今は、いつでもシャバット=安息日=礼拝日と言うパウロの書簡を曲げる読み込みの解説は、聖書が語る真実ではないです。
いつでも聖日と言うならば、その場合、境界線が無い、普通と
特別な目的との間に、何の区別も無い、神の創造のデザインとは異なる、聖別の意味が何もなくなる事を意味するのを理解していますか?
神の言葉をどの部分でも否定する教えを通して聖書を曲げて読む
場合には、それは確実に聖書を正しく読み取れなくなる事をしているのです。
創造の最初に何を神が伝えていますか?神は時を造られて、
人の生きる日を1週間、7日間と言うデザインで造られています。第1日〜から第6日目は、名前が付いていません。今は天体の名前が付けられ、日月火などと言いますが、神は普通の日に
特別な名を与えていません。
創世記2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
この日を神はシャバットと呼び、週の7日間で、唯一この日だけを聖別し、祝福したと言われました。
だから神によれば、クリスチャンの世界で言う、主の日、聖日は日曜日ではなく、第七日目です。マルキオンや西洋教父やルターやダービーの考えによれば、日曜日=聖日とローマ帝国や異邦人が独自に決めた日の事を言いますが、聖書=神の言葉によれば、第七日目だけが、週一度の聖別された日なのです。
この様な神が人に伝える事実を人が曲げ続けるので、神の言葉を歪めて曲げる人間の思想教えが浸透して行くのです。
どの日もシャバット=止まる日ではありません。
なぜなら神は1〜6日は普通の日、労働日で止まる日では無いと人に教えているからです。神の言う事が本当であり、人が神の言葉を覆すことは不可能なのです。無意味な主張です。
どの日も礼拝日〜と言うその教えは、言いたい事は理解出来ます。でも、それは聖書の事実ではないので、聖書に基づき言い換える事が必要です。
毎日主を礼拝して生きると言いたいのだと思います。
6日の間は、神の中で、内側に住まうイエシュアと共に、神の教えを日常生活で何をしていても、神の性質通りを生きる事。
神はシャバットを第七日目に設けて、神の子らと共に祝い会見
する、そして、残りの6日の間も、シャバットの安息=神イエシュアの中に住まう事実に留まり生きると教えているから、その様に生きると言う方が聖書とマッチしています。
礼拝と言うと、礼拝儀式だけを想像してしまいますが、礼拝と
言うヘブライ語は、アヴォダであり、食べる事飲む事何をしても神の栄光を表しなさいとパウロが解説しているのは、生きる事
全てがアヴォダ=神の前に生きる事であるから、それを礼拝と
呼んでいるのです。創世記2:15にある、エデン=喜びの園を
耕すと言う言葉が礼拝と訳されているヘブライ語です。
詰まり、神に造られた自分の通り、神の前に生きる事全てが礼拝=アヴォダと聖書には記されているからです。
ちょっと聖書の解説と語られている意味が違うのが分かりますか?礼拝=集まる、神の呼び出している聖会を行い、皆で祝う
それも礼拝ですが、集まり、賛美、踊り神の言葉を読む、聞く
そのことだけが礼拝ではなく、日々何をしていても神の言葉を巡らせて考えて神の言葉を生きる!と
教えているでしょう。それが礼拝=アヴォダの本質なのです。
だから、預言書を読んでもそれがはっきり書かれているでしょう。神が伝えているアヴォダとは、神の教え通り〜婚姻契約=
モーセの五書に記した神が伝える生き方を生きる事なのです。
イザヤ1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。
1:14 あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、
それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。
1:16 あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、
1:17 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。
1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。
<このイザヤ書の冒頭は婚姻契約を破った生き方をしたイスラエルに対して、法廷に出て話し合おう!と言っているのです。>
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
ミカ 6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。
わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
エゼキエル20:8 ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその目を楽しませた憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった。それで、わたしはエジプトの地のうちで、わたしの憤りを彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。
20:9 しかしわたしはわたしの名のために行動した。
それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた異邦人たちに、わたしのことを知らせ、わたしの名が彼らの目の前に、はずかしめられないためである。
20:10 すなわち、わたしはエジプトの地から彼らを導き出して、荒野に連れて行き、
20:11 わたしの定めを彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。
20:12 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。
20:13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。
そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、
20:14 わたしはわたしの名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。
20:16 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。
20:17 けれどもわたしは彼らを惜しみ見て、彼らを滅ぼさず、荒野で彼らを絶やさなかった。
神は人に何を伝えていますか?イスラエルにだけ神が言っているなどと考えてこの箇所を読むならば、それは人の思想を通して神の言葉を曲げて読んでいます。そしてその場合、神とその人の関係には何も根拠が無いと言う事になります。聖書も異邦人には無意味と、ダービーの様な思想を語る事になります。神は人と神の提示する婚姻契約を通して関係を結んだと伝えているのです。
イスラエルを代表〜長男として語っているのです。
神の仰せ生きる事に難しく無いことを捨て、シャバットを汚したと書いてある意味をよく考えてみたら良いのです。
神が伝える、教え、おきて、仰せは全て100%モーセの五書
神の婚姻契約に記した人間の生き方の事を話していると先ず理解する必要があるのです。
イザヤ書の箇所で異邦人の中で誤解した解説がされてしています。神は神が創造された記念日を否定していると。そんな意味などありません。何を神は伝えているのでしょうか?イスラエル=神の契約の命の生き方を捨てた人が、形だけ神の前に装いして
出てきて、シャバット新月祭を祝っていたとしても、それは本当中身=婚姻契約の中にある神の仰せを生きていないから、その様な表向きだけの礼拝に神は耐えられないと書いてあるのです。
どの日もシャバットと解説する人は、パウロがローマ14で
語っている事を根拠に解説していますが、パウロは、レビ記23章の神が聖別された呼び出し日=聖なる集会の日ではなく、一般の普通の日、第1日目〜第6日の日没前迄の日、神の記念日以外の日の事を話しているのです。
なぜなら、神の記念日は絶対であり、人が仕分けて勝手に祝ったり祝う意味がないとする性質のものではないからです。
異邦人の世界には、聖書の基本となる大前提が教えられず、人が神の言葉を否定する、却下する思想から教えられてしまった大きな弊害が存在している事を覚えておく必要があります。
異教徒背景の異邦人には、神の言葉が何か?言葉=神、その意味重さ、価値が全く理解出来ていない思考回路があるのです。
神は、人に神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!と言われてイエシュアも同じ様に言われているのに、異邦人の神学、
デイスペンセーション神学は人が神の言葉を正しく仕分けよ!
などと、パウロの言葉を誤解、曲解して勝手な解説をし、
その誤りの教えを世界へ浸透させて来たのです。
パウロと言う人物を最初から誤解して聖書を読むから、聖書解釈がズレる、パウロの書いている内容を歪め変形し別の教えに変身させているのです。
パウロは使徒21:21でパウロ自身が証明している通りに
生涯亡くなる日まで、モーセの五書=トラー、それを
解説する預言書、諸書に100%忠実に守り、信じて生きて、
トラー=モーセ=父の教えを人々にも教え生きる様に訓練した!
聖書に記されている事実を、異邦人は神の言葉を曲げて解説しているのです。なぜ?
マルキオンやそして19世紀まで語り継がれた神の言葉を曲げる無効、破棄したと言う人間が考え付いた思想のせいです。
マルキオン、ダービーの思想=旧約聖書=これもマルキオンの思想に基づき造られた造語ですが、旧約聖書は異邦人には無関係!
だからダービーはほぼほぼ、創世記〜マラキの内容を語りませんでした。ダービーの説教はほぼパウロの書簡から。それでは、
聖書など教えている事にはならない、大変偏った人の思想を
聖書を利用して教えているだけです。
詰り要らない箇所など、正しく学ばなくて良いと教え、だから
本人も正しく聖書を理解などしていない、知らない!と言う事です。読まなくて良いと人に教えたくらいですから、神の言葉を正しく理解していないのは明らかです。本人も読まないでしょう。もちろん。自分の思想を聖書に語らせているだけ。
そして、福音書も異邦人にはもう関係ない、その教えは生きなくて良い、山上の垂訓や、イエスのたとえ話も、異邦人とは無関係!と言って教えたのですよ。福音書も、ユダヤ人だけへの教え。そして、パウロの書簡、1、2で事足りると教えたのです。どう言う聖書教師ですか?その様な事を教える預言者や教師は
聖書には記されていません。いや神の言葉を捨てる様に教える人は、偽教師と呼ばれてしまいます。天の国で一番小さい価値のない存在になるとイエシュアも言われました。
その様な人の思想、そして、2つ分裂した神の家族=聖書の最初には記されていない、預言されていない、もちろん福音書以降も
異邦人の教会出現など書かれていない=マタイ16章を完全に
誤解した解説を聞いて、新しい異邦人グループが出て、ペテロが
その異邦人のために勝手に彼の判断で聖書を正しく仕分けて教えると言う、ダービーの思想が浸透したから、皆が聖書を誤解しているだけです。
聖書の記述に基づけば、神の教えは昇天以降何も変わっていないのです。異邦人が神の言葉が終わり!と言い出して、それを異邦人が言い続けているだけです。
パウロや使徒、当時の人は皆トラーを生きて、シャバットを
第七日目に祝い、新月を祝い、過越、仮庵を祝ったのです。
クリスチャンはこう考えませんか?1世紀の彼らはキリスト教会と言う場所に集い、日曜礼拝をしその様に教え、イースターとクリスマスを祝っていた。事実はどうでしょう?聖書に何と書かれているか自分で確かめたら良いのです。使徒やパウロの書簡は、神の教えが別物に変化する過渡期の記録などではありません!
いい加減な教えに耳を傾けていたら、聖書に本当に書いてある事を完全に曲げても納得出来ます。イエシュア信者は1世紀パリサイ派の群れに加えられ、彼らのシナゴグでシャバットにトラーを
教えられ、過越や仮庵を祝ったことしか聖書には書かれていません。
諸外国でもユダヤ人の群れに異邦人も混ぜられていただけです。
異邦人が1世紀に幼い頃から、先祖代々タナック=トラー、預言書、諸書に親しみ、シャバットや祭を祝っていたなどと言う背景のある人など、今でもそんな人ユダヤ人の血筋ではなければ、
異邦人の中に居ないのに、1世紀にも居るわけないのです。
2テモテ3:15−16
その様な偽の教えが教科書に書かれて、新約聖書学者権威とされる人、M.テニーの様な権威学者と呼ばれる人の教科書、教えが教えられているのです。聖書ではない教えが20世紀にも継続し続け、世界へ浸透し続けて来てしまったのです。1世紀後半からずっと。
イエシュアを愛すると言う人々が、イエシュア=言葉=トラー=神の言葉を否定する様に教え、神の契約の命を生きる事を放棄し、神が設けて創造された記念日を否定し、神の教えの意図を
理解しないまま、それがキリストが来られた後の人々の生き方だと思いそう人に伝えて、疑わない。考えない。人の教えを、人が
作った記念日を買って、神の教えと記念日から離れたと言うことに気が付いていない。
黙示録 2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛=婚姻契約=トラー=父の教え=モーセの五書に記された生き方から離れてしまった。
続く