今日は何の日?神が人に伝える永遠普遍の真理 基本からズレないで考える 1 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

遥か遠い昔、太古、そして古代中近東、ヘブライの世界の人を

通して神が人に与えられた同じ神の言葉、永遠の婚姻契約書。

 

神が異邦人の中から、アヴラハムと言う、王でもない何でもない、一個人、名も無い普通の人物を忽然として唯一選び出し、

その人の種から、全世界の民に同じ祝福が与えられる様にされる為、アヴラハムを選んだ事が記されています。

アヴラハムの種=肉的な生まれに関係なく、同じ聖霊=イエシュアの命を受けて、霊的に新しく生まれた父の元に引き寄せられた全ての人です。

 

これずっと以前は見えない事実でしたが、どうして1つなのか。

どうして2つや3つ、バラバラな家族がバラバラな別々の教えを

生きる様に神がその様に人を造られていないのでしょうか?

 

神は1つ=エハッド=複数であり、全く1つと言う性質のお方であり、その神である親が物理的に生み出した、神の性質通りに造られた人間は、1つの人=アダム=土から造られた、同じ要素=

エッセンス、同じ素材から造られて1つ体だから!と書かれています。

神が伝える真実を1つ1つ繋げて、聖書に書かれた意味通りを読めば、ダービーの思想の様な分裂した神の人相、人格、時代ごとに変身する教えや、2つ分裂したイスラエルと異邦人などと言う空想は、聖書に書かれていないどころか、神が伝える神の性質と人の成り立ち〜性質と全く異なる事が記されています。

もし人種ごとに違う教え、生き方と言うなら、人は人種ごとに

肉体的構造が違うとでも言うのでしょうか?異邦人が毒=地上の

清掃動物=ゴミ、毒、菌満載な動物を食べても影響受けず、

環境にもウイルス排出しない?でもユダヤ人が食べたら、害を受けて、環境にウイルスを撒いて人を汚染するから、それらを食べてはダメ?考えたら最初から人の教えは神の言葉や教え=真理とはズレた知恵の無い空想なのです。神の知恵を捨てる程愚かな行為はないからです。

人間が命を持つのは、1つとなった受精卵から、全ての体の細胞

別の器官が造られるのに、全部元は同じ1つです。

 

そして、その1つ同じ土=アダマから神により造られて広がった多くの民族の中で、唯一の神=エハッドの神=イスラエルの神の性質通りを反映して生きる人、実際の人間と、実際の地上の神の国〜聖なる民、祭司の国民、祭司の国、イスラエルを神が永遠の中から選んで、この1つの神、1つの民、1つの生き方〜神の教え=婚姻契約に記された聖なる民、祭司の国に属する人として

イスラエル以外のどの国に生きても、同じ生き方をする事を教えたのです。

都上りの祭りでも、理解出来ますが、皆が1つ神、1つ神の家

実家に1つの大家族として地方から、未来は世界の四隅から

上っていく!1つ神の中に存在している絵画的目でみて理解出来る1つ家族の姿なのです。神の記念日、祭りは実際に生きて体験して、福音を理解する様に神が造られているのです。

だから、イエシュアもタナックに記された預言通り、世界の中で

イスラエル、エルサレムに住んで無い人達が、同じイスラエルの神を礼拝すると言ったのです。

シャバットも人の為、家族の為に造られたものです。

バラバラで破壊される家族が、神の意図通りに生きる事で回復

修復される事を神が最初から教えているのです。

神が言う通りにするのは、肉には抵抗感じ、なんでも自由、又は異邦人の伝統に合った事の方が馴染みがあるからそれが良いと

感じるだけです。

 

その神の子らの実家、センター、中心がエルサレムです。エルサレムに実家=神の家がある。神の命=言葉=契約の箱=臨在が

実際に存在し、神の家=神殿の至聖所に在ったのです。

家族には何がありますか?皆が住まう家です。夫、妻、夫婦が

あり、子供達が居て、そして古代は同じ町囲みの中、同じ敷地に親、子供達周りには親戚と同じ場所に住まっていました。

 

家族には、家があります。その家の一番中心、お茶の間は、

家族が顔と顔を合わせて団欒し過ごし語り食事をし楽しく過ごす

場所です。

これを、神がイスラエルのエルサレムにある神の家で教えたのです。神の子らとしての人の生き方を実際に体験を通して教える、

神の家。今はエルサレムの神殿はローマ帝国に70年に破壊されてしまい、ありませんから、神の家で行われる様々な事は再開されていません。新しい神殿で、イエシュアが統治する時には、

ヘブル8章に書かれた様に、祭司制度が変わるのです。

ユダ族のメルキゼデクに属する大祭司イエシュアが大祭司になられ、レビ族アロンの家系の男子〜イエシュアが来られる迄、天の

大祭司=イエシュアの代役を任せられていた人達は、本物が来られて大祭司に就任したら、天の見えない現実の本体を地上で影として伝えたレビ族の大祭司の役割、お役目は終わるからです。

これをクリスチャンの世界では、神の契約書=トラーが変更されたと言いますが、ヘブル書の中には、古い契約が廃れた!契約

などと言う言葉は、ギリシャ語原典に書かれていない言葉です。

これも翻訳違反=書いてない言葉を挿入して別物に変身させていますが、ちゃんと文脈とヘブル書全体を読めば、祭司制度の事を

話している事は把握出来るのです。

 

紀元後70年代まではエルサレムに神殿があり、正常に機能して

その中で変わらずにコルバンを捧げられていました。イエシュア昇天以降何も変わらず、この神の家でシャバットを祭りを過ごし、日々オラーのコルバンが捧げられて24/7捧げ物の火、煙が祭壇の上から絶えない状態があったのです。

 

神の家は、神の子らの生き方を教えるものです。それがトラー=

モーセの五書に記されています。世界のどこにいても、同じイスラエルの神に意識が向いている、その物理的なものがエルサレムの神の家で教えられたのです。神の家の中で教えられた事は様々あるのですが、イエシュアの贖い、救いの業!福音の全てをこの

神の家の中で実際体験を通して、教えたのです。だから、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されたメシアの業、福音、

子羊の贖いの血で新しくされ、罪が注がれ、陰りない心で神の前に出て、神は既に、その人の罪をイエシュアの代価により許されまっさら、傷のない者として受け取られている事を、祭壇に捧げた傷のない動物、天から実際に下した神の火で傷の無い動物が焼かれて、きよめられ、そしてそのかぐわしいバーベキューの匂いが煙と共に天に昇り、神の中に100%愛され受け取られている事実を目で見て、体験的に福音の全てを網羅して教えられていたのです。もちろん神の祭壇に捧げられる動物は神が指定した、きよい動物、傷の無い動物のみです。その動物を祭司と訳、そして皆で食べるのです。大宴会、喜びの内に修復された状態を祝う。

 

バプテスマのヨハネはアロンの家系に属する大祭司です。

その人が、”見よ!世の罪を許す神の子羊!”と言われたのは

大祭司ヨハナンが脈略もなく、自分の思い付きでその言葉を発したのではなく、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されている、福音〜贖い、救い、罪の許しを理解して話しているのです。太古の人々は神の言葉=タナックから、実際にエルサレム

の神の家で、シャバットや祭りを通して、イエシュアの贖いの血の意味を教えられていて理解しているのです。だから、大祭司であるヨハナンがその様な言葉をイエシュアに対して言ったのです。そして、ヨハナンがヨルダン川でイエシュアが水に浸った時に居た意味は、大祭司が傷の無い生贄である子羊を判定する役割通りだからです。イエシュア=傷の無い子羊〜世の罪を取り除く

神の子羊。

イエシュアが永遠の中にあるこの世の礎が置かれる前から

屠られた子羊の血の贖いの業を完成された方であり、そのお方が

地上に来られて、贖いの事実を物理的に人々に証明して下さる為に来られたからです。

1つの民〜イスラエルが選ばれたのは、神が伝えた通り、

聖なる民、祭司の国に属する人であり、この世〜異教の神々の

世界に生きる人々と、イスラエルの神の家に属する神の性質通りを、神の教えに根付いて生きる人の区別=境界線を引く為です。

光と闇を区別して、世界の異教の神々の教えに浸る人達を本物の

神=イスラエルの神の元に引き寄せる役割を担う為です。

1つ民=神の性質、言葉を生きて、神の記念日=福音を生きて

網羅する事をする人達がいなかったら、そうでなければ、どうなると思いますか?全部が神の言葉と、神の教えでは無い別の教えの混ざりものを生きていたら、どれが本当の聖なる民の生き方なのか、区別が無くなり、分からなくなります。混ざっているから、何が本当の本物のなのか分からなくなるからです。

 

イスラエルに居る超正統派のユダヤ人を思い浮かべると思います。黒い服を着て、大きな帽子を被って、女性は頭の毛を剃り、

カツラを被ったりしている窮屈そうで、厳しそうな生き方と思います。でも、黒い服装や、彼らが信じている様々な事は、全部が

聖書ではないのです。

パウロが言った様に、”人の伝統の教え” ”律法の行い”とは、

今はタルムードとなって書籍になっていますが、彼らの解釈の

タナックが記されています。その中には知恵に満ちた事も記されていますし、とても参考になる事もありますが、でも人の教えも

ふんだんに混ざっていますから、それは生きる必要の無い物なのです。しかも、それぞれのラビの言う事が違うのですから、神の言葉とは違います。

太古、昔、イエシュアが来られる迄は、ユダヤ教と言う教えを

神が教え、その古い教えが終わり、昇天以降は、キリスト教になったと考えていませんか?私はそう教えられてそう思っていました。

クリスチャンがキリスト教と考える教えや宗教は、16世紀迄存在していないものなのです。しかもルターがカトリックに対する92の非聖書的教えを提示しチャレンジし、そこからプロテスタントと言う枝分かれした宗教が出来ました。

しかし信仰の根の土台は、聖書に記された人達=タナックに記された事を拒否する、カトリックの教えの土台に上に同じく在り、様々な儀式や、記念日を共通しています。簡単に言えば、日曜礼拝、クリスマス、イースター同じ様に祝いますよね。聖書に登場する人達、イエシュア、パウロ、使徒1世紀の人々は、ローマ

カトリックの考えた祭りなど祝う事もなく、その様な祭りも編み出されていない、誰もそんな祭りは知らない時代です。

聖書には、シャバット、新月、過越、仮庵の祭りを昇天後も祝っていた事しか書かれていないのに、クリスチャンは普通その事に疑問に思わないでしょう?いつどう言う理由で、神が創造された記念日が祝われなくなったのか知らないからです。

 

16世紀まではローマ教〜異邦人が考えた教えに基づいた宗教を異邦人は信奉していたのは、2世紀以降、異邦人がユダヤ人の群れとユダヤ人トラー教師と完全決裂して、ダービーの様な思想を思い付いた様々な異邦人教師の教えで西洋宗教と言う、土台が神の言葉は終わり!と言う思想に根付いて、聖書を語る宗教が生まれたのです。

彼ら異邦人の聖書観は、共通しています。古い教えは廃れた〜

そして、福音書以降〜黙示録に書かれている内容が100%

タナック=モーセ、預言書、諸書の抜粋、短い注解であると言う

事に丸で気が付かないまま読んで、そこには、最初のタナックを

否定する教え、塗り替える教え、タナックとは違う新しい教えが

書かれているると言う、書かれていない事を空想して考えているのです。

だから、ユダヤ教、キリスト教と言う言葉は、便宜上使っていますが、聖書にはユダヤ教もキリスト教と言う教えも記されていません。

イエシュアが来られたのは、古いユダヤ教と言う教えを捨てて、キリスト教と言う新しい教えを人に伝えたのでもありません!

 

どう言う意味かと言うと、なになに教と言うのは、神の言葉に人の思想が混ざったものだから、なになに教=宗教と言うのです。

神の言葉はなになに教と言うものではなく、シンプルに純粋な神の言葉=神の教え、神のインストラクション、トラー!

それだけだからです。

ユダヤ教と言うものもタナックには記されていません。聖書に

記されている古代の人は1世紀やそして現代の様なユダヤ教なる教えを生きてなどいませんでした。もちろん、神の契約を捨てた

人達は、異教の神々の教えに混ざり、高き所で、混ぜ物の礼拝を

繰り返し繰り返し行い、ある時には1000年にも渡りその様な

事をして、遂にイスラエルから追放され捕囚の民となった事が

書かれています。

イエシュアが生まれた時代に、当時のユダヤ人達が編み出した、

口頭トラー=人の言い伝え、先祖の伝統の教え、律法の行いと言う言葉で、福音書以降に記されていますが、その様な人が編み出した教えが、神の言葉、教えに混ぜられて、それを生きる様に

強要されていたのです。

だから、イエシュアがその教祖達と議論していたのは、彼らが編み出した、彼らの解釈のタナックが、人の編み出した教えであり

神の言葉の意図とは違う!と、正しているのが、イエシュアが

されていた議論なのです。それと同じく、異邦人が編み出した

神の言葉を否定する教え、聖書とは異なる教えは同じ様に

イズムであり、人の言い伝え!なのです。

人の教えと神の言葉の区別を、聖書からする必要があるのです。

 

続く