デイスペンセーション神学 ダービーの非聖書的神学がスコッフィールドにより20世紀に爆発的に浸透 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

記事が長いと読みづらいので、分けて書いていますが、前回から

の内容は繋がっています。

今現在もそうですが、聖書とは異なる様々な人の思想、発想から、聖書の記述に無い事を述べたり、聖書とはズレた解釈が無数にあります。

聖書だけに戻ろう!聖書にはこう書いてある!と言いながら、

実はそんな事はしていないのです。聖書に書いてない思想を語っているのです。もちろんある部分の聖書の真理はその通りに把握して、信じて語っているのです。

 

神の言葉は完全であり、変化しない、永遠不変である。神は永遠から永遠に変わらない。人は信仰により義とされ、子羊の血〜この世の礎が出来る前から屠られて完了しているイエシュアの業、この世界の全てが出来る以前から私達は神により選ばれており、新しい命を受け取る事が出来る。そしてどの時代にも、救いの方法=イエシュアは同じであり、イエシュアを通して以外誰も父の元に来る事は出来ない。福音はどの時代にも同じである。

イスラエルの神の群れは1つだけである。

 

ここに書いてある事は聖書に記された事実ですが、クリスチャンがそう受け取らない信じていない部分を青字にしてみました。

 

青字の部分は、クリスチャンの間では、神の救い、許しの開始日程、有効期限が決まっていると考えているのです。

古い時代は行いにより頑張りましょう〜の教え。新しい時代は

恵、聖霊時代、キリストの律法時代。?????

古代も今も未来も、イスラエルの神=イエシュアは変化無し。

聖書は最初から最後まで一貫して同じ事を語り、異邦人が語る様な教え〜変化のある神、変化のある神の言葉、教え、時代ごとに人種ごとに異なる救い=イエシュアの方法、別の福音がある?

終わりの時代〜イエシュアが地上に来られた後は別のえ、新しいグループ、イスラエルとは異なる、異邦人教会=異邦人グループが出現すると言う様な事は聖書には記されていません。

 

福音書以降読んでも分かるのですが、ユダの家とイスラエルの家

と言う群れ、バラバラになっていた1つの群れが2つなったのは、イスラエルは神の契約の神の教えや、シャバット、祭りを継続して汚し、神の教えを生きないので切り離されたのです。

それが失われたイスラエルの羊です。神の教え=契約の命を生きる事をやめて外れてしまった人達、イスラエルの失われた羊の元だけにイエシュアは来たと言った意味を理解しないとならないのです。

エレミヤ31章にある新しい契約とは、モーセの五書=婚姻契約が、再更新される契約の中身は全く同じ契約です。そしてその

契約は誰に与えられると書かれていますか?異邦人教会に対してなどではありません。ユダとイスラエルの家、分裂していた家が

イエシュアにより1つに修復されれるその1つの群れに与えられるのです。イエシュアを通して、隔ての壁を壊し神が1つ家族に修復しようとしているのに、どうしてクリスチャンの世界では、聖書とは異なる分裂思想を教えているのでしょう?

教会と言う造語で表されてしまった、イスラエルとユダの家から独立した単独のグループも聖書のどの箇所にも記されてなどいない事実を聖書から先ず確認してください。

聖書には、どこ箇所も、カハール、ケヒラ、エクレシア=呼び出された人々の1つ群れしか記されていません。

このイスラエルの群れ=会衆=集会=同じイスラエルの羊の囲い、自然のオリーブの木に異邦人は接ぎ木され加えられるだけ!

単独別物の、教会なる今まで存在しない違う群れ、違う教えや

別の契約を受ける群れなど、聖書には書かれていません。

 

だから、使徒2章以降の、神の祭り=レビ記23章にある、

春の最後の都上りの祭り、シャヴオートで、初めて新しいグループ、新しい教え、新しい契約が出現した!と言う思想は、聖書に

記されている事などでは無い、とても勘違いした教えなのです。

この祭りは、神の契約=モーセの五書を受け取った事を祝っている祭りであり、聖霊が初めて使徒2章で降臨した〜などと勘違いしているから、新しい事が起きたと思うのですが、シナイ山の

出来事の方が使徒2章のシャブオートよりも、もっとすごかったのです。そして使徒2章のシャブオートでの出来事は、シナイ山で与えられた同じトラーが今度は世界の異邦人へも伝えられて

行く、その始まりの時であったのです。み言葉はシオンから出て

世界へ伝えられると預言されている通りだからです。み言葉は

ローマから出るのではない!イザヤ2:2−3壊れたダビデの家〜神の子らが1つに修復される!

福音はタナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されているのです。同じ福音が世界に伝わる!でもその福音の伝わり方、神の言葉が2世紀以降曲がって伝えられてしまう事が起きてしまったのです。

どの時代のどの人も、イエシュアがされた業だけにより、父の元に来る事が出来るのです。

聖書を読む前提が最初からズレているのです。2つに分断した

教え=契約書、イスラエルと異邦人と分断した2つの群れと言う

人が考えた思想は、聖書ではないのです。

その思想、聖書とは異なる思想は、1世紀後半以降から既に数々出現して来ました。

 

クリスチャンの中にある共通の思想、問題点があるのです。

その1番の大問題、聖書=神の言葉の根幹、柱、土台を覆す教えです。この重大な部分を覆すから様々に崩れた思想が編み出され続けるのです。

聖書には、最初の部分の75%〜古い律法=モーセの五書、預言書、諸書と、最後の25%=福音書〜黙示録には、別の教えが

記されていると本気で考えているでしょう?どうしてですか?

神の言葉とは異なる事を、誰かの発想でそう言い出して、それだけを聞かされて来たからです。

デイスペンセーション神学を編み出したダービーや、その注解書を書いたスコッフィールドなど、聖書を全体に学ぶ事を教えるどころか、彼らの説教はほぼほぼ説教はパウロの書簡だけから。

その様な偏った教育を施されたらどうなるか、考えても分かります。

パウロの書簡はトラー、預言書の注解であり、元のタナックに記された内容が全部書かれていないから見えない。

プラス、パウロの書簡を誤解した解説をしているのですから

聖書に書かれた内容など正しく教えられ伝わってなどいないのです。

そして、聖書の最初の部分、モーセの五書、預言書、諸書、

特にモーセの五書を律法と呼び、その部分の教えは、要らない、

不必要、廃れた、又は異邦人には関係ない、道徳的な教えだけ有効などと神のDNA、イエシュア=トラー=言葉、教えを人間が

判定して定義しているのです。

それぞれが聖書だけに戻り、その様な思想がどこから出たのか

考えたら良いのです。

だから、神の言葉(律法)と恵と対比される神の言葉とは異なる思想を人に刷り込み、モーセの五書、預言書、諸書に書かれている事は、メシアが地上に来られたら無効〜破棄、律法から解放して下さったのに、又その古い教えに戻って生きるのは愚かと考えているのです。

でも聖書には、どの箇所もトラー=モーセの五書=父の教え、

婚姻契約しか記されていないのです。

1世紀当時の彼らは、福音書以降など知りませんでした。

その事実からも分かる通り、タナックにはイエシュアの業、福音の全てが記されているのです。モーセや預言書に記されていない

事などイエシュアは教えないし、モーセや預言書に預言されていない異邦人教会出現などもあり得ない。預言書に根拠がある事だけが実現するからです。

 

アモス3:7まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。

 

タナックには福音の全てが記されている、その記述され預言された事が実際に地上で起きたのが、イエシュアの地上の生涯であり、地上でも証明された子羊の血の贖いなのです。

 

次の教えは20世紀クリスチャンの世界で浸透した思想であり、

1830年代前にその様な思想を述べる人は1人も居ませんでした。聖書にも書いていない。

教会と言う異邦人クリスチャングループは、大艱難の前に、

秘密裏の行われる他の人には知られないキリストの再臨で、空中携挙されこの地上から消える。神が隠している計画があるなど、

それは聖書に書かれていません!と言っているのです!聖書に

書かれていない事=人の創作した思想です!よくよく注意して

考えないとならない。肉にアピールする教えに、神の言葉から識別しないまま飛びついて行くから、神の真理からズレてしまうのです。

この空想は、18歳の少女マーガレット マクドナルドがプレスペテリアン教会牧師のブルックスの集会でトランス状態で見た人の幻想であり、その神から出た幻ではない(預言書にそんな事記されていない、聖書に裏付けがないから)に感銘を受け、その教えを買い、ダービーもそのブルックの教えを買ったと言う事なのです。

教会=異邦人は、天に秘密裏の再臨内に取り去られて、イスラエルが地上に残ると言う思想。聖書に裏付け根拠無し。

1830−1840年代にその様な教えを唱え、ダービーは自分の発明した思想を編み出して行く。

フランスなどでも、ダービー思想を元に作られたプリマス

ブラザレンが出来る。

ダービーは、5回程アメリカに招かれ、特に東海岸地区に行った。彼の教えを聞いたジェームス ブルックスと言う、ミズーリ州のプレスペテリアンの牧師が、ダービーの支持者になった。

 

その後、どの様にして、ダービーの思想がアメリカへ大々的に

浸透して行ったのかの経緯があります。ダービーの思想をアメリカに大々的に浸透する役割を買ったのが、この人物。

サイラス、I スコッフィールドです。(1843−1921)

彼も弁護士であり、正式に聖書の教育を受けた事がない人です。

彼は頭脳明晰であったため、20代で弁護士になり、カンサス州の下院に選ばれ(1871)次の年には、29歳で全米初最年少

の地方検事に選ばれる。同じ年に様々な収賄、詐欺、スキャンダルで弁護士の資格を剥奪され、大酒飲みで、妻との生活を放棄

捨て不幸せな道を辿る。1883年、スコッフィールドの妻が、

彼が妻と二人の娘を放棄し逃げた件で彼との離婚が成立する。

同じ年に別の人と結婚し男の子と残りの人生を過ごす。

スコッフィールドは、カンサス州に戻り、彼の仲間がスコッフィールドを1879〜1883年の間に助ける。

1879年に、彼はセントルイスのD.L.ムーデイのキャンペーン、カンファランスを助ける。ムーデイもダービーの思想を買って取り入れた人物。

1880年代に入り、プレステリアンの牧師ブルックスは、スコッフィールドを受け入れ、訓練をする。このブルックスは、

デイスペンセーション神学にどっぷり浸り根付き、この思想を

通して、スコッフィールドに聖書を読み、解説した。それまで

スコッフィールドは、正しい正式な聖書の学びなどした事もないので、この人の思想を通して語るブルックスの教えに傾倒して行った。

そして、スコッフィールドは、ダービーが記した注解書を全部

丸ごと読み、スコッフィールドは、ダービーがこの時代に最も

深い聖書解釈をする人物である〜と言った。スコッフィールドは

他の学者の注解書を読んだのかどうか不明。スコッフィールドの

中では、これが聖書である!と頭脳にしっかり刷り込まれてしまった。

ダービーの聖書観、スコッフィールドの聖書観は同じ。

〜古い聖書=旧約は不必要、無用福音書もクリスチャンには不要、山上の垂訓や、たとえ話もクリスチャンには無関係、ユダヤ人だけ。クリスチャンには聖書の殆どが無関係、読まなくて良いと言ったのです。

パウロの書簡1、2で事足りる(この思想の根は2世紀の異端者

マルキオンの思想そっくりそのままが受け継がれた)だから、

ダービーやスコッフィールドの説教は、殆どパウロの書簡だけからであり、聖書全体を解説する様な健全な教えはしなかった。

しかも、パウロの書簡をことごとく、パウロの考えとは違う聖書とはずれた注解をした。

パウロの書簡の注解、解説=パウロが書いた意図通りに解説など

されていないどころか、パウロが言ってもない解説をしている、それがクリスチャンの世界で教えられている、今も同じです。

 

 

 

 

続く