聖書と言う名に変装させた人間の思想注解書として出版されてしまった経緯 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

アメリカの福音派の間でも多くの教師や牧師は、ダービーの思想

デイスペンセーション神学が、聖書ではない、ダービーの思想で

聖書を注解し、人の思想を通した意見を聖書のページ、聖書の横に記したスコッフィールドのチェーンバイブルを聖書ではない書

と認識して、発言しています。

もっと辛辣な言葉で、悪魔の書などと呼ぶ人達も大勢います。

 

ダービーの聖書観や、終末論が聖書ではない事を多くのプロテスタントの教師も語るのですが、その人々はほぼ漏れなく、ダービーの思想の根底〜マルキオン思想=古い聖書箇所〜終了、今は

自由に人が神の言葉を選択する自由の律法になった、異邦人

クリスチャン達は、古い教えを生きる必要はないと異口同音に

言っています。そして、教会と言う造語=異邦人と、イスラエルとは2つ別の群れだから、違う教えを生きると信じて疑わないのです。

その思想こそが、聖書=神の言葉に対して真っ向から反逆する

思想、行為であるのに、全くその点に関して見えていないのです。

神の言葉は神ご自身であると神が紹介し、神=言葉=聖霊=イエシュアであるのに、その神の言葉に対して否定する、拒絶、又は

仕分けすると言う行為が、神の言葉に基づけば、それは死に匹敵するズレ=罪であると言うことに気が付いてないのです。

アダムとハワは神の言葉を捨てて、別の声〜蛇の声に聞き入って

行動したから、死が全人類に入ったと言う根本的な事実を理解していないからなのです。これは今も同じです。神の言葉を捨てる

イコール自分を他者を危険に晒す事なのです。

 

どうして、神の言葉に敵対する事、却下、削除、無効とする事が正義であり、恵の生き方であり、神に対しての神の子らが取る

行為であると考えているのか?

それは、神が呪いの律法から解放してくれて、今は自由の律法を

生きる様にして下さったのだから、それぞれが考えて良いとする事を生きれば良いのだと解説するのです。

これは具体的に後で書きます。

皆それぞれ言葉、説明は違っても、その様な思想に乗って聖書を誤解して解説してしまっているのです。

そして、それは異邦人には納得の行く解説なのです。

なぜなら、神の教えは、誰でもが理解出来る道徳的な事だけは

白黒はっきりしているから、それは守るべきだからと言うのですが、神の国、聖なる民、祭司の国の民の生き方は、道徳、民法

儀式などその様に仕分ける事が出来ないものであり、全部1つとして繋がった生き方、性質だからです。

民法でなければ、聖別を汚すと言う事が、どれほど神の前に忌寸嫌われる生き方なのかと、異邦人には理解出来ないものなのです。聖なる国民の生き方を知らないからです。異教神の国に先祖代々生きてイスラエルの神の教えなど聞いたこともないから。

肉の耳には馴染みのない、アピールしない教えだからです。

どうして神は神の聖別された日を汚す事、汚れた動物、動物の死体、血を人が取り入れて食する事が死に匹敵するなどと言われても、異邦人には体験的に神の言葉を理解していないから、意味不明、それが何?て思う。丸で人ごとの教えの様にピンと来ないものなのです。

イスラエルの神、神の国、神の国の契約を生きる事から遠く離れていた異邦人とエペソ2章でパウロが解説している通り、その通り異教の神々の世界の教え、習慣、思考回路が先祖代々脳内に

染み付いているから、神の言葉が伝えている意味が理解出来ない、分からないだけなのです。

 

だから、福音派の人々は聖書だけに戻ろう!権威、基準は聖書だけだ、どの神の言葉を大事だ!神の言葉は絶対だ!と言いながら、実は神が神の言葉に手を付けて、差し引き、付け足ししてはならない、神の言葉は永遠であると伝えているのに、神の言葉をその様には取り扱ってなどいない事に全く気が付いていないままなのです。どうして、クリスチャンの世界では、神の言葉が満遍なく書いてある意味通りに教えられることがないのか、どうして

聖書は絶対と言いながら、神が招いている永遠に祝われるわたしの記念日と神が伝えている記念日を誰も祝わないのか?

戸口のメズサや衣のふさなんて、誰も知らない。。

不思議に思った方が良いのです。どうして?どうして祝わないの?誰の教えでそうなったの?1世紀のイエシュアやパウロ、

使徒、異邦人イエシュア信者が生きていた教えと、記念日がどうして現代のクリスチャンとは違うの?本気で疑問に思うべきなのです。質問は回答に導くものなのです。聖書に基づき考えれば良いのです。人が神の言葉と神の時=記念日を変えたからです!

でも神の言葉の真実に基づき考えて行けば、人が神の言葉を自由仕分け、選択すると言う行為は、神の言葉=仰せに矛盾すると気が付けるはずなのです。

その様な錯覚、誤解をしているのは、聖書が2つに分断されている別物の教えと言う聖書に反する思想を刷り込まれて、福音書以降、特に、パウロの書簡を誤解して、神の言葉が変化した事が書かれている証拠として、不正確な解説をして、聖書ではない人の解釈を神の言葉であると勘違いしているからです。

 

生まれた時からユダヤ人のイエシュア信者の家族の中で育ち、

キリスト教やカトリック、マルキオンやダービーの様な神学も

1度も聞いた事がないままヘブライ語聖書だけを読んで、

1世紀のイエシュアやパウロ、使徒達の様なトラーの教育を

受けて、イスラエルに住み、シャバット、新月、過越、仮庵の祭りを祝った人が20代になって、初めてクリスチャンの世界の

聖書解説を聞いて、全く違う聖書観、違うイエシュア像が語られている事に大きなショック状態に陥ったと言う事を涙ながらに話してくれたのです。

ある部分は聖書でも、全然違う前提〜思想から聖書を語っているからです。人の思想で神の言葉が歪められているのです。それは人の思想=神の言葉を2つ別物だと解説し、異邦人とイスラエルと分断した人の思想のプリズムを通して聖書を曲げて、歪めた解説をしているからです。

クリスチャンの間での教えは、イエシュアはトラー=モーセ=父の教えを生きた!だから、それはもうその教えは終わりだ!

古い教えは厳しすぎてそれは人には生きられないものだから、

破棄した〜。神の言葉に対する意識からしてズレていると気が付いた方が良いです。箴言や詩篇を読んで、厳しい律法が書かれている?と考えるクリスチャンはいないと思います。

箴言詩篇は、モーセの五書の知恵がずっと記されているのです。

一番長い詩篇119編は、トラー=モーセの五書に対する知恵

賛美がずっと記されているのです。

神は神の言葉は生きるのに難しくないと人に教えています。

わたしの荷は軽く、わたしのくびきは負いやすいとイエシュアも神の教えをそう説明しているでしょう。

それは実は神に造られた人間のDNAだから、預言書にも

神の言葉は生きるのに難しくないと、トラーに書かれた事を

書いているのに、呪いの厳しい律法だ〜と異邦人は言うのです。

そんな事聖書のどこにも書いていないのに。トラーにも預言書にもイエシュアの言葉でも、神の言葉は生きるのに難しくないと宣言しているでしょう?どうして聖書の記述を無視した教えを聞いているのだろうと考えた方が良いのです。

 

こんな空想話の教えが1900年近く浸透してしまい、その思想は聖書に照らし合わせたら、聖書には全部それとは違う事が記

されているのに、全く気が付かないまま、違和感も矛盾にさえも

気が付かないまま聖書を読んでいるのです。大体神の言葉を神が否定する、又は人が否定して仕分けし、判定し、変えて良いなどと言う侮辱、冒涜に全く無感覚である事自体が異常事態だと気がつかないとならないのです。聖書に基づき。

神が神の言葉を否定し、取り消し、神の言葉に矛盾し敵対しあうその思想、異教の神々の思想でしょうか?しかもサタンでさえ

内部分裂しないと、イエシュアが言われたではないですか?

その場合、その国は立ち行かないと。ではなぜ神が内部分裂し

神の言葉を敵対し合う様な事を人に伝えるのですか?

ありえない話、空想話なのに、聖書を語る前提、土台の真実を

覆し、神の言葉は前後違う!と言う偽りの聖書観から聖書を語ってしまっているのです。もちろん、ある聖書の部分は真実通りに語ります。キリストの贖いの血で罪許されたと。でもその後神の言葉を生きる必要はないと言ったのは、マルキオンやダービーその他諸々の異邦人であり、神が言ったのではないのです。

これが分からないと聖書を曲げて解説し続けても丸でその解説

思想の誤りに気が付けないのです。

 

人の思想=古い教えと新しい教え、古い終了した神の教えと、

新しい時代の恵み、聖霊、キリストの律法が教えられた〜

と言う、これ全部人が考えた空想の教えを通して、聖書を曲げて

読んでいるのです。

 

異邦人の中には神の言葉が何かと言う基本的、根本的な理解が

抜けているのです。神=言葉=聖霊=イエシュア=絶対=永遠普遍と言う理解が抜けているからです。

 

どう言う意味かと言うと、異邦人は、人間が神の言葉を正しく

仕分けて、付け足し、削除、受理、破棄して良いと考えてそう

信じて教えているでしょう?

神が言っている事、禁じていることの全く逆を推奨して教えているのです。

ずっと同じ警告をエデンの園から、そして、黙示録の最後に至る

まで、神の言葉を曲げる、トラーと時を変えるとダニエル7:25にも書いてある事が行われているので、その警告で締めくくられているのです。

黙示録 22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者

あれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれている

いのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

<預言の書〜タナック=モーセの五書、預言書、諸書全体を指してヘブライ人ヨハナンは語っているのです。>
 

福音書以降には、モーセの五書、それを解説する預言書、諸書の

抜粋が短く記されているだけです。神の教えの完全版は最初に全部記されている、最後の25%は最初の75%の注解書なのです。注解書は、本編の教えを否定などしません!どの箇所も。

イエシュアはモーセの五書=父の教えを教えて、それ以外の教えなどされませんでした。

そしてイエシュアはご自分がトラーを生きたので、それ以降の人は神の教えを生きなくて良いなどと1度も言ってもいないのに、

言ったと言うことにされているのです。

 

マーク トワインが言ったとされる言葉があります。

”真実が靴を履いている間に、嘘は地球を半周できる”

嘘が一旦浸透し定着し恒久化すると、その嘘を覆し、正しい真実に気が付き、認識し、間違った情報を消して、真実を受け入れ

自分の中に定着させるのは本当に大変に難しい事なのです。

 

前の記事に書いた通り、J Nダービーと言う弁護士であった人が

考えた思想が20世紀にアメリカに浸透してしまいましたが、

彼は、神の言葉=聖書を否定しています。神の言葉を真っ向から神が禁じている事を人に勧めて教えているのです。

創世記〜マラキ=異邦人は関係にない。これ今でも一般に聞く解説ですよね?それは神が言ってるのではなく、人が勝手に言っていると言う正しい認識に戻して下さい。そして、福音書も読む必要ない。これはユダヤ人への教え。そうですよね。福音書には、イエシュアがトラーを解説している内容が書かれているからです。そして、山上の垂訓もたとえ話も、クリスチャンには関係ない、ジーザスが教えた教えを生きる必要はクリスチャンにはない異邦人にはパウロの書簡1、2だけ必要なだけ。

どんな教えですかこれは。

神の言葉=トラーを捨てる、蔑ろにする様に人に教える場合は

その人は天の中で最も価値がない意味がない人とされてしまうとイエシュアも警告しているでしょう。マタイ5:19

 

この様な教え=神の言葉を人間が仕分けて良い、昇天以降は自由に神の言葉を選んで生きて良いと言う教えが異邦人の間に浸透してしまったのです。

20世紀以降、幾度となく聖霊の働きだ〜などと聞くムーブメントが様々に起きています。確かに人が神を求める時、特に神の言葉に戻る時、真実に目覚める事がありますが、殆どが肉にアピールする教え、他宗教と何も変わりないものが多いです。

それらが聖霊の働きだからではなく、人の肉にアピールする教えを誰かが編み出して、それに人々が惹かれて行くから、大勢の人が集まるのです。だから新興宗教なんて大勢の人が集まり、献金も豊富で立派な建物が建っていますよね。神が支援しているからですか?そんな訳ないのです。

そして、エデンの最初から、神の言葉を聞いてしっかりガードし

神の教えに根付いて地に足を着けて真面目に生きるなんて言うのは、人の肉の思いにアピールしない、人気の無い教えなのです。

 

アダムとハワの誘惑を読めば色々な事が見えてきます。自分は

これだけじゃ足りないかも。これを食べたらもっと凄いことが

起きるんだ〜。これ巷に溢れる偽の教え、勧誘と全く同じ、肉に

アピールする神の言葉とは異なる誘いです。

 

どの様にダービーの思想がアメリカで20世紀に広がったのか、誰の手を介して、この聖書ではない、ダービーと言う人の思想が聖書のページの上に書き込まれ、非聖書的な教えが爆発的に

アメリカの神学校の教師達に受け取られ、聖書を否定する思想を

講壇から教えられ、そして家庭に1つの必需品として、

その聖書が全米に浸透したのか、その経緯を見てみたいと

思います。

 

続く