先ずは、デイスペンセーション神学の教えと、聖書に書かれている事の違いを1つ1つ取り上げて書きます。
そしてそれらの思想教理を聖書に基づいて検証して行きます。
デイスペンセーション神学の教えはこの様なものです。
それらは聖書とは異なる教えです。
1 イスラエルと異邦人(教会と言う聖書に無い造語で教会と言っていますが、それこそが間違いです)と言う2つ別の群れに分けて考えています。2つの神の民が居て、地上を支配するイスラエルと、霊的教会=エクレシア=カハール=天を支配する人達が居ると言います。<人間のファンタジー、創作の話です。>
この神学を信じる人が、キリストの花嫁=異邦人、天を支配
父なる神の花嫁=イスラエル=地を支配する、こんな空想ファンタジーまで作られていますが、これは聖書のどこにも書かれていないどころか、聖書では、父とイエシュアは1体であると書かれているのです。分裂の神?そんなの聖書ではありません。
2 基本的な区別〜律法と恵。この2つは互いに排他的考えです。
<律法=元の言葉、神の教えと神の恵みは敵対し合う訳がない
聖書には、神=言葉と書かれていて一体です。神=言葉=永遠に変化しない。神が神の言葉に敵対しあい、排除し合う行為をする?ウルトラマン一家でさえ、内部分裂が無いのに、神の中で
は内部分裂した?奇妙な思想。>
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
神=言葉=恵とまことに満ちている=イエシュア。
3 新約時代の教会は、タナック=モーセ、預言書、諸書には
記されていないとする、神の隠された計画であった。
<詰まり、聖書の最初の75%には、変化する神や変化する契約の事は書かれていませんと認めているのです。異邦人単独の群れ=教会なるものは、実は聖書に書いてないと言っているのです。
聖書に書かれていなことの説明を、神がある事実を隠していたと言う論理、物凄いトリック解説です。そんな事言えれば、聖書にないのにどんな教えでも作り出せます。とんでもない嘘の思想。
聖書は、100%タナック=モーセ、預言書、諸書を解説しているのに、書かれてないことが、福音書以降に出現して語られる?
それ大嘘です。
福音書以降にも新しい教えなど1つも書かれていませんが、福音書以降書かれている内容を、完全に歪めて解説しているから、
あたかも2つのグループ、タナックを神が否定と言うのです。
福音書以降にも、タナックに記されていない、神が隠されていた異邦人への別のプランなど1つも書いてませんが。>
4 軽挙と再臨を区別している。キリストが空中に来られる時に教会は空中軽挙(1テサロニケ4:17)これは、正式な再臨の前に起き、7年の艱難の時に起きる。
<人には分からない秘密裏に行われる、空中軽挙、アメリカで、レフトビハインドの映画が作られましたが、ある日忽然とクリスチャンだけ地上から消える?と信じてるでしょう。
こんな思想1830年迄、誰一人、預言者、聖書記者も誰一人として語りませんでした。それ以前に偽預言〜キリストが再臨すると言う偽預言をした人達がこの19世紀当時大勢いました。
W.ミラー、その思想を支持するEホワイト。そしてその度に預言が起こらない。没。キリストがもちろん再臨されないので、何回も再臨日程変更。全部没。偽預言者。
この再臨、終末論を強調する偽預言が出現しましたが、終末論を聖書ではない教えに塗り替える人達が続出した、第二覚醒時代がアメリカでありました。これは別のトピックなので今は書きません。でも非聖書的な思想の種は代々異邦人の中に引き継がれて
行っているのです。>
先ず1から、聖書に基づき、テスト、検証して行きましょう。
私達は、イスラエルと、異邦人、2の体=群=カハール、エクレシア=神に呼び出された人々の群れであると、聖書に本当にその様な事実が書かれているのでしょうか?
教会と言う言葉は聖書に、無い不適切な翻訳造語だと言う事を先ずはっきり知って下さい。福音書以降に記されている”教会”と言う翻訳造語の裏にある本当の言葉は、エクレシア=呼び出された人々の群れと言う意味であり、エクレシアと言うギリシャ語翻訳の裏にある、大元のヘブライ語は”カハール”です。その言葉は、モーセの五書からマラキでは、群れ、集会と訳されています。
それなので、一旦紛らわしい教会と言う造語を削除、却下して、本来の意味を表す言葉カハール、エクレシア、群れ=集会と訳されている本来の意味を反映している言葉に戻します。
私達は、イスラエルと言うカハール=群れと、もう一つ別の異邦人の群れ=カハール、エクレシアであると聖書には書いてあるのか、無いのか見てみましょう。
私達はイエシュア ハ マシアにより1つのBody=体=群れであると聖書には記されています。
イスラエルと異邦人両者が一緒で1つの群れです。
1コリント12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、
また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つで
あるように、キリストの場合も同様である。
12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
実に美しく素晴らしく神の家族が1つである事実をパウロが表現
しています。
エペソ3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスに
ヨハネ10:16 わたし=イエシュアにはまた、この囲いにいない
コロサイ1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで
ここに教会と書かれている不適切な翻訳をどかして、元の言葉にしましたが、キリストの体とは、単数=1つであり、複数として
原語には書かれていません。1つの体!!!書いてある通りに
読み、聖書に書いてある言葉、記述勝手に書いてある事を変えてはなりません。
エペソ5:23 キリストがカハール=エクレシア=群れのかしらであって、自らは、からだなるカハール=エクレシア=群れの救主であられるように、夫は妻のかしらである。
カハール=エクレシア=群れ=体=1つ。
イエシュア=カハール=エクレシア=群れ=体=1つ群れの頭=
ローシュ。
イスラエルも異邦人も贖い出されて呼び出され救われた人々、
これから救われる人もれなく全て、この同じカハール=エクレシア=群れ=体=1つの共同体に加えられる。
コロサイ1:18 そして自ら=イエシュアは、そのからだカハール=エクレシア=群れ=体=1つの共同体なるのかしらである。
彼=イエシュアは初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
なぜなら、イエシュアただ一人が、救い主であられて、イエシュアが唯一このイスラエルと異邦人混合の1つの体の頭であるからです。それとも頭が2つある?又は身体が2つで頭が一つ?
そんな空想の世界は聖書ではない。
アダム、ハワ、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ
、ダビデ、預言者達、パウロ、ペテロ、ユダヤ人、ギリシャ人
異邦人全て同じイエシュア=1つの救いの道を通して1つイスラエルの神の大家族に加えられた事実が聖書には記されているのです。
全員、イエシュアが救い主であると宣言しそれを受け取る人達の
群れです。他の救いの方法、他の福音、他の道はないから。
キリストにあって1つの体。
エペソ 3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスに
あって、わたしたち=イスラエルと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
エペソ3:21 カハール=エクレシア=群れ=体=1つの共同体により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなく
あるように、アァメン。
オラーム〜代々永遠に神のカハール=エクレシア=群れ=体=
1つの共同体は1つであると書いてあるのです。
使徒7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会=カハール、エクレシア=神に呼び出された人々の群れにいて、生ける御言葉=シナイ山で与えられた婚姻契約=トラー=モーセの五書を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
この箇所は、荒野〜出エジプトしたイスラエルと少数の異邦人達の記述になっています。そして注目して下さい。これまでずっと同じカハール、エクレシア=集会、群れと言う翻訳を、創世記〜マラキまで使い、福音書以降は、全て教会と言う造語翻訳で表していたのに、いきなりこの使徒7章で、同じカハール=エクレシアと言う言葉は、太古から存在しているイスラエルが主体の群れなので、集会と訳しているでしょう?
分かりますか?この集会と言う言葉=カハール=エクレシアを、福音書以降では、教会とずっと書いているのに、太古のイスラエル、プラス異邦人の荒野に出エジプトして旅した彼らの事が語られている箇所=同じ言葉を教会ではなく、集会と言う別の言葉で訳しているのです。
それならば、荒野に於ける教会=イスラエルと異邦人と書かなくてはならないでしょう?同じ言葉を一貫して、同じ翻訳用語を使うべきです。
翻訳だけ読んだら、集会、教会は別物の群れだと思いませんか?
集会=教会、実は裏にある原語は、カハール、エクレシア=
呼び出された人々の群れと言う同じ言葉が使われているのですよ。だから、翻訳を読んで見ただけでは、裏にある本当の言葉、意味が見えない問題がこうして実在しているのです。
こう言うのを翻訳トリックと言うのです。こう言う違反をやめないとならない。教会と言う聖書に無い造語が浸透してしまったから、これは、聖書に書いてある正しい知識を持っている人が正しく聖書を読み直して、正しい聖書解釈を人に伝えていくしかないのです。
ここに書いてある意味を考えれば、最初からイエシュアを頭とした同じ1つの共同体=カハール=エクレシア=群れ=体である事が記されているのです。
デイスペンセーション神学は、イスラエルは教会ではない、教会はイスラエルではないと、聖書に反した思想を唱えていますが、実は翻訳トリックと、デイスペンセーション神学教理の様な聖書に反する教えで、聖書を正しくなど解説していない問題があるのです。重大問題。この使徒7:38の集会と言う言葉と、他の箇所でパウロや、使徒や福音書で教会などと訳している、裏にある言葉は同じ、カハール=エクレシア=集会=群れと言う、イエシュアを筆頭に集められた1つの群れ、共同体の事なのに、それが丸で見えない翻訳と、人造神学教理が、神が語る真実を人に伝える事を妨害しているのです。
続く