本物、元に戻り、聖書だけに戻り、1世紀のヘブライの世界、
イエシュアや使徒、パウロやユダヤ人イエシュア信者、そして
当時極少数でしたが、その中に異邦人イエシュア信者達が居た、当時の彼らの場所、時にタイムマシーンで遡り、彼らが何を生きて、何を祝っていたのか!聖書に書かれている通りに考えてみたいと思います。
クリスチャンの世界では、使徒行伝の記述は、律法から恵へ、
ユダヤからパレスチナへ、神の教えが古い律法から新しい教え=キリストの律法、自由の恵みの律法に変更になったとのだ〜と
その中身の意味を知らないまま疑いも無く、古い教えは廃れたと信じています。
そして、一般のキリスト教聖書教師はこの様に教えます。
”新約聖書ではっきりしている教えはキリストの死によって無効になったのである。
律法はもはや個人個人の上には何の権威も無いものとなったのである。“
でも、これはイエシュア=イスラエルの神が聖書に記された事実とは全く異なる人の作り出した思想なのです。聖霊=神の言葉が
語る真理、真実ではないのです。
殆どのクリスチャンはイエシュア昇天以降、1世紀当時はユダヤ教からキリスト教へと変更になる過渡期だと考えていますよね。
神の言葉は、宗教ではない、ユダヤ教でもない。
なになに教と言うのは、”人の教え”が混じったイズム=宗教であり、神の言葉は、ユダヤ教ではないのです。ユダヤ教と名付けられていますが、その教えの中には、伝統で語られている人の教えが混じっているからです。
そして、キリスト教=プロテスタントは16世紀に出現したもので
あり、カトリックは4世紀です。その様な神の言葉を曲げる、
否定する、無効とする思想は1世紀後半から、異邦人〜西洋教父
達により、聖書とは違う教えが出現してしまいました。
モーセの五書=はじめの愛から離れて、西洋思想のローマ教が
生まれる教えを編み出し続けたのは、ヘブライ聖書に馴染みのない異教徒背景出身の異邦人教師のみであり、それらの教えは神の言葉を"無効”にして、様々な違う教えを作り出して作った人造宗教なのです。
イエシュアはキリスト教やカトリックと言う宗教の教えを作り出し教えるために来られたのではないのです。
イエシュアの口からはっきりとそれを伝えているからです。
イエシュアが来たのは、トラーを破棄するためではない!
トラー=父の教え=モーセの五書=シナイ山の婚姻契約=はじめの愛を、破壊したり、無効にしたり、違う教えを伝えるために
来たのではない!成就〜神の教えを正しく解釈し、伝えどう生きるのか教えるために来た!とはっきり言っています。
マタイ5:17-18
そしてクリスチャンは、使徒行伝は、神の教えが変更される途上の記録などと考えているのです。私個人の事ですが、以前使徒には昇天以降、キリスト教と言う新しい教え=聖霊により生きる事が初めて教えられて、救い主を信じた人達がその新しい教え=古い教えとは違う教えを広めてキリスト教会と言う新しいグループ=異邦人中心のグループが出来て、バシリカなる西洋寺院に日曜日に集まって、主の日、日曜礼拝する様になった事が書かれているのかと考えていました。
でも実は聖書にはそんな事1つも書かれていないのです。自分で読んで確認したら良いのです。何が書かれていて、何が書かれていないのか分かるからです。
思い込みとはすごいもので、書かれていないのに、そう考えてしまっていたのです。そう言う事を教えられたから、そうだと思っていただけですが。そして、パウロと言う人は、モーセの五書を
否定し新しい教え=自由の恵みの聖霊のキリストの律法と言う教えをした人であると、これもとんでもなく膨らんだ空想で読み込みしていました。パウロに対して超誤解した失礼な偽教師像を
投影しているのです。
パウロが一体何を教えていたと思いますか?パウロは100%
モーセの五書=トラーしか教えてない、それが事実なのです。
パウロ自身が大金まではたいて神の宮でナジル人の請願を通してそう証明、宣言したでしょう?はっきりと。
使徒21:21ー26
イスラエルでは、シャバット=第七日目にイエシュア信者達も
ユダヤ人の会堂、しかもパリサイ派が当時大多数の主流ですから、パリサイ派の人達と一緒にトラーを変わらずに毎週聞いて
学びあい、交わりをしていたのです。パウロは生涯、パリサイ派として過ごした事実を知っていますか?そしてイスラエル=神の教えでは日曜日は、労働日の第一日目である事を忘れないで下さい。シャバットとは止まる日であり、神が創造された記念日、
これは変わってなどいないのです。日曜日は止まる日=安息日ではない、神が聖別された日ではない、永遠にない。
どうしても、慣れ親しんだ自分達の中に1900年近く定着し
恒久化した宗教の伝統や慣わしで考えているから見えないだけなのです。聖書に書いてあってもその通りに読めなくなっているのです。1世紀当時の彼ら、イスラエルに居た彼らイエシュア信者も一般のユダヤ人も、日曜日は労働日であり、私達の世界で言えば、月曜日に会社や学校休んで主の日ですとして集まると言うのと同じなのです。そんな事などあり得ないのです。
1世紀当時の諸外国でも同じです。安息日は第七日目!
キリスト教=いやカトリックと言うバシリカ寺院に日曜日に
集まり、献金集めたり、福音書〜黙示録=新約聖書を学んでいた
なんて事は事実上ありません!福音書以降は5世紀になりやっと
聖書としてまとまり、認識されたものであり、その部分は聖書の
最初の75%の後書きです。1世紀の人は特定の人しか書簡を
見たことがないのです!文盲の人も多いし、個人個人の手元に手で書き写した書簡なんて無いからです。空想の世界ではなくて、事実だけをたぐり寄せて考えれば良いのです。
ユダヤ人の世界は代々トラーを丸暗記する世界であり、トラー
や預言書など書き写す訓練と学びを受けた専門の学者=トラー
学者が存在していたのです。異邦人の世界とは全く異なる神の言葉の教育の世界。
1世紀のイエシュア信者達、ユダヤ人も異邦人も今の様なキリスト教やカトリックなる教えや記念日など誰も知らない!そう言う
時代、世界なのです。彼らユダヤ人が神の伝える新しい教えの真理に気が付かなかったからではなく、聖書には神の言葉が変更、無効、新しい教えになったなどと言う西洋宗教の教えなど1つも
書いてないからです。そして、福音は1つ、救いの方法=イエシュアも1つ!イエシュアの処刑後初めて救い、贖い、聖霊が与えられたと考えているから見えてこないだけなのです。
聖書の最初=タナックには、至る処にメシアが記され、教えられているからです。太古の人も同じイエシュアを信仰により受け取り見ずに信じる者は幸いと言われたごとく、遠い未来に同じ
メシアが来られる日をアヴラハムの様に楽しみ喜び聖霊を内側に受けて新しく創造された人として生きていた残りの民が存在していた事がタナックには書かれているのです。
異邦人イエシュア信者も、2世紀以降しばらくの間2 つの異なる日を週一度の”安息日”として祝っていた歴史があります。
なぜなら、当時はまだ異邦人でもユダヤ人と交わりを持ち続け、
ユダヤ人達からトラーを教えられていた人達がいたからです。
でも2世紀以降、異邦人はローマ帝国の迫害や処刑のために、
ユダヤ人とみなされないため、神の教え=トラーに記された
ヘブライ色が顕著な生き方から決裂し、ユダヤ人グループや
教師からも徐々に離れて行き、最後はユダヤ人とは完全決裂し、
異邦人だけのグループ、そして西洋宗教と言う聖書には無い教え=神の教えを破棄し、無効とした教えに方向転換をしてしまったのです。
だから、異邦人の世界ではヘブライ聖書ではなく、翻訳聖書、
ラテン語しか読まれないと言うか、16世紀までは印刷技術が無いので、一般の人は聖書など目にもしない、西洋教父達が教える教えを聞いてそれが聖書だと思い込んでいた、それが暗黒時代なのです。
今はほとんどのクリスチャンは、週の最初の日曜日を誠実に
守り、それが神の聖日だと信じているその理由は、キリストの
復活の記念が安息日になったのだとと信じているからです。
でもあるイエシュア信者達は同様に純粋に、聖書は7日目のみを安息日として神が伝えている事を認識し、聖書の中には日曜日が神が聖別した日であり神が日曜日を主の日として肯定して書かれている事実は聖書のどこにもないとし、その様に実践しているのです。
ここが重大ポイントなのですが、”聖書に記されている事実”と
人が編み出した宗教の教え、伝統で語り継がれ実践されている事の違いをはっきり区別する必要があります。神が伝えている事と
人が作り出した教えや記念日は神が伝えている事とは違う、
宗教が編み出した教え、記念日、実践は人間創作が由来であり、神が伝えている事は神が人に要求している生き方である!それが
神が創造された本来の人間が生きる道、姿だから!この2つの違いをはっきり区別、認識すると見えてきます。
誕生日を祝うのは、文化だからです。古代ヘブライ人が誕生日を
祝う習慣がなかったのは、それが彼らの文化の中に定着しているものではなかったからです。様々な個人の記念日は自由に祝う事が出来るのです。でも神が神の子らすべてを呼び出している特別な記念日と、個人が地域が、宗教や国が定めている記念日とには違いがあるのです。
クリスチャンは、イエシュアが昇天した日が日曜日と信じていますから、新しい聖霊時代は、復活を記念するべく日曜日が安息日に変更になったと信じているのです。その裏には、古い時代=
律法時代=頑張って神の教えを生きましょう〜と言うのは終わったと言う教えがあるからです。でもこれ酷いですよね。
神は人に生きられない事を無理に頑張らせていた、そんな意地悪で酷な神なのだとでも言うのですか?そして神が創造された記念日を認めす、捨て去ったからです。事実そうです。
昇天の前後、実は神の教えは何も変わっていません!神殿で生後の儀式をするイエシュアに出会ったシメオンの様に即座に神から伝えられていた約束のメシアであると分かった。いやノアや
アヴラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、預言者達
ダビデ、ルツ、様々な人達は同じく復活の命=イエシュアを神から直接教えられて、文字で記された神の言葉により教えられ、
同じ救い、福音を信仰により受け取り義とされて、聖霊を内側に頂いて生きていたのです。
だから、新しい教え、聖霊時代!以前とは違う!と考えているから見えないのです。何が違うのか分かりますか?使徒2章の出来事は、シャヴオート(ペンテコステ)過越の祭から7週後、7回のシャバットを経て迎える都上りの祭りであり、神の契約を受け取った事を祝う祭なのです。最初のシャヴオートでは、イスラエルと言う国民とされた全体とその中に少数の異邦人が混じって
いた、その人達に先ずこの婚姻契約が渡されました。
使徒2章は、同じ婚姻契約=トラーが今度は世界の四隅に=異邦人にも伝えられる時が来た!その幕開けである!終わりの時に
なった!その違いだけなのです。よりパワーが優れた聖霊が与えられたなどと考えているでしょう?聖霊にグレードやレベルが
あるなんてどこに書かれていますか?
神は必要な時に特別な力を与えられるだけです!全世界に神の
言葉が、み言葉がシオンから世界の四隅に出て行くには、使徒達が最後の部分の聖書=タナックに記されたメシアが来られた事実を書き記すには、聖霊の特別な力が必要だったからです。
だから以前の時代=律法時代、使徒2章以降=新しい聖霊時代などと考えていたら、聖書=神の言葉が伝える真理事実は見えない
ままになるのです。聖霊は最初から信じる者の内側に住まっている事実がタナックの至る所に書かれています!!!なぜなら人は
最初から神の霊を吹き入れて生きるものとされたから。その電源が抜けていたのがスイッチオンになるからです。聖霊=イシュア=神はご自分の造られた時や空間に何も妨げられない、永遠の
中に存在する、変わらないお方でありどの時代のどの人にも神は
アプローチできるからです。
そしてシャバット=週1度の記念日は、イエシュアが昇天された日を祝うものではない、よって神は記念日を変更しないのです。
なぜなら、代々永遠に祝われるわたしの記念日として神が人に紹介している全ての日程はレビ記23章に記されて、それは変更されないからです。神が代々永遠に祝う!と言われたらその通りに永遠に祝い、日時変更などない事を聖書から先ず理解しないとならないのです。人が勝手に変えるから、事実認識が混乱するのです。勝手に神の教えや記念日を変える事を神から禁じられています。その様な行為を神は”ヤラベアムの罪”と言っているのです。
1列王記12:27-33
聖書だけに戻り、神が神のシャバットを変えたといつ言われ、いつそんな変更があったのか聖書の記述の中にから証明出来ますか?出来ないです。そんな記録は1つも無いからです。
クリスチャンもシナイ山で与えられた婚姻契約の題目が書かれた
10の言葉(十戒と訳されていますが)を信じているでしょう?
出エジプト20 申命記5:22
十戒は、神が人類に向けて個人的に神自らが記した唯一のメッセージなのです。 それらは非常に重要であるため、神はご自身の
指で石にそれらを書き記しましたとあります。(出エジプト記31:18)。 その中の第4番目にある項目で、神は私たちに次の
ように命じています。
20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を
祝福して聖とされた。
創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。