何の議論しているのか? マルコ7章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀当時は殆どのイエシュア信者はユダヤ人でした。

その人達は皆トラー=モーセの五書に熱心だ!と使徒21:20に書いてあります。1世紀イエシュアが昇天以降、徐々に神の

教え=トラーを捨てて、違う教え=西洋宗教と言う教えに移行したのだと、考えていたら聖書の事実が見えなくなります。

 

福音は最初から同じ、救いは1つの方法しかない!イエシュアの贖いの血を通してしか人は新しくされる事実を受け取る方法がない。問題点は、2000年前に地上でイエシュアが実際に処刑されるまで、救い、贖い、許しがなかったと言う異邦人の教えを聞いているから、見えないのです。

あるパスターが言っていました。旧約聖書は、頑張りましょ〜

でも新約聖書は信じるだけいいんです。恵、聖霊時代になったからです〜。これ聖書が伝える事実ではありません!!!!

 

昇天以前と以降とで、神が人との関わりや、救い贖い許しの内容性質が変わったと思っているのは、聖書の最初の75%に何が書いてあるか学ばない弊害です。その中にこそ、イエシュアが記されていて、その事実を信仰により受け取った残りの民は、昇天以降と何も変わらない同じ福音、同じ贖い救い、同じ義、同じ聖霊を内側に受けて生きてた!と言う事が、タナックに記されている記述から見えないだけなのです。

 

聖書に書いてある事を差し引きし、聖書には無い教えを付け足して、神の言葉を否定して読むから、神が伝える大事な事実の真相が隠され続けて別物の教えに変身して

行くのです。しかもイエシュア信者は皆熱心に聖書=モーセ、

預言書、諸書を調べていた!と記されています。使徒17:11

 

使徒17:11にある聖書とは、モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っているのです。タナックしかその当時は存在していない事実を念頭から離さないで下さい!

よくよく考えて行けば、真実が見えて来ます。クリスチャンの

世界で語られる様な、新しい教えの出現、中身がモーセの五書とは異なる=新しい契約の記録など聖書には記述が皆無、ゼロ!

福音書〜黙示録はタナックの短い後書き解説なのです。

タナック=聖書全体の75% 福音書〜黙示録=聖書の25%

聖書の最後の25%と言う短い箇所は新しい教えではなく、最後のまとめ!タナックに記されたことのまとめ、後書きの役割。

その箇所は、タナックに敵対相反する、神の言葉を差し引き、

無効にする教えなど1つない!イエシュア=トラー、トラー=

聖霊であると言う事実が聖書には書かれているのです。神の言葉を否定削除、イエシュア=聖霊を否定削除している行為と書いてあるのです。

キリストの律法〜恵の律法〜自由の律法=これら教えの中身の全ては、モーセの五書の教えです!神の教えを頭脳に割礼がされた新しく創造された人の実態=イエシュアの実態を内側に受けて、神のトラーを生きる事を話しているだけなのです。別物の教えが出てきたように考えますよね。こんな言葉聞いたら。本当に。

 

モーセの五書=父の教えとは違う、神の言葉を否定した別物の

新しい教えや新しい別の契約など、そんなものはこの世、神が

造られた世界には存在しないからです。裸の王様の衣装を語る事と同じです。

そして、その中でもパリサイ派は人々に信頼されていたのです。イスラエルの議会を司る役職に付くイスラエルの政治家や裁判官達は、パリサイ派の上部のトラー学者だったのです。

1世紀当時は、パリサイ派が大多数であったのです。

イエシュアもパウロも、パリサイ派の教えの流儀で、トラーを

教え、シャバットや過越、仮庵の祭りなどを祝っていたのです。すごい盲点ですよね。

 

イエシュアがたとえ話を通して、モーセの五書を解説しているでしょう。一般に大衆に向けて。それは、当時のパリサイ派の教育方法であったからです。だからイスラエルには、モーセの五書を

解説するたくさんの”たとえ話”が存在していて、皆誰でも知っているたとえ話なのです。日本人で言えば、”かちかち山”とか

”ウサギとかめ”などの話を知っているでしょう。

その中にある教訓も知っている。それと同じです。

 

イエシュアは誰でも知っているたとえ話を通して、その中に登場する人物や、物、全てモーセの五書に関連するものが書かれていて、たとえ話に登場するそれらの人物、物、出来事を聞いただけで、聴衆はイエシュアが何を意味して話しているのか理解出来たのです。そう言う背景がたとえ話にはあるのです。

イエシュアがされた”主の祈り”も同じです。これはイエシュアが勝手に考えついた祈りではなく、当時のユダヤ人なら誰でも

知っていた祈りなのです。

 

マルコ7章の議論は、あなた達の弟子は、きよくない動物をどうして食べるのですか?ではなく、イエシュアの弟子達は外から

帰って来てなぜそのまま洗わない汚い手で食べるのか?が彼らの質問、論点だったのです!詰まりユダヤ人の間にあった当時の

伝統の人が作った言い伝えの教え=手洗いの儀式をどうしてやらないの?と言う文句を付けてきたと言う下りがマルコ7章の議論なのです。

ここまでの内容でも、イエシュアとその弟子達とその場に居た

ラビ達は、トラー=モーセの五書を生きてないなどと言う話など一言もしていない、モーセの五書の中に無い彼らが作った教えの伝統のしきたり、儀式をイエシュアの弟子はどうしてやらなんだ!と言う言いがかりを付けてきた話なのです。

 

7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

ここで偽善者と書いてあり、トラーが廃れたと言う教えに照らし

合わせて、この様な図が脳内に浮かんでいるのです。

偽善者=パリサイ派=古い律法を生きる事を推奨する古い頭の

古い教えに固執する人達と、新しいキリストの教えをするイエス

との議論であ〜る〜!とクリスチャンの中では教えられて、そう

考えているのです。こう言うのを空想の読み込みと言うのです。そんな事マルコの7章では語られていません!誰もモーセの五書が古い教えだとか、廃れたとか、イエシュアご自身も絶対にそんな教えなどしません!

もし、イエシュアがモーセの五書=父の教え=トラー=婚姻契約を否定したとしたら、それこそイエシュアは偽メシア!!!!

であると言う事を人に対して言っているのだと聖書から知らないとなりません!

7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

<イエシュアがイザヤ書を引用して”人間の戒め”と言っていますが、これが伝統で語り継がれたユダヤ人が編み出した教え=

口頭トラーと呼ばれるもので、パウロが”律法の行い”と言って

いるのも、その口頭トラーに記されたユダヤ人が編み出した教えの事を話しているのです。モーセの五書=トラーの事が終わったとか、生きる必要がないなどの話は、聖書に登場する誰一人

話していない事実をはっきり捉えて理解して下さい。

 

7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

 

<このイエシュアの言葉を読んでも明らかです。神の戒めとは

モーセの五書=トラー=父の教え=婚姻契約であり、神の教えを差し置いて、人間の言い伝え=口頭トラー=律法の行い、人の

作った教えの方を尊重している!と言っています。今も同じです。西洋宗教の世界は人の教え=人間の言い伝えの方を尊重し、

人の教えを伝達して、神の言葉を差し置いて、退けて、永遠普遍の神の言葉、教えであるのに、”律法は廃れた〜終わった〜無用恵みを捨てた生き方だ〜”などと人の教えを勝手に復唱しそう

言っているだけのです。でも問題はトラーが廃れた!と言うその偽の教えの方を神の教えと異邦人が信じてしまった事なのです。そしてイエシュアはこう言われました。下矢印

 

 7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

これ現在に至るまでずっとやっているのです。1世紀後半から。

9節を読んでどう考えますか?神の戒めとは何の事を指して言っているかちゃんと把握し理解していますか?

神の戒め=イエシュアが来て伝えているモーセの五書とは違う

教えなどと考えていたら、本当に永遠の方向に的外れの矢を射ってしまいます。このイエシュアの言葉、神の言葉は終了したと

言う人々に向けられても言われる言葉であるでしょう。

人の教えを尊重し、神のトラー=教え、インストラクションを

捨てたものだ!!と。

その通りですね。言い伝えの教え=神の言葉は廃れた〜と言う

人が作った言い伝えの教えを守るために、神の戒め=トラー=はじめの愛を捨てた!否定、拒否、生きるのをやめているのです。

 

7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしば

おこなっている」。

<異邦人の世界での”言い伝え、伝統の教えとは、正に西洋教父の教え、神の言葉を否定した教え=トラー=モーセの五書は古い律法、廃れた、破棄された、無用終了=これが異邦人の世界の

今の伝統の言い伝えです。>

 

何をイエシュアが言っているのか、正直に考えてみたら良いのです。イエシュアは、モーセの五書=父の教えには無い、自分達=当時のユダヤ人が考えた教えを受け継いでその言い伝えによって神の言葉=モーセの五書=トラー=父の教え=婚姻契約=はじめの愛を無にしている!と言っているのですよ。

 

現代で言えば人の世界の教え=自分たちが受け継いだ言い伝え=神の言葉は終了した〜と言うクリスチャンの世界で教えられている伝統の教えは、神の言葉は無になったと教えているのですが、その教えは、神の言葉を差し置いて、人の創作した教えを

尊重している!と言う事と同じ事を言っているのです。

これを聖書に書いてある通りに正直に読んで、人が作った教え=伝統の教えと神の言葉の違いの矛盾に気が付かないとならないのです。

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。

 7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。(聞く耳のある者は聞くがよい)

7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。

7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ない事がわからないのか。

7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。(イエスはこのように、

どんな食物でもきよいものとされた。)

 

鍵カッコがあるものは、ギリシャ語原文には無い文章なのです。

この様に、モーセの五書は廃れたと言う思想神学を持つ人が翻訳すると、翻訳の中に自分の思想、信条を反映してしまう反則と言うものをしているのです。翻訳とは、読者は元の言語が見えない

分からない場合には、書いてある事が聖書の事実だなどと思ってしまいますが、全く違うのです!原文、原典言語に無い文章、

創作の造語を使って翻訳してしまう事を私は”翻訳トリック”と

呼んでいます。なぜなら、それは聖書の元の言葉の意味を全く

反映しないどころか聖書が語る本来の意図、意味を読者に伝える事を妨害する邪魔な覆い、人に間違った思想概念を植え付ける

つまづきの岩だからです。

19節の(イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。)

この鉤括弧の中も完全に翻訳者が勝手に入れた挿入文であり、

ギリシャ語原典にはありません!

聖書の原文に無い文章をどうして挿入する様な違反反則を行う

必要があるのですか??自分の思想を読者に刷り込むためです。

この聖書には本当は無い挿入文章の箇所を読んで、何を食べてもいいんだ!などとイエシュアが言っているではないか!と言う

証拠とし勘違いし、神の言葉を理解しない場合に大変な誤解を

招く解説をする事が出来ます。

 

毒を食べても、汚れた動物、きよくない動物を食べても大丈夫なんて話もイエシュアはしていません!こう言う事言っているのと

同じです。神がエデンの園でアダムとハワに”知識の木以外から

なんでも食べて良い!”と言ったのに、後から、知識の木含めて

全てのものを食べて良い!と言い換える事をした?そんな事神が言う訳無いのです。きよい動物=人間が食せる、きよくない動物=人間の食べ物ではない!これは永遠に変わらないデザインです。人が進化変化、動物が進化変化して創造のデザインが変わったなら別でしょうが、そんな事あり得ないからです。

 

神ははっきり未来預言を含めて、汚れた、きよくない動物を食する事を、忌み嫌う!!!忌まわしい行為!ダメ!ロー!NO!と

ずっと人に教えています。

レビ記 11:43あなたがたの身を忌むべきものとしてはならないまた、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。

11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたは
おのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。
11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

申命記14:2 あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。

<神の宮、天の祭司は、神が聖別している生き方からズレては

ならないと教えています。>

主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

14:3 忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。

 

続く