日曜日は主の日?聖日?シャバットは神が与えた永遠の婚姻契約の印  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神が創造の業を完了した時、3つの神の業、行為によりこの

第七日目を聖別し、主の日=主の安息日と定めたのです。

 

1 第七日目に全ての神の業を完了し止まった、休んだ

2 神は第七日目を祝福された

3 神は第七日目を聖別された

 

再びシナイ山で神の言葉=トラーの題目=十戒を与えたとき、

神はこれら創造の最初と同じ真理を繰り返し人に言われました。 また、いかなる人間も神の聖なる唇からの指示を改訂したり、

編集したりしてはならないことも明らかにしました。これ重要!これを多くの人が神に対して違反し続けているのに、神に対してその様な違反をしているなどとも気が付いていないのです。下矢印

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

 
人が作った教え、宗教教理が神の言葉を付け足し差し引きして
良いなどと人に教えているから、神に言われていることが何か分からなくなってしまったのです。神が警告している通りに。
 
”詩篇 89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。”と言う神ご自身の言われた事を神が私達に対して変更などしない!と誓約されているのです。 
 
聖書は、神が神ご自身の宣言により、安息日=シャバットを週の7日から最初の日に変更したわけではないことを明らかにしているのです。人がなんと言おうとも。人が神の言葉をなし崩しにし、差し置き、否定し、人の教えで塗り替えるから、神が言っている事が目の前に書いてあっても、直接見て読んでもなおも、
神の言葉は終わり!無効!などと言う人の教えに変換して
別物の教えに変身させている事にも気が付けないのです。
不思議な現象です。書いてあるのにそう読み取れない。
 
イエシュアはシャバットを第七日目から第一日目に変更せよと
言いましたか?
 
イエシュアの言葉、教えによれば、トラーに記されている十戒とその他トラーに記された道徳原則、民法、儀式的その他全ての
教えは変更されるものではありません。
 神の子らは引き続き神のトラー=教えにより聖霊により導かれ続けなければならないと教えているのです。

なぜこの箇所、トラーが廃れたなどと勘違いしてるのでしょう?不思議です。そんな事書いてないのでしょう。成就と言うのは

終わりなどと言う意味ではないのですよ。

なんども書きましたが、破棄=トラーを正しく解釈して生きていない、成就=トラーを正しく解釈し生きると言う当時のラビ慣用句なのです。その知識がなくても、イエシュアがトラーを破棄するためではなく、成就するためと言うのに、トラーを破棄した

イエシュアが完全にトラーを生きて成就したから、トラー終了だ

などと言う解説は、本当にデタラメでいい加減な聖書解説なのです。こんな初歩的な読み間違いを繰り返して、イエシュアの言葉に反する教えを世間へ浸透して続けてしまっているのです。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者(モーセの五書、預言書、諸書)を廃するためにきた、と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

5:19 それだから、これら=トラーの教えの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

<小さい〜神の前に価値ない、無意味な存在と言う意味です。>
 
ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日=
第七日目にいつものように会堂にはいり、聖書=タナック=モーセの五書、預言書、諸書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、
その書を開いて、こう書いてある所を出された、
 
この箇所を読んでユダヤ人ならすぐに分かる事があります。
ユダヤ人の世界では、イエシュアがされていた様に、この当時は3年サイクルで、今は1年が主流ですが、モーセの五書を最初から最後まで毎週1〜3章と区切られた箇所の全部を読み上げ、
そしてそれに付随する預言書や諸書の箇所を読み続ける、
トラー朗読の計画表があったのです。今もありますし全世界で同じ箇所をシャバットで読み学ぶ事を毎週シャバットにしているのです。そして、この様にトラー朗読をする場合には、いきなり
ランダムな箇所から読み上げているのではくて、どの箇所を読むのか一年に渡り決まっており、誰が当番でその箇所を読むのかちゃんと割り当てられているのです。
 
イザヤ書=預言書をハフダラと言うのですが、トラーの朗読箇所に付随してその内容を解説する箇所をイエシュアが読み上げたのです。偶然ではなく、ご自分の事が記されている”メシア”に関する箇所を、偶然ではなく割り当てられた朗読当番となっていたイエシュアが読み上げたと言うのがこのルカ4:17なのです。
 
イエスは将来に目を向けて、弟子たちが真のシャバットを守る
喜びを経験し続けることを望んでおられました。 イエシュアは
未来に敵に包囲されてしまう時、それが安息日ならずに、安息日にエルサレムから逃げなくても済むように祈るよう彼らに指示しているでしょう。

安息日=日曜日などと読み違えるなら、それは日にちを間違えている!と言う事なのです。

マタイ24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日=第七日目にならないように祈れ。

24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく

今後もないような大きな患難が起るからである。

 

イエシュアはエルサレムの崩壊について話しておられたのです。この出来事は、イエスの復活からほぼ 40 年後、西暦 70 年に

起こった出来事です。ローマ帝国によるエルサレム神殿崩壊です。 イエシュアは安息日=シャバットの戒めも、他の戒めも

変更などしませんでした。これが聖書に記された神の言葉の永遠の真実なのです。

 

実際、イエシュアは裕福な若い統治者にトラー=10の言葉にある神の仰せに聞いて生きる様に指示されました。

(マタイ 19:16-22)。

 イエシュアの教えとイエシュアが示した生き方、模範から、

私たちが神の創造の意図通り、神が休まれた様に同じ様に止まり休息し、リラックスし、神と時間を過ごすために依然として

安息日=第七日目が聖別された特別な日であり、人に必要であることは明らかなのです。

日程はいつでも良いんですよ〜と言うのは、人が勝手に言っている事であると、はっきり神の教えと言葉と区別しなければならないのです。神が第七日目に止まられた様に、神が第七日目を祝福し、聖別したと言っていて、第一日目を止まり、神は第一日目を祝福し、聖別したなど1度も言いませんでした。日曜日は普段の

日!特別な日ではない、聖別された日でもない、止まる日でもない。

群のリーダー的役割であったヤコブは”10の言葉=十戒”に付いてこの様に言っています。

 

ヤコブ 2:10 なぜなら、トラー=モーセの五書をことごとく

守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を

犯したことになるからである。

2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また

「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、トラー=モーセの五書の違反者になった

ことになる。

 

医者であったルカは、この様な報告をしています。

16:13 ある安息日=シャバット=第七日目に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。

そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。

 

パウロもシャバットに関して何度も記し支持、確証しています。

ヘブル4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」
<創世記2:2>と言われており、

ヘブル4:9こういうわけで、安息日=シャバット=第七日目の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

 

使徒行伝では、使徒達は84回シャバットを行い祝った事が記されています。これらのシャバットは、イエシュア昇天以降14年以上経っている時です。シャバットを祝うとは、同時に”祭り”を

祝う事とも繋がっているのです。神の記念日レビ記23章はどれか一つだけ取り出して祝う性質の祭り、記念日ではないからです。なぜなら、神の記念日の全てはイエシュアの業、地上で実際に証明された業、これから証明されるイエシュアの再臨の預言的祭りであるからです。福音の全てを網羅している、それが神の

記念日のデザイン、性質だからです。

 

アンテオケでの2度のシャバット - (使徒 13:14, 42, 44

ピリピでの1度のシャバット - (使徒 16:12, 13)

テサロニケでの3度のシャバット- (使徒17:1, 2)

コリントでの78回のシャバット- (使徒 18:1, 4, 11)

 

福音書〜黙示録の中では、84回 シャバットが祝われた記録が
記されています。12弟子の中で最後に亡くなったヨハネは、
5つの書簡を記しました。1つはヨハネ<ヨハナン>の福音書。3つの書簡。そして最後の”黙示録”です。
ヨハネは、イエシュアの昇天以降70年後の紀元後100年辺りに亡くなりました。

ヨハネの書簡、福音書のどこにも”シャバット”=安息日が第七日目から別の日に変更になって、別の日をシャバットとして誰かが祝っていた記録は聖書には記されていません。

実際ヨハネ自身が”黙示録1:10”でこう記しています。

”1:10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、
わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

神の言葉=イエシュアによれば”主の日”とはシャバット=第七日目の事です。又はレビ記23章の神の記念日、そして神が特別な

業を歴史の中でされる日です。

神の言葉、聖書によれば日曜日=主の日、聖日ではありません。
マタイ12:8 人の子は安息日の主である」
主の日とは、聖書では、神の創造された記念日、そして神が特別な業をされる日、特別な業を地上でされる多くの日は神の記念日と重なっています。
 

聖書の記述の証拠を調査し探ると、弟子たちは誰一人神の造られ第七日目=シャバットを週の第一日目=日曜日に変更しようとした記録も、変更された記録も、第一日目を安息日=シャバット

として祝った記録は1つも記されていません!

 

福音書以降に週の第一日目に関してたったの8回しか記されていません。そして、その記述の中でただの1回も週の第一日目が

神が聖別された日の祝日である事なども書かれていないどころか、週の第一日目を主を礼拝する日として守れなどと言う示唆

さえも書かれていないのです。

1. 女が週の最初の日にイエシュアの墓に来た。マタイ28:1

2. マルコ16:1, 2さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。

3. マルコ16:9 週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえってまずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前にこの女から七つの悪霊を追い出されたことがある。

4.ルカ 23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。

5. ヨハネ20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

6. ヨハネ20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、(礼拝のためにそこに人がいたのではない。勝手な読み込みをしやすい箇所に要注意。週の始めの夕方はすなわち

第二日目の始まりでもある!)イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

 

続く