、クリスチャンの定番、典型的な解説をしていますが、パウロの意味している事とは全く違う解説だけがされている

箇所なのです。そして、それがモーセの五書が終わった証拠などと言ってますが、そんな事パウロは書いてなどいません。

 

その根底にある教え=西洋人思想、ダービー思想=神の教え=

トラー=モーセの五書は終わり、又は異邦人には関係ない、

イスラエルだけなどと言う思想ががっちり根付いてその思想から

全て聖書を曲げて語っているのです。

 

この様に解説しているのです。

『神の教えには、白黒はっきりしている事があります。それは、

道徳的な罪に関してです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな、妬むななど、これらは、はっきりしています。

誰でも分かりますね。でも日々の生活には、こんなにはっきりとはしていない事が多くあるのです。日本人で言えば、仏滅、友引先勝、大安など日に関して気にしますよね。そして日本では、

友引の日など火葬場は火葬したりしません。

外国にはこんなのはありません。

ある群れは礼拝には正装で来なくてはならないと考える人達が

います。あるグループは、カジュアルな服でも良いと考える。

ある国でその群れは伝統的に床に座って礼拝するのが正当と考える。それで椅子に座るかどうかで大きな議論になるのです。』

 

ここ迄の箇所で、何が神の教えで、何が人が勝手に選択して良い事でしょうか?最初の部分、出エジプト20に書かれた、トラーの題目、盗むな、殺すなかれ、姦淫するなかれなどは、誰でも

理解出来ます。

次の服装に関しては、どれでも良い、何も聖書に指示がないものは自由選択出来ますが、でも服装に関しても、肌があらわになる様な格好はしないとありますし、男が女装はしてはならないともあります。人が目を背けたくなる様な、奇抜な格好はしないのは常識でしょう。太古の人から見たら今の服装は裸に近いと言う

感じです。

常識の範囲内で、人を不快にしたり、異性を挑発したりする様な

服装はしないのは当然の知恵です。

床に座るか、椅子に座るか、そんなのは伝統に縛られなくても

椅子の方が楽でしょう。どうでも良い事にこだわる人がいて、

伝統の人間が考えた教えに固執している人もいるのです。

これ何となく分かるでしょう。その家のしきたりとか家風とか

あって、家のおばあちゃんがこだわっている事があるetc etc 

これは神の教えとは何も関係のない事、自由選択であると

分かるでしょう。そして次です。神の教えとそうではない事の

区別をはっきり付ける必要があります。

 

はっきりしている部分と言う把握を間違えてはならないのです。エデンの園と同じ、神が許されている範囲〜神が教えている

境界線の囲いの中でなら、どの様な選択もありなのです。

そして許可されている事の中でも、非常識な行動をしてはならない、これは普通の常識がある人なら分かる事です。

そして時と場合とで、同じ行動でも逆効果になる場合があるから注意して行動しないとならないと教えられているのです。当然です。箴言27:14友人への祝福も、早朝に大声でするなら、

それは呪いと見なされる。

私達は日本人が考える様な、友引先勝などと神は日に対してその様な定義をしていないので、それは全部人の作った作り話の

人の迷信、言い伝えなので関係なと分かりますが、迷信信じる

日本人、気にする人の前では、敢えて人の嫌がる事は避けると

言うのは、神からの知恵ですよね。この違いが見えますか?

 

問題なのは、神の教えが定義していない人の中で常識に沿って

普通に選択する事と、神がはっきり指示を与えて神の教えを伝えている事に関して、神の教えを退けて、今は何でも良いとクリスチャンが言っている事と、聖書=神の教えを塗る変える異邦人思想=マルキオン、ダービー思想を語っている、それが聖書とは

異なる背信なのです。

クリスチャンの教えの世界は、神の言葉を退けて、それぞれが

確信する事を行えば良いなどと教えているのです!それは、パウロが伝えている事などではありません。神の言葉を無視して、人が勝手に神の言葉を判定し、仕分けて生きよなんて言うのは聖書の中には1つも書かれていません!ダービー思想!

その様な人の思想の教えが大問題、神の言葉を否定する教えなのに、全く気が付いていないのです。気が付かないどころか、神の教えを古くなったと言い、除去する事が正義と考えていませんか?

なぜ?ダービーの様な思想=異邦人には、創世記〜マラキ関係ない、福音書も関係ない、その教えを生きなくて良い。この様に

教えられている根、種がずっと潜み、その教えの根が、深く深くはびこっているからです。人間至上主義。

ここからが変化球の教えなのです。パウロの書簡の回答を読んでも分かる様に、はっきり分からない、決めかねる部分がありますよね。人の生活の中に起きてくる問題は様々で一筋縄には行かない事が山ほどあるからです。

その場合、どちらに転んでも、神の教えに反する事ではないならと言う大前提の元、その人が考えて選択して良いと言うのは当然でしょう?

しかし、そうではなく、人造神学は神の言葉を人が否定して良いと教えてしまっているのです。これは完全に違反、神に対しての冒涜行為なのに、気が付いていないのです。

直接に、あからさまにそう言い表現はしませんが、意味が同じ事をこう言うのです。

今は古い律法の時代が終わって自由の恵みの時代になったから、

昇天以降の新しい時代、特に異邦人クリスチャンは、古い律法に縛られなくても良くなったので、なんでも選べるのですと言うのです。これは完全に神の教えに対する背教です。

そんな事イエシュアもパウロも使徒も誰一人として教えていませんし、タナックにも将来神の言葉が変わるなどと預言されて

いません!事実 神の言葉が昇天以降、変更する、廃れると言う預言が書かれていますか?聖書に書いてないのに、書いてあると主張しているのです。

1世紀当時のローマ14章のローマ人の群れに関して、その人はこう解説しています。

『1コリント8章の偶像に捧げた肉(きよい動物)を食べてはいけないと考える人もいるし、旧約聖書に書かれたレビ記11章に書かれた動物、豚を食べてはいけないと今も考える人も居る。

今はなんでも自由、解放の教えが与えられたから、なんでも

自由なんだから、何食べても良いと言う人も居るし、信仰の弱い人もいるのだから、個人の意見、行動を裁かない事です。

大事な事は、それぞれの心の中で確信を持つ通りに生きなさいと

言う事が大事な事なのです。

これら、食べ物の教えは、もう今の時代は終わった教えなので、道徳的な教えと違い、全部グレーゾーンでどちらとも白黒はっきりつけられない、自由選択の教えなのです。

これは自分は食べたくないけど、食べさせられると思いながら

食べてもいけません。自分の中でこうすると決めた事をすれば良いのです。』

これクリスチャンが聞いたら、当然だと納得し、うなづきませんか?神の言葉は異邦人には無関係になった、自由選択と言うダービーの思想を信じて、永遠不変の神の完全な教えを退ける場合には、神の伝える永遠不変の教えなど耳にも頭脳にも届かなくなります。レビ記11章の神の教えは白黒はっきりしています。それを人間が白黒はっきりしないなどと、勝手な解説をしているのです。人の安全を守るための、神の教えも理解出来なくなってしまっている事に気が付いていないだけです。

人の行動を、面と向かって人を批判する事は直接する様な失礼な事はしないものです。

神が禁じられている行為が何か分かる人は、人にいちいち言わないまま神の教えを生きている。でもその行動を見たクリスチャンが律法に戻るのかと批判する事があるのです。

でもパウロは神の教えが変わったからなどと、そんな事言うわけないし、言ってもいないし、それではパウロはトラーに反した

教えをしていると嫌疑をかけられて、その巷で大きな噂になっていた誤解、トラーを違反する事を人に教え、自分もやっていると言う根も葉も無い噂を、エルサレムの神殿で払拭するためにナジル人の請願を果たしたと書いてある聖書の事実をクリスチャンはどう説明するのですか??出来ないでしょう。聖書の記述の事実と辻褄合わない事を解説してはならないのです。使徒21章。

 

神は人の生きる全ての領域を網羅して、神は人にどう生きるのかを教えているのです。神の教えに欠けが無いからです。衣食住、生活の全てを教えているのです。戦争、軍隊、裁判、法廷、結婚、夫婦、家族、コミュニテイでの人々の生き方、賠償の仕方、賃金の払い方、ビジネスの仕方、家の建て方、人との修復の仕方、子供の教育、神の前にどう出るのか、ありとあらゆる側面を網羅して教えているのです。

聖書の最初に食べると言う事から、教えられているでしょう。

人は神にどの様に造られているのか、何を食べて、何を食べないか何を取り入れてはダメで、何を取り入れて生きるのか?

はっきり教えているのです。白黒はっきりしているのです。

罪とは、ズレです。本来の性質に外れた生き方をする事。

神が伝える人の生き方からズレることが罪と神が定義しているのです。罪の定義の全てはモーセの五書の中に書かれていますが、

福音書以降には罪の定義の全部は復唱して書かれていません。

神が教える人間の食べ物の中で、何料理を作ろうとそれは自由!

何でもアレンジして料理して良いのです。この違いが見えると

聖書に書かれている聖別の意味が見えてきます。

食べる=命をつなぐ行為なのです。そして、食べ物を通しても

聖別を教えているのです。ペテロは、トラーに同意しているから、トラーに記された聖別の定義を書いているのです。

信じて新しくされた人の生き方には、次の段階があるのです。

神の提示する婚姻契約=聖なる国民としての生き方に根付いて

生きるのか、それとも、人の教え=宗教を生きるのか?

救われた人が受け取る契約は、条件付きの契約なのです。

もしあなたが神の民として神との関係を生きたいとそう願うなら、神のトラー婚姻契約に記された生き方をガードして生きるなら、それならばあなたは世界中の中で一番のわたしの宝=セグラとなる!と神が言われた言葉は私達に向けられているのです。

 

だから、ペテロは聖なる国民、祭司の国と1ペテロ2:9で引用したのは、モーセの五書です。そこに神の宮である人の生き方の定義が書かれているからです。聖なる民の定義はモーセの五書に

記されている通りで、どの箇所も変化していません!

出エジプト19:5−6、申命記7:6 14:2、26:18−19イスラエルも混ぜ物の教えを生きて、イスラエルの家は

神の契約を生きないから切り離されたのです。

 

神は最初から動物を人が食するにふさわしい動物を創造され、

それらは神の家の祭壇にも捧げられる動物です。そして清く無い

動物は清掃目的で造られた陸海空のゴミを食べ、体にそのゴミ、毒を体内に溜め込む役割をしているから、消化器官が未熟なのです。その清掃動物掃除機が体内に集めたゴミ、毒、菌を人間が取り入れたら、細胞が、臓器が傷つき病気になり、疫病=ウイルスを他者へ移し蔓延させてしまう事が起きた、起き続けている事に気がついていないのです。ノロウイルス、肝炎、食中毒は、貝毒、きよくない動物から来るでしょう。アメリカでは豚ウイルスは毎年に200程出てるそうですが、全部それらを食する人から人へ移されてしまっているのです。環境に排出し、水を汚染する。神が禁じてる動物を食してその人だけが被害を受けるなら良いのですが、他者に環境にウイルスを撒き散らしている!そんなことして良い訳がないのです。環境破壊、汚染が、神が禁じた食べ物を食べる事で起きていると事実に目を向けないとならないのです。しかも聖別を汚す行為。

神はきよく無い動物を人が食する事をどれほど忌み嫌い、イスラエルは偶像に豚を捧げ食し、神の聖別されたシャバットと祭りを

汚して切り離された事が書かれていても、異邦人は人の教えを

聞き入って、神の教えを聞かないで、全て他人ごとの様に聞こえるのです。イスラエルが国から追い出されたのは、汚れた動物を食べ、異教徒の様に生きて、神の教えを捨て、神の聖日を汚したからです。そんな事で?と思うのは、異邦人だからです。

神の教えの意味をまるで理解していないから分からないだけ。

 

イザヤ65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

エゼキエル20:21しかしその子どもたちはわたしにそむき、わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日を汚した。そこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、わが怒りを漏らそうと思った。

<クリスチャンは創世記〜マラキ、無効と考えるので、単に参考適度に読んで、神が伝える教えが異邦人にも語られているとは
考えないのです。>
 

22:26その祭司たちはわがトラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

未来預言なのに、クリスチャンは地上から消えるから関係無いと
言いますが、それはダービーが言っているだけで、神は異邦人に向けても話しているのです。未来を。
神の言葉を捨てる人、終了と考える人には、神が伝えている
永遠不変の事実が自分に語られてるなど、夢にもつゆにも思わないし、理解しないのです。

 

エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。

44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって

異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。

44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない

46:3国の民は安息日=第7日目と、ついたち<新月>とに、
その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
 

天の国には、カトリックとかプロテスタント、ユダヤ教、その他諸々の宗教グループなどない、そんな教えも無いのです。

神の子らは神が伝える神の言葉をその通りに生きる、エレミヤ

31章にある、神の婚姻契約=トラー=モーセの五書を頭脳に割礼がされた人で神の契約を生きる人しかいないと理解したら、人が作る思想で固められる、非聖書的教えが、どれほど神の真実からかけ離れて行くのか見えてきます。

 

続く