人の思想の注解を聖書の中に書き記した聖書ではない書を出版された結末 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

初めてこのブログを訪ねて、時間を割いて読んで下さる方には、一体この記事何を書いているのだろう?と思われるかも知れません。

このブログは個人的に誰かの間違いを指摘しているのではなく、

聖書に書かれている事実は本当は何なのか?聖書に記されている事実と、人が考え付いた思想、それをなになに神学と呼んでいますが、19世紀の間、異邦人の世界で定番に様々な異邦人の思想が語り継がれています。それらは聖書の解説や教えとは、異なる、神の言葉とは違うものが無数にある事、その人が編み出した教えが聖書の何とズレているのかを検証しているものです。

簡単に言うと、異邦人の世界で語られる聖書観、聖書を読む前提が最初からズレている!と言う間違い、障害物が置かれているのに、気が付かないまま、人の編み出した思想を聖書だと勘違いしている事があるのです。

聖書に記された事実だけに戻って検証し、考える、聖書には何が書かれていて、何が書かれていないのか?と言う事を再検証する必要があると言う事を提示しています。

人は全部を知っているものではありません。だから、聖書に何が

書かれていて、どんな意味で神がそれを書いているのかを人が

熱心に求めて知りなさいと神が伝えている通りをするのが神のみ

旨であると聖書には書かれています。

それは、私達が安全に守られるためだからです。

 

聖書をそのまま読んで、書いてある意味通りに読んでいると考える場合には、それはちょっと無理があると思います。何故なら、何しろ聖書は、古代数千年前のヘブライの世界の人々が聞いて

読んで理解する内容が記されているからです。文化や言語やその当時の様々な慣わし、背景、地形、環境などを全く理解しないまま、現代の自分の体験の小さな箱の中で考え、しかも、ヘブライ語ではない他の外国語に誰かが翻訳した聖書だけを読んでみても意味がはっきりと分からない事が山ほどある、たくさんあるのは当然の事だからです。

日本語を外国語に訳そうとしても、その言葉を直接訳せないものがたくさんありますから、それに近い言葉を探すか、意訳=解説すると言う手段を取るしか元の意味を外国語で表現する事が出来ないのです。

英語でも、そのまま訳したら全く日本人には意味不明な表現や言葉があるのです。日本語独特の表現で、お疲れ様とか、頑張ってとか、宜しくお願いしますとか、お世話かけますと言うのを英語で直接該当する言葉がないので意味不明になるのです。

別の言い方をしなくてはならないのです。

日本語でさえ、古代の言葉と、いや江戸時代の言葉、それ以前の日本語、又は当時は日本国内でさえ、互いに通じ合う事が出来ない、標準語などがないのですから、日本人でさえ意思疎通が出来ない世界があったのです。今だってある地方に行けば、方言なんて分からない、沖縄の言葉も分からないでしょう?

同じ日本なのに。

今現代の日本の中で使われている言葉を、100年前の人に言っても通じないものがたくさんあるのです。ネットの世界の言葉とか、誰かが最近作った言葉などが使われていて、私も分からないものが多くあり、その都度調べて、そう言う意味なのか〜とその様に意味を調べないとならないのです。

 

そして、異邦人クリスチャンの間で一般的に語られる定番の聖書解釈の前提が、最初から、神の言葉〜聖書の性質=土台を崩壊して解説されている事に絶対に気が付かないとならない事があるのです。

なんのこっちゃ?と思うかもしれません。ずっと書いていますが、普通のクリスチャンはこう考えていると思います。下矢印

 

創世記〜マラキ=古い教え、廃れた、デイスペンセーション神学は、時代ごとに神の教えが変わる、救いの方法が古代と2000年前のイエシュアが来られた以降とは違う、イスラエルと異邦人は別の群れ、再臨は秘密裏にやってきて、クリスチャンだけ天に引き上げられる?と考えているでしょう。

ある時代にある神の言葉や教え、別の救いの方法を神が適用したとか、それは生贄を通して罪が許されたと解説しています。

でも考えれば分かるでしょう。動物の血は罪を消さない!とはっきり神は人に教えていますよね。ではそれは何の為に動物のコルバンが捧げられているの?と言う次の質問に繋がるのです。

全部イエシュアの贖いの業を実際に体験的に神の家の中で教える、学習ツールです。

福音、贖い、救いはアダムとハワから教えられ同じ1つの教え

道、1つの救いの方法しかないのです。

この世の礎が造られる前から屠られた子羊の贖いの血、そして

私たちはこの世ができる前から選ばれていた!と摩訶不思議な事が聖書に記されているでしょう?時系列上に物事考えたら見えない、永遠の中に全てが完結されているのです。

 

そして、考えれば分かりますが、エルサレムの神殿に行けた人だけが、古代罪を許された?なんてケチくさい神だと分かりませんか?そんな訳ないでしょう。道は1つ、救いの方法は1つ、誰でもイエシュアを通してだけ、父の元に来ることができる!と書いてあるのです。最初からそれがトラーの中に記され、実際に神殿の中でイエシュアを通して罪赦されている事が、実体験を通して

福音が教えられていたのです。見ないで信じるものは幸い。

未来に地上に来られるイエシュアを信仰によりどの時代でも受け取れる事を、神の家の中でトラーに記された罪の赦し、贖い、

救いの意味を教えられていた事を信仰により受け取り聖霊を受けていたのです。

エルサレム〜イスラエルが学んだ事を世界へ教えるため、トラーに記されたイエシュアを彼らが世界へ教えるその役割を与えられた人達が神の家で、実際に贖い救い子羊の血で新しくされ、神の前にまっさらに受け取られている事を実体験を通して学習していたのです。

クリスチャンは、古い教えはユダヤ人へだけの教え=旧約聖書と言う人間が考えたタイトルページまで与えられてしまって、

そう解説しています。しかもイエシュアや使徒、パウロ達が教えたのは100%、モーセの五書以外に無い事実にも全く気が付いていないのです。

その思想は日々聖書のタイトルページを見るたびに、”古い教え=古い箇所”と考え、そして人の思想=古い教え=旧約聖書は

。廃れたのだ〜もしくは、古い教えからメシアが解放するために来られたのだ?と言う2つ分断した神の教えが存在していると、

コンスタントに頭脳の記憶に刷り込まれて行くのです。

 

そして、福音書〜黙示録を、新約聖書と呼び、その箇所を異邦人へ対しての新しい契約である、その契約は、古い箇所=旧約とは

別の教えが記されていると教えられ、そう考えているのです。

しかも、新しい契約〜エレミヤ31、イエシュアが言われた契約は、モーセの五書=婚姻契約とは中身が別物と考えているでしょう?異邦人に与えられた契約であるなどと言う人もいます。

ユダの家とイスラエルの家に与えられると書いてあっても

全然正しく読み取らないまま、空想しているのです。聖書には、異邦人向けの別の契約や別の新しい教えは無い、異邦人教会と言うグループも実はこの世には存在しない事!知っていましたか?聖書に基づき神の家族は1つしか無いのです。同じ契約、異邦人は同じユダの家とイスラエルの家=修復された1つの家に加えられ続けるだけと聖書には書いてあるのです。エハッド=1つ、神の性質エハッドの神に創造された人は1つ体と書かれているのです。パウロも神の子らは1つ体と説明しているのに、パウロの伝えている意味が通じてないのです。パウロはタナック=モーセの五書、預言書、諸書だけを説明しているのだとも気が付いていないでしょう。

イエシュアと共に過越の祭の晩餐で、イエシュアの言葉を聞いて

いた弟子たちは、イエシュアの言われた事をどう理解していたと思いますか?

エレミヤ31章〜ユダの家とイスラエルの家が1つに修復され、

頭脳に割礼がされた人達に与えられる!同じ契約。

その人達に与えられる、再更新される同じ婚姻契約!とエレミヤが話している事を弟子達は理解して聞いているのです。

そして、同じ婚姻契約をイエシュアは過越の晩餐で再更新して、イエシュアを通して同じユダの家とイスラエルの家、1つの家に加えられるすべての人達に対して再更新される契約とイエシュアが言われた事を聞いて理解しているのです。

 

イエシュア=トラー=言葉=モーセの五書=婚姻契約であると言ったヨハネの福音書の冒頭に書かれている意味を、当時のヘブライ人が理解していた通りに理解する必要があるのです。

言葉=神=肉体をとって来られたトラー=イエシュアとヨハネが

書いているのに、異邦人はその様には読み取っていないのです。

だから、当時の人達が理解していた通りに聖書を読まないと、

大事なポイントを全部外して、人が勝手な聖書解釈や思想=デイスペンセーション神学の様な思想を編み出し続けてしまうのです。そして聖書では無い教えを神の教えだと信じてしまう。

神は神の言葉を2つに分断したり、別物の教え=創世記〜マラキには記されていない隠された計画があったと言うダービーの様な

空想話は聖書には記されていないどころか、完全に的外れな

思想なのです。しかも終末論〜目に見えない秘密の再臨がある?

クリスチャンだけ、天に知らない間に引き上げられるなどと言う空想は、人を神の教えに生きて、落ち着いて生活する事から意識を剥がすものです。これでどれほどの人を違う教えに導き、

財産も家も売って屋根で再臨を待っていたと言う人も居たのです。変ですよね。

もちろん、タナック=モーセ、預言書、諸書には記されていない秘密裏の再臨とか、空中軽挙で天に消えるとか、聖書が語る事実では無い。これ大事なポイントではっきりと理解しないとならない事です。聖書に書いてないのに、ある、または神が人に伝えていない秘密の計画があるなどと言うダービーが言った様な事を言う場合、それは単なる人の思想!だと聖書に基づき理解すれば良いのです。神は人に知らせない事を行わないからです。

 

アモス3:7まことに主なる神はそのしもべである預言者に

その隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。

 

まやかし、騙し、嘘はなんでも言います。あのエデンの蛇の口から出た言葉と同じ。神が伝えた真実ではない事を語る教え。

その様な空想思想を元に聖書を読まされている事に、聖書だけに戻れば、正しい聖書理解をすれば、その謎が解けて行きますそしてこう聞いているでしょう?

古い教えを生きるのは恵みを無駄にする事だ!では一体信じた人は何を生きるとイエシュア、神に教えられていると考えていますか?イエシュアは何を人に教えて、何を生きて人々に教えたと考えていますか?

聖書は創世記の最初から、神の言葉を言われた通りに受け取り

生きよ!と教えているのです。

ヨハネ14:21わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

戒め、言葉、仰せ、おきて、定めetc etc全部100%モーセの五書=父の教え、トラー、婚姻契約に記された神の言葉、教え

クリスチャンの世界で廃れた〜と言われる神の言葉、教えの事を

イエシュアが語っている事をまずはっきり理解すれば、聖書が

見えてきます。

イスラエルの神の言葉は歴史の途中で変化などしません。神の

性質も、怒りの神から恵の神に変化しません。神変化すると言う教えは、聖書を正しく読み取っていない証拠なのです。

イザヤ40:8草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」

ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。

父には移り変わりや、移り行く影はありません。

 

神の言葉を生きるなど、どの時代にも肉にはアピールしないのです。

 

マラキ3:14 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。

3:15 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。

3:16 そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。

3:17 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

3:18 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。

 

 

続く