デイスペンセーション神学のエラーを検証する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒15章のエルサレム会議で、この箇所は、異邦人にはモーセの五書の4つの教えだけの教えを生きれば良いと書かれている

と解説されて、意味通りには解説されていない箇所です。

ここに書かれているのは、そんな事など書いてません。

 

この箇所は、異邦人イエシュア信者は、神の教え=モーセの五書を全く知らないから、イエシュアを信じますと言いながら、異教徒の神殿に行き、トラーに反した方法で動物を絞め殺し、汚れた動物=豚を彼ら異教神の神殿の祭壇に捧げ、その生き血を飲み、プラス異教神の神殿娼婦と交わり多産を祈願する事をしていた!その様な行為は神が禁じている事であり、パリサイ派のユダヤ人(イエシュア信者もいる)シャバットの交わりで食卓さえも囲めない行為だから、最低限、神が教えている教えの何がダメなのかモーセの五書に書かれているこの4つだけは、神の前に罪だから理解して先ずやらないと同意して下さい!!と決めたのがエルサレム会議です。

 

そして、その時に、この様な神の前に汚れて禁じられている行為を異邦人達が理解していないし、分からないだろうけれど、

シャバットごとに会堂で、ユダヤ人からトラーを学ぶうちに分かる様になるから、彼らをユダヤ人になる儀式=割礼と呼ばれる

儀式を強要するのはやめよう!<この儀式はユダヤ人が考え付いた儀式であり、ユダヤ人になる改宗儀式をしたら、異邦人の世界との関係も絶たないとならないと言う厳しい掟だったのです。

だから自分達も負えない様な厳しいくびき=人が考えた決まりを異邦人に押し付けるのはやめてと、知恵あるパリサイ派長老が

この様な提案をしたのです。>

 

アヴラハムの割礼が廃れただの、様々にずれた解説してますが、永遠の印であるアヴラハムの割礼は現在も有効なのです。

そして、15章に何が書いてありますか?

絶対にこの引用をクリスチャンは見逃し、何が書いてあるのか

考えた事もないと思います。

 

聖書に記されている全ては、モーセの五書=それを解説する預言書、諸書に100%合意、同意してないとならないと言う基本中の基本を抜かしてはならないのです。

 

使徒15:14 神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を

負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。

15:15 預言者たちの言葉も、それと一致している。すなわち、

こう書いてある、

<預言者=預言書は、モーセの五書を100%解説し、100%

一致同意しているのです。彼らは100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書を語っているのです。タナックが塗り替えられた新しい教えなど、神が創造された世界に存在しないからです。>

15:16 『その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を

建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを立て直そう。

15:17 残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。

15:18 世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった』。

 

ここはどこの何の引用ですか?アモス9:11-12です。イエシュアが語られたペテロの宣言〜イエシュアが約束の救い主であり、

そのペテロの宣言した、この岩=大きな岩=ぺトラ=イエシュアの上に預言されている通り、神のカハール、エクレシア、群れを建て直す!と言われている事と同じ事を語っているのです。

全部繋がって同じ意味が語られているのです。ユダの家のイスラエルの家が1つに修復され、その大家族に異邦人も加えられるからです。エレミヤ31章共繋がる箇所です。

 

マタイ16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ=ペトラス=小さい石である。そして、わたしはこの岩=大きな岩=ペトラの上=イエシュアにわたしのカハール、エクレシア=

群れ=1つの家族を建てよう。<建て直す>黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 

全部、誤解した誤りの聖書解説とデイスペンセーション神学思想により誤った聖書解釈、誤解を生んだのは、その誤りの教えが

原因であり、そしてクリスチャンの世界ではパウロと言う人物を完全に誤解して、偽のパウロ像を勝手に作り上げて、パウロの書簡に対して、事実ではない解説をしているのです。

 

デイスペンセーション神学とは、どの様に聖書とは異なる思想なのか1つ1つを検証して行きたいと思います。

 

今まで異邦人の世界で、見聞きし教えられて来たデイスペンセーション神学の教えが、実はエラー、間違いだらけの単なる人の思想であり、聖書とは異なる、空想の世界の如くのものです。

しかも異教徒思想、ヘレニズム思想そのままの、歴史線上に全てを眺める思想であり、ヘブライ思想、聖書の思想の様に永遠から神が語られている内容とは全くアングルが違う思想なのです。

 

このデイスペンセーション神学思想のおかげで、神の言葉を人間が勝手に曲げて、却下、変えて、聖書とは異なる思想を教えられ集団催眠にかかったかの如く、聖書とこの神学の教えが矛盾している事にも気が付かない。聖書に書いてない事を、書いてあると思い込み信じているからです。殆どの異邦人クリスチャンがこの思想を土台に聖書を解説されてしまって来たのです。ほぼこの

デイスペンセーション神学思想から語られる、歪んだ誤りの聖書解説しか聞かされません。

 

もちろん、ある部分は聖書の事実を語るのです。子羊の贖いの血=イエシュアの業を信仰により受け取り、義とされ救われ、新しくされ罪赦されたと。これは事実です。これは信仰により受け

取る以外方法がありません。どの時代のどの人種も、神の言葉を生きたり、何かをして生贄を捧げたら受け取れる、義とされるなど、聖書にはそんな事は書いてありません。勘違いして書いてある意味を理解しないまま、違う前提で聖書を読んでいるのです。

 

贖い、救いの方法は同じ!エデンの園のアダムとハワから同じだと聖書に記されている事実に気が付いていますか?全ての人は、同じ1つの救いの方法イシュア、道は1つしか与えられていないからです。聖書の古い箇所には救い主や許しなんて書かれてない教えられていないと考えていたら、それはその人が聖書を知らない!からだと思います。

太古の人達は全て、預言者が書いたタナック〜モーセ、預言書、諸書から同じ救い贖い許しを知り、聖霊を受けていたのです。

盲点がたくさんあると気が付いて下さい。ヘブライ聖書のページのタナック〜モーセ、預言書、諸書 至るところに福音、イエシュアが書かれているのです!!!

 

だから、復活のイエシュアがタナック〜モーセ、預言書、諸書に書かれているのに、それを知らないのか?と復活の姿で現れた

ご自分の事を弟子達にタナック〜モーセ、預言書、諸書から語られ、再び解説し、諭したくだりがあるではないですか?

 

ダービーは2世紀に現れた時の異端者、マルキオンと同じ思想を

同じ様に唱えています。旧約聖書は読む必要ない。愚かですよね

神の言葉=知恵=人を守る安全な保護兜を捨てよと教える。

 

神の教えを端折る人は神の教えが理解出来ません。マルキオンは

時の異端者と呼ばれ、創世記〜マラキを旧約聖書と呼び、

”悪魔の書”とまで言ったのです。狂っているのです。

そして、ルカとパウロの書簡1、2で事足りると言いました。

こんな教えをする人は、はっきり言って聖書教師では無いです。

マルキオンは異端者と認定されていましたが、彼の思想〜旧約聖書、新約聖書と言うものが、聖書にタイトルページとして挿入され残ってしまったのです。これは、神がご自身の言葉に対して

付けた、タイトルではありません!

こんな教えを聞いて、聖書だと思う。当時、個人の手元には聖書はないし、正しい聖書教育=パウロの様に教えるヘブライ人もいないし、異邦人の世界では、2世紀以降、個人で聖書を読める訳ではないから、それぞれが勝手に勝手な事を言い出し始めた時期でもあるからです。

 

学校に行って、基準となる絶対的な教科書もなく、それぞれの

教師が勝手な教えをして、それを生徒が聞くと言うのと同じ事が異邦人の世界では起きてしまったのです。

 

神の言葉か、人の教えなのか、一体何の教えなのか、基本中の

基本さえ、教えられない、知らない人に教えられる危険が分からないとならないのです。

だから、神は最初に厳重に、神の言葉をガードする為に、1つの国民=聖別された人を選び出し、そして異教徒の世界の教えや

生き方とをはっきり区別し、混ざり合わないで、純粋に神の国の子らの生き方を教えられた通りにガードし保存する代表者を選んだのです。地の塩、世の光として。

皆が偽物の教えに混ざったら、何が本物が分からなくなるから。

 

その代表者=イスラエルが、異教徒の様に彼らと同じ生き方をしてはならない!と神に厳重に警告されたのは、簡単に混ざり物

作り物の人の教え=異教の神々の教えや習わしに染まってはならない、そうすれば、世界中の人を違う教えに導き、何が本物なのか分からなくなるからです。

神の言葉に人の教えを混ぜたら何が本物なのか、元を知る人以外は分からなくなるからです。だから人の教えと聖書の見分けができないままでいるのです。

 

聖書ではない教えを、神の教えだと公然と言い続けられてしまい聖書の事実を知ったら、その様な神の言葉に敵対する事に対して

無言ではいられなくなります。神の言葉に敵対する、人の教えを代弁して言い続ける事は罪であり、神の前には耐えられない

違反行為です。

ユダヤ人がどうして、クリスチャンが語るメシア像に抵抗感じるのか、はっきり分かります。どうして、ユダヤ人が神の教え=

トラーを捨てて、カトリックの教えを信じろと言われても絶対に抵抗しなくてはならないと考えたのか、クリアーに見えます。

 

それは、異邦人が教える教えが、聖書ではないからです。

神の言葉を生きることを捨てて生きよ?それらは、マカバイ戦争、シリア、そして1世紀のローマ帝国がやった迫害と、同じ事を言ってやったからです。

そして未来にもう一度その様な事が起きるのです。既に起きている。

神の言葉を捨てよと言う教えは、救い主=イエシュアが教える教えなどではないからです。それを異邦人は全く理解していないのです。信じたらユダヤ人をやめよ〜律法に戻るのか〜恵みを捨てる生き方をするのか〜と言う教えを聞くでしょう。

言っている人は、一体何を言っているのか、他の教えと混線しているのです。

人の教えを信じて、神の教えを捨てよと教える、それ誰の声?

ユダヤ人が抵抗するのは、タナックに記されたメシアに抵抗しているのではなく、異邦人が考え付いた偽メシア像や、神の言葉に対しての間違った思想を押し付けてくる、その聖書ではない教えに抵抗していると、気が付いた方が良いと思います。

神の言葉を捨てて、別物の偽物の教え、生き方なんて受け取れないからです。

混ぜ物=人の教えを混ぜた、神の言葉を否定する教えだから。

そんな神の言葉を塗り替える様に教える人はタナックに記されたメシアではないからです。だから人の教えを混ぜて伝えてはならないのです。神が伝える真実だけを伝える。

カトリックは、マタイ16:19を完全にを勘違いして、勝手に人が神の言葉を塗り替えて良いなどと言っていますが、その聖書解説も偽りです。この箇所はイザヤ58:5−6に記された言葉の

意味と同じですから、どう言う意味で書かれているのか別枠で

解説します。全部は人の勝手な思い込みの解釈で、異邦人の間では聖書とは違う間違った解説をし続けているのです。

 

メシアはユダヤ人であり、100%モーセの五書=父の教えを

教えて生きた人です。WWJDと言うならば、なぜイエシュアが

教えて生きたトラー=モーセの五書に反した教えをし、神の教えを放棄して、宗教の教えを生きる事に熱心になって伝えるのか

考えないとならないのです。メシア キリスト、ジーザス

イエシュアを伝えたいなら、聖書にある真実を伝えないとならない。イエシュアを救い主と信じるだけで後は人の判断で自由に生きて良いなてそんな事イエシュアは一度も教えてなどいません!

 

イエシュアは、イエシュアを愛する人は、婚姻契約=トラーに

記された大家族の愛の生き方を愛して生きる!と地上にいる間

常にそう教えて言っていたのに、クリスチャンは聖書をその様に正しく読み取らないで、わたしを愛する人はわたしの言葉を愛して生きると言うのを、モーセの五書とは違う教えを生きるのだと全く勘違いしているのです。デイスペンセーション神学の様な

教えのおかげで。

この様に書くと反感を買いますが、聖書は誤りのない完全なる

神の言葉であると言いながら、どうして聖書=神の言葉に対してのある箇所を否定した教えをしているのか、矛盾にも思わない

その矛盾に気が付いていますか?矛盾だらけなのです。ちゃんと

聖書に基づき考えていけば、デイスペンセーション神学の教理は聖書に矛盾していて、聖書ではない、単なる人の思いついた思想なのです。

聖書のどの箇所も変えて良いならば、それならばLGBTQもありで、堕胎もありで、ありとあらゆる事はその人の判断であり!と言う事を言っている事に気が付いていないのです。

神は神のこの教えは終わり!あれも無用!なんて1度も言ってないのに、パウロの書簡やイエシュアの言葉を勘違いして、デイスペンセーション神学の教えを聞いて、神の言葉を曲げている事に気が付いて無いのです。

 

こう言う事です。人間の肉には、自由、解放、新しいと言う言葉が、とってもアピールし惹かれるものなのです。

でも聖書では、神の言葉の中に生きる本当の自由しか語られていませんし、自分基準の思想を生きる=危険であり、神の言葉に基づかないなら、別の霊=サタンしかいませんが、何に導かれて

生きるのか、その基準が無くなるのです。

 

続く