神が創造された週一度聖別された主の日は永遠に第七日目 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人の考え付いた思想を元に編み出した非聖書的人造神学には、

聖書ではない思想がふんだんに盛り込まれて、聖書の記述を曲げています。

それに気が付かないのは、元の聖書に何が書いてあるのか分からないまま、聖書には記されていない=隠された神の計画があって

新しい群れ=教会=異邦人グループと、異邦人に対する新しい教えがあったのだとダービーは言いました。その教えは聖書ではありません!!!要注意。聖書に無い教えを、人が勝手に作り出し解説する事自体が、神に対する違反であり、奇妙であり、人間の

発想であると即座に気が付かないとなりません。

 

隠された神の計画だから、モーセの五書、預言書、諸書には

書かれていないのだ〜都合の良い解説ですよね。もちろん福音書以降にも、最初の聖書の75%に書かれていない、同意しない教えなど1つも書かれていません!こんな嘘に騙されてはならない為に、聖書に書かれた事実だけに戻らないとならないと言う事を頭脳に胸にしっかり刻んで聖書を読み直します。

 

聖書には、クリスチャンの世界が語る様な事は1箇所も、微塵も、記されていません。

 

1 神の言葉は、歴史の途中で変わった。

2 神の言葉は古い律法! 律法と言う言葉で、神の言葉を

表しているヘブライ語は1つも聖書には存在しません!この事実に目覚めて、書いてある意味通りに戻します。

ヘブライ語はトラーです。特にモーセの五書を指して、トラーと

言いますが、神の教えはどの部分も、トラーです。モーセの五書を土台とした、神の教え、インストラクションだからです。

聖書に記された正しい理解に戻って考えるのです。

 

ギリシャ語で、ヘブライ語のトラー=モーセの五書、神の教え、インストラクションを表す言葉は、ノモスと訳されていますが、これは、当時ギリシャ語とヘブライ語を理解していた人なら区別がつく言葉ですが、ギリシャ語の知識、トラーを知らない人、

そして翻訳の”律法”と言う不適切な言葉だけを読む場合、聖書が語る事実が見えないのです。

 

トラー(ヘブライ語)を表す、ノモス(ギリシャ語)は、

神の教え、インストラクション=トラー以外に別の言葉を表す、ちょっと面倒な言葉なのです。

このノモスと言うギリシャ語は、神の言葉、教えだけではなく、

法的な主旨、罪の法則、何かの法則、物事の性質など、人の教え、多種に渡り使用できる言葉なのです。

 

だから、そのギリシャ語のノモスを=律法と言う言葉に訳され、

この律法と言う言葉を、神の言葉=トラーを指して訳すから、

不適切な訳であるのです。神の言葉に律法などと言う意味は

無いからです。もちろんモーセの五書は人間が生きる上での全ての領域を網羅する神の教えですから、この中には民法、刑法など、イスラエルの国家憲法が含まれています。

でも神のトラー=教えは、クリスチャンが解説する様な古い、

縛りの呪いの恵の無い律法なるものではありません。

 

この律法と言う言葉、ギリシャ語のノモスが多岐多様に使われているので、例えば、パウロの書簡の中の、律法と言う言葉が

”罪の性質” ”罪の法則” を指して語っていても、それが”モーセの五書”を語っているのだと勘違いした解説をされているのです。

 

律法の下に居ない、恵の下にいるのだ!これが良い例です。

神の言葉=恵です。神の言葉=恵の下に居ない?辻褄合わない事

は正しい言葉に戻すと分かるのです。

パウロが言っている律法の下に居ないと言う意味は、贖われた人は罪の法則の下に縛られている事から解放された新しい人を

与えられている!と言っているのです。トラーが伝える、罪の責めも神が代価を払い取り除いて下さったからです。

でも贖われた人が罪に留まる生き方を続けるならば、新しくされても罪の法則に縛られたままになります。だから、主を信じていると言いながら、神が伝える罪に留まる、LGBTQの生き方を生きているなら、神の民の群れの中で同時にその状態で生きる事は出来無いと、神の言葉から理解しないとならないのです。

勝手な生き方=罪に留まる生き方は周りを確実に汚染し、汚し、破壊するからです。だから、共同体に留まり生きるなら、その罪を今直ぐに捨てて下さい!と神が教えるのは当然です。

 

だから、会衆から絶たれると書いてあるのです。人を破壊する

危険因子だからです。簡単でしょう?その様な罪を選び生きる人を保護し、周りの無垢な羊に危害を加える事は知恵ある長老達が

選択する事ではありません。

羊の中に狼を入れることが愛なんて変な教えをする人がいる。

 

愛と言うヘブライ語=神が伝える愛=契約の愛=アハヴアとは、トラーに記された事に忠実に生きる事であり、トラーに記された罪を行いながら共同体の中には生きられませんと言う条件があるのです。婚姻契約は、条件付きなのです。無条件では無いのです。

あなたが神を愛するなら、神との関係に留まりたいと願うなら、

神が伝える通りの愛=婚姻契約の命を生きてくださいと聖書には

書いてあるのです。これをクリスチャンの世界では教えられていないのです。

クリスチャンは勘違いしているのです。愛とは罪をなんでも受け入れて許容する事ではない、その様に、神は人に伝えていません。罪に留まり生きる選択をする人は、出て行ってとはっきり

書いてあります。当然の事、神の教えている事が宗教の教えで

分からなくなってしまっているのです。

 

そして、贖われた人は、罪の責めの下には居ないのです。

なぜなら、イエシュアが私達の咎、違反の全ての代価を支払ったからです。だからと言って、じゃなんでもやって良い?罪でもなんでも気にせずに行動しよう?そんな考えは、神とぴったり1つの意識聖霊に浸された=バプテゾーされた状態では無いと言うことです。

だから、救われたからと言って、それだけでは何の意味もないと教えているのです。新しくされた人の性質=神が伝える神の性質に造られた人の生き方、神が伝える教え=トラーに記された婚姻契約の愛の命の姿を生きる事をしなければ意味がないと伝えているのです。

だから、信仰で行いが無い人とは死んだ信仰である。神の言葉を無視して生きる人は不法=トラー無し=モーセの五書無し、神の教えをないがしろにして生きない人とイエシュアも言っている事と全部同じ意味なのです。

 

クリスチャンの間で誤解されている事の続きです。

 

3 救われた人〜信仰により恵みで新しい人にされて聖霊を

受けた人達は、人種に関わらずもれなく100%イスラエルと

同じ婚姻契約に生きる事に招かれていると言う事実を知らない、見逃しています。いや、クリスチャンの教えは、婚姻契約=トラーを破棄した生き方をせよ!無用だ!と教えられている誤解が

あるのです。

この婚姻契約に与えられた印は、”シャバット”です。大事な夫との記念日を捨てる?どう言う事だと思いますか?

 

クリスチャンの中では、こんな解説がされています。

今は日曜礼拝に変更。聖書に書いてないでしょう?そんな事。

そしてこの日曜日礼拝に変えたのは、カトリックであり、彼らの

出版物=質疑応答にもはっきり書かれており、カトリックの団体

がそう言っているのに、クリスチャンは、神が神の記念日を

変えたと信じているのです。不思議に思いませんか?

カトリックがシャバットを土曜日から日曜日に変えました!

て言っているのに、聖書に書いてない事を根拠に、神が日曜礼拝に変更したとか、それが主の日でだと信じてい実践しています。プロテスタントの記念日はローマ・カトリックと同じ記念日なのは、イエシュアやパウロ聖書に記されているものではない、人が4世紀以降決めた教えや宗教の記念日を生きる事に変更したから、単純でクリアーな真実があるのに、それに目を向けようともしないのです。イエシュアが何曜日に昇天しようとも、神の記念日は変更されないのです。

 

神の贖い救い=信仰だけにより受け取れる無償の代価です。

これを信じるだけで良いのですよ〜と言っているのです。

創世記15章のアヴラハムの契約を異邦人も受けているのです。

神が100%この契約を保証し、この契約は神の側で破る事は

ありません。救い贖いの事実を取り上げることもありません。

そして、贖われた人は、皆シナイ山で与えられた婚姻契約を

生きると神が教えているに、この部分を、行いは無用、神の言葉を生きることは律法主義だ〜 恵みを捨てた生き方だ〜と聖書では無い教えを聖書であるかの如く、何を言っているのか分からないまま人の教えを唱えているのです。

新約聖書=新しい契約書だと勘違いしているのです。

福音書以降には、異邦人用の、モーセの五書を否定する新しい教えなんて1つも記されていません!その箇所は、契約書としては

不具合があります。なぜなら、福音書以降は、聖書の最初の

75%のほんの短い解説、イエシュアが語られた教えは、モーセの五書のほんの少しの教えだけしか記されていないのです。

最初の箇所の75%が、神の教えの完全版教科書であり、最後の25%は後書き!だからです。そこだけ読んでも、神の前に何が

罪なのかも分からないです。全部復唱して書いてないから。

最後の箇所は、最初の箇所を知っている人に対して書かれているからです。だから失われたイスラエルの羊の元にだけ遣わされたとイエシュアが言っているのです。失われたイスラエルの家=

神の婚姻契約から離れて、ユダの家から切り離された人々!

 

クリスチャンは行いとか、神の言葉を学ぼうと言うとちょっと、引く、抵抗感じませんか?どうして?それは、神の言葉を生きる、古い律法を生きる事は、恵の無い生き方だ、恵みを無駄にする生き方であると、聖書の言葉を引用しながら、聖書とは真逆な教えを教えられて聞かされ続けているからです。

神がこの世界を造られた事実は創世記=神の言葉を読んで知った

のではないですか?神と言う漠然とした存在がいる事は、神が創造された世界を観察するだけで分かるけれど、そのお方がどんな

お方なのか、神が伝える事を聞いて初めて分かる。

聖書には何が書いてありますか?神を愛する人は神のトラー=

教えを愛して生きる!と書いてあるのに。神の教え=モーセの

五書の事であるとも気が付いてないまま読んでいるのです。

モーセの五書に記された教え以外の人間の生き方など聖書の

どこにも記されていないからです。

1つ1つ丁寧に、そして忍耐深く間違いの教えにより植えつけられた、神の言葉に対する誤解を解いて行く必要があります。

 

イエシュアを信じて神との関係に入った人達は、人種にかかわらず、異邦人も、知らなくとも、神が提示する、神の1大家族の生き方=婚姻契約の愛に生きる事に、招かれているのです。

しかも、神との関係は全て、神が提示する契約に基づいて成り立っている事実を聖書から全く教えられないのです。神が提示する契約の生き方を放棄してても、それが神を愛する事だと思っているのです。

2つの群れは無い、イスラエルと同じ契約を異邦人も同じ様に

生きる事しか神は教えていない、聖書にもそんな事書いてなど

無い。神の言葉の事実を異邦人クリスチャンから目隠ししているのが、1世紀後半以降に出てきた西洋人教父達の思想や、ダービーが編み出したデイスペンセーション神学の教えなのです。

 

聖書には福音書以降違う教えが書かれていると思い込んでいる理由は、特にパウロの書簡に記された内容を、異邦人達がエラー誤りの解説を作り出し、それを人に教え、それを聞かされ続けて

そう信じ込んでいるからです。神学校でエラー満載の人の教えを

通して、聖書に書かれている事を曲げて教えられてしまい、それを聞いた人達が教師、牧師になり普通の何も知らない人に教えたら、それは聖書では無い教えが浸透しても当然なのです。

 

飯山陽さんと言う中東研究をしている大学教授が、言っていました。彼女の解説する真実、ガザ地区でハマスが病院や、モスク、学校、民家がハマスの戦闘拠点となって、武器庫になっています。今画像映像で、ハマスでイスラエルに降参した人達が、

ガザで一番大きな病院、シファ病院の中にある、保育器、ベッドの中、床の下に隠された爆発物を全部取り出させられている

画像があります。シファ病院の医者もハマスの一員なのですよ。

その様な解説していたら、彼女の伝える事が真実であるのに、

それらはイスラエルの嘘を彼女が言っていると主張した、日本で一番トップの大学、OO大学のOO教授、日本での中東研究の第一権威者であると言われる人が、全然正しい情報や知識が無いと

言う事が、証拠が出てきて続々と証明されているのです。

だから、有名権威の大学教授、学者が正しい事を教えて語っているのではないのです。むしろ、その様な人達こそ真実に目を向ける事をしないのです。なぜ?自分が語る事が正しいと確信持って立ち止まり考え直すことをしないからです。

大事なのは、事実なのです。人がどう考えて、どう信じるか、

感じるかではなくて、神が伝える事実、聖書には何が書いてあり、何が書いてないのか、神の教えを人が知ろう、追求しなさいと神が伝えているのです。

 

 

続く