人の教えを放棄して神の言葉の方を取る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ14章の中に書かれている事を、神の教えを人が勝手に

仕分けて良いとクリスチャンが勘違いして曲解された解説を

聞かされていますが、その様な歪められた解説、不真実な解説は、他の聖書箇所にも多数あります。

神の言葉は昇天以降終了したとしてクリスチャンが上げる箇所

全て、聖書の記述を正しく把握しないまま、曲げて歪めて解説している箇所は皆同じです。これは、バラバラに解説していますから、いつかその箇所をまとめて書き出します。神は神の言葉に

どの箇所も敵対しあう別の教えなどしていない!と言う事が見えない場合には、聖書を曲解し続けて行きます。半分本当、半分人の教えの嘘、エデンの園の蛇の作戦。

 

地上で起きた現象だけ見ているでしょう?永遠の中に全てが完結していると理解していますか?聖霊時代〜どの時代も聖霊=神=イエシュアは永遠の中に存在している事、使徒2章以降に初めて聖霊が地上に降って人の内側に住む事が始まった、救い、贖い、罪の赦しが完全になったなどと考えるから、聖書=タナック=

モーセの五書、預言書、諸書の至ることろに記されている、メシア、イエシュアのこの世の礎が造られる前から屠られていた子羊の血の贖いが書かれているのに、教えられているのに、見えていないのです。

1世紀以前の人達はタナックに記されているイエシュアを信仰により

未来に見てどの時代のどの人種とも同じ贖い、救い、聖霊を受けていた事がタナックに記されているのに、読んでも気が付かないのは、書いてある意味通りに聖書を読んでいない、学んでいない事が原因です。

どの時代も最初の最初、エデンの園から、神が人と共に居られ、人の間に住まう事実がずっと教えられているでしょう。

人は神の息〜命〜霊を吹き入れて生きるものとなったのです。

それが、神の言葉を捨てて別の声に聞き入り、電源が外れた状態になり、エデンの園から出ましたが、神の同じ救済策〜イエシュアは、エデンの園を出た、アダムとハワと共に住っていた事が

ちゃんと書かれているのです。アダムとハワは同じイエシュアの贖い、救いを信仰により受け取っていたのです。

荒野を着いてきた岩、雲の柱、火の柱、移動式ミシュカン〜の

至聖所の神の契約の箱の中の神の臨在、神殿での神の臨在。

実際に目で見て、触れて、学んだ事と1ヨハネの冒頭に書いてある、その神の家の中で教えられて来たイエシュアが肉体を取って地上に来られたのです。イエシュアー言葉ートラー=恵とまことに満ちていると書いてあるのです。

そして、タナックの中に、未来イエシュアが地上に来られて、

永遠の中に在る子羊の血の贖いを地上で証明された後、聖霊が

初めて地上に人の中に降りて働く時代が来たと言うのは、異邦人思想であり、ダービーが語る神の業の分断思想です。

 

思い出して下さい。デイスペンセーション思想は、神の働きと

人へのアプローチ、救いの方法、神の教えが7つの時代ごとに違うと教えていますが、聖書には逆が書いてあります。

最初から同じ。最初から同じ救いの方法、同じ1つの福音、同じ性質〜恵とまことと許しと憐れみに富んだ永遠に変わらない神と書いてあるのに、デイスペンセーション神学は、顔色性格約束言葉を変える神と言い、怒りの神〜恵の神、怒りの時代=律法時代、恵の時代〜聖霊時代などと解説していますが、それは聖書とは全く異なる異邦人異教徒思想が歪めているイスラエルの神像です。こう言うことです。

神の言葉を退けて否定し、人が仕分けて、それぞれの確信を持つ

事を生きるとは、神を退けた西洋思想、人間至上主義そのものであることに気が付いて下さい。サタンの策略はエデンの園から変わっていません。神が言ってはいない事を言ったと人に思わせて、神の言葉を本当ではないかもと疑わせる。半分混ぜ物の教えの嘘を言ってアダムとハワを騙した手口は今日に至るまで健在です。神が言われる通りに考えてみて下さい。

 

イザヤ 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない

マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

<おきて、戒め、さとし、教え、言葉、聖書、み言葉、etc etc 聖書は100%全部トラー=父の教え=モーセの五書に記された教えの事を指して話している事実から離れないで考え続けて下さい。>

ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。

父には移り変わりや、移り行く影はありません。

1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

神には移り行く影がない!変わらない!と言っているのに、

異邦人は、神は変わる、神の言葉は変わったと言い続けているのに、その矛盾にまるで無感覚、盲目状態です。どうして学校の

教科書、人の書いた書を書いてある通りに読むのに、聖書を書いてない事に曲げて読むその大矛盾に無感覚状態でいるのか?

考え始めたら見えてきます。しかも聖書には未来イエシュアが

来られたら、神の教えが変わり廃れ、違う教えが教えられるなどと書かれていない、預言されていないのです。

聖書のどこにもそんな事など書いてないのです。

私達は神の言葉=トラーの性質通りに造られている。イエシュア=肉体を取って来られたトラーが初穂〜私達1つの家族の

かしらであると書いてあります。>

終わりの時代に背教が出る、今もそれが顕著になっています。

ここで、パウロが警告している言葉、マタイ7:21−23に

イエシュアの例え話でも書かれている通り、不法〜とは、

モーセの五書無し!トラー=父の教え=モーセの五書に書かれた

教えが頭の中に無い、神の教えを生きない人の事を話している事に気が付いていますか?1世紀のユダヤ人が読んで理解していた通りに理解を軌道修正したら、神が伝えている本当の真実が初めて見えて来ます。神の言葉は終了〜道徳的な事以外、好きに選んで生きて良い?神の教えを捨てる様に人に教え、神の教えを生きない事、それが不法と聖書では言っているのです。以前私は不法と言う言葉は、法に触れる生き方の事くらいにしか考えませんでしたが、本当の意味は、神の教え=トラー=モーセの五書に

記された生き方に反する事をすると言うのが正しい定義です。

不法=神の教えを捨てる様に、神の言葉は廃られたと教えられ続けて、それが正義、恵の時代の聖霊時代の生き方なんていう、

とんでもない背教の教え、誤解を言い続けていても、全く気が付いていないのは、神の言葉が廃れたと本気でダービーの様な人間が思い付いた考え思想を神の言葉より引き上げて信じているからです。

細かい事が分からなくてもこの原則に立って神の言葉を読めば

良いのです。聖書だけに戻る!聖書と有名教師、牧師、書籍、伝統で言い伝えられたデイスペンセーション神学の様な教えが聖書の記述に反する教えは、誰がなんと言っても神の言葉、教えではない。神の言葉の方が正しいに決まっているでしょう?

だから神の言葉を取り、人の教えの方を破棄するのです。

クリスチャンは逆を教えられています。神の言葉を破棄し、人の

思想を取る様に教えられているのです。

聖書に書いてある事が永遠の基準であり、神の言葉が全て正しく

神は神の言葉をどの時代にもどの言葉、1点一画も変えていない

と言う事実だけに立って下さい。

神が人に伝える様に、神の言葉は永遠に変わらない!神は永遠に変わらない!と神が人に伝える事が真実です。神の言葉は今は

人が選んで良いと言うのは、神の教えではなく、背教の教えです。無法。

古い教え〜3000年前に書かれた事は今は古くて無効などと言うならば、それならばイエシュアに関する事も全て無効になると

言っている事に気が付いて下さい。時系列上、歴史線上に考えるのではなく永遠の中にある永遠不変の神の性質、変わらない神の

言葉、同じ救いの方法、同じ贖い、同じ福音と神が伝える事実を

取り、人の教えの方を捨てて、去らせるのです。永遠に。

 

そして、人が神に成り代わっていて、それに気が付いていないのです。神は人に神の言葉を曲げる権威など与えていません。

これもマタイ16章のイエシュアがペテロに言った言葉を

完全誤解しているのです。イエシュアは、ペテロが地上で生きる

トラー=肉体を取って来られたトラーと共に過ごした生き証人であり、12弟子のリーダーでした。その人に、神の言葉を正しく

教え、人に生きて導く役割を与えている宣言が、繋ぐ、解くと言うユダヤ人の間での慣用句で表されているのです。これは

戸を閉じる、開けると言う言葉と繋がりイザヤ書にもそれが

書かれています。どう言う意味かと言うと、ペテロは、神の教え=トラーを人々に正しく解説し、神の意図通りを伝える役割を

任された宣言なのです。それを、勝手にペテロ〜カトリックの

世界では、カトリックの初教皇などとされていますが、ペテロは

ヘブライ人でありカトリック宗教や西洋宗教=神の教え=トラーを破棄した教えなどする人として立てられていません!

ペテロは、パウロ同様100%モーセの五書を教え、レビ記23章にある祭り記念日を祝い、レビ記11章の食規定を破り汚れた

動物など生涯食す事などありませんでした。

 

2テサロニケ2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。

<神の言葉を破棄、無効とする行為、自由に神の言葉を仕分けて

自分の判断で神の言葉を判定して、削除、受領する行為は、人間が神に成り代わる行為であると気が付いて下さい。そのことをこの箇所では言っているのです。>

2:7 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。

2:8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

 2:9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、

あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

 

正しく読み取って下さい。不法=神の教え=トラー=モーセの五書を捨てる、無効にする事は、サタンから出ている!!!

はっきり書いてあるでしょう。書いてある通りに、著者が意図する通り、神が人に伝えている通りを読み取って下さい。1世紀の

ユダヤ人には、モーセの五書とは異なる教えをして生きている人

が不法を働く者とはっきり読み取り、理解出来ているのです。

異邦人は神の言葉を捨てよと言う恐ろしい冒涜が正義だと教えられているので、何が聖書に書かれているのか正しく読み取っていないのです。

不法〜神の言葉=トラーーを捨てて、人間の教え、解釈、確信を優先すると言う教えです。

ローマ14章にある、どの日もそれぞれが確信を持つと言う

パウロの言葉を完全に勘違いしているでしょう?

イスラエルが神の教えを捨てて、汚れたものを異教徒の様に食し清いものと汚れているもの区別も付けず、神のシャバット祭りを汚し、神に対して大いなる汚れと冒涜を働いた!とエゼキエルでも書かれているのに、どうして、タナックを100%

指示して生きていると公に表明しているトラー学者であるパウロが自ら、神の教えに違反する事=不法を人に教える事をすると

考えているのですか?それは、ダービーの様な異邦人の勝手な

解釈や教え〜神の言葉が廃れたと神が言う事とは真逆な教えを

言い続けて、それが神の言葉と思う、人の言葉を神の上以上に

引き上げてそれを信奉しているから神が伝える永遠不変の真実が

見えないのです。

ローマ14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

ここに書かれている”日”とは、普通の日のことです。週の第7日目、新月、神の祭の日以外の日!!!!の事として書かれています。これは、言語を読んだだけでも明らかに分かる事でもあります。定冠詞がない単なる普段の日として書かれています。

The dayと、a dayの違いが分かれば良いのです。日本語には定冠詞と言うものがないので、単なる日と言う翻訳をされているから区別が付かないのです。

そして、パウロが神の聖別された記念日を汚す様な教えを人にはしません!昇天以降、神の教えが変わると言う異邦人創作の空想

幻想を信じて、神の言葉を却下していることにいち早く気が付か

ないと危険です。その行為は神が伝える不法そのものだからです。神の前に立つ日に、誰々先生にそう教えられたから〜などと言う釈明は無意味なのです。人のせいではなくてあなたは神が

伝える言葉=聖書があるのに、私が伝えた通り熱心に私があなたに伝える事を求めていましたか?と聞かれる。

聖書に何が書いてあったの?と聞かれるでしょう?

 

エゼキエル20:21しかしその子どもたちはわたしにそむき、わが定めに歩まず、人がこれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを守り行わず、わが安息日を汚したそこでわたしはわが憤りを彼らの上に注ぎ、荒野で彼らに対し、わが怒りを漏らそうと思った。

22:26その祭司たちはわがトラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

 

パウロの教科書は、モーセの五書、預言書、諸書だけ!それに反する教えなどしていないと公に宣言もしている。異邦人の間で

語られる偽のパウロ像=パウロはモーセの五書とは違う新しい教えを解説してる!この誤解いち早く解けば、聖書に書かれている事を正しく読み取る道に軌道修正出来ます。

 

神の聖日を汚した!と神が言っているのに、パウロがどうして

神の聖日はどの日=普通の日でも良いなどと言うのですか?

パウロは、聖別=カデシュの意味を神の言葉からはっきり理解しているトラー教師です。神の意図目的通りに分たれた、境界線が敷かれている、これがいつでも良いと言うならば、聖別の定義は

吹き飛びます。区別がない!光と闇、朝と夜と神が区別を付けている、違いを教えているのに、異邦人は境界線何もない〜

神の教えている意味が分からなくなってしまうのは、当然です。

神の言葉を捨てる場合には、神が伝えている事はもうその人には

十分フルには届かなくなり、こうして人の教え=背教=神の言葉に背いて良いと言う教えを、手を変え、品を変え、あたかも新しい聖霊時代の自由で良い教えの様に騙されてしまうのです。

 

聖書だけに戻ろう!と言うならば、どうして神の言葉を捨てるの?それは、古い箇所は古くなり無効で、福音書以降が新しい

福音、初めて許しが与えられ、初めて聖霊が人に与えられたなどと言う、聖書とは違う事を信じているから、見えないのです。

 

続く