マルコ7:1 さてパリサイ人と、あるトラー学者たちとが、
エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
<ここで”昔の人の言い伝え”とありますが、これはモーセの五書の教えではなく、人が作った教えの言い伝えです。この口頭トラーは、3世紀あたりに文字で書き記されて書物になりました。
口頭トラーに付いては、別枠で細かく解説が必要なものですが、ここにある通り、文字で記されて与えられたシナイ山での婚姻契約=トラー=モーセの五書とは異なるもので、人の解釈した神の言葉をどう生きるのか?の人が解説している様々な教えなのです。これをパウロの書簡では”律法の行い”などとも呼んでいます。伝統の教え=人の言い伝え=律法の行いは皆人が作って考えた教えの事です。人が解釈したモーセの五書の生き方に関する
解説の中には神の教えに沿う”いかに生きるか?”と言う内容で
実用的、役に立つものも入っています。しかしここでイエシュアが議論している儀式は、モーセの五書に無い、彼らの教えの事です。
神の伝える仰せでないならば、別にそれを死守する意味など
ない!と言う事なのです。
クリスチャンの間で語られる、様々に誤解されている箇所、特に
パウロの書簡の中で、パウロがアヴラハムに与えられた契約=
信仰義認の保証、印である割礼を否定している!
と読み違えているのは、神がアヴラハムを通して与えた契約の印の割礼の事をパウロが話しているのではなく、人が作った教え=伝統の言い伝え=異邦人がユダヤ人になる複雑な改宗儀式のことを、”割礼”と言う名前をつけて1世紀当時呼んでいたのです。
だからその様な知識が無い場合、誤解して読み込むのです。
同じ割礼と言う言葉でも2つの内容は全く意味の違います。
1つはアヴラハムの割礼であり、もう一つは、当時のユダヤ人が異邦人に課していたユダヤ人になる”改宗儀式”〜割礼と名付けた儀式、この2つは別物であり、その違いがはっきり理解出来ないと、パウロが何を話しているのかの論点が見えないまま、パウロがモーセの五書を否定している!と言う早合点の理解をしてしまっているのです。
クリスチャンの世界にもこの様な聖書=神の教え=トラーではない、人の作った教えが無数に神の教えの中に混在し存在しているのですが、それが何かは又の機会に書きます。>
7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、
食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
<1世紀当時のユダヤ人が作った教えは、自分達ユダヤ人コミュニテイの外の場所=市場=異邦人が商売している様な場所では
きよくない動物など、汚れたものが売られているから、それらの商売をする異邦人と又は彼らが触った物に接触しただけで自分の手が汚れると考えていたのです。これは現代でもあります。
イスラエルに居る超正統派ユダヤ教の人達など、街の中で異邦人と目も合わせない人もいます。まあこれは色々あるので、別の機会に書きます。>
7:5 そこで、パリサイ人とトラー学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
<パリサイ人とトラー学者と書いてありますが、クリスチャンの
世界では、偽善者=パリサイ派、サドカイ派と言う定番の教えが
ありますよね。でもとんでもない勘違いをしているのです。>
聖書に記されている、上記の様な人々は一部の人の事なのです。
世界中に居る日本人のある人達が、悪い事したら、全ての日本人が悪いと言う事にはならないでしょう?同じ事なのです。
あなたの群れのある人が、らしからぬ行動をするから、
その群れ全体が悪い事をしている人とは言わないでしょう。
以下書いてある通りに先入観捨てて読んで下さい。![]()
使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
国民全体に尊敬されて同時に”偽善者パリサイ人”なんてあるわけないでしょう。国民全体から尊敬されるからには、それなりの
理由があるのです。ちゃんと聖書に書いてある事実を読み取り、偽善者=パリサイ派と言う定義は捨てないとなりません。
イエシュアが語るパン種=サドカイ派のパン種、パリサイ=偽善者とは、特定の人達の話であり、パリサイ派全員の話ではない!と言う正しい理解に戻して下さい。
聖書に記されている重大な情報を正しくまず読み取る事が不可欠です。異邦人クリスチャンの世界では、聖書を最初から非聖書的な先入観の人の創作した教理=モーセの五書=律法は廃れた〜
今は必要ない〜など、神の言葉=永遠普遍と神が言う言葉を
差し置いて、そんな人教えを土台にして聖書を歪めて読む様に
最初から教えられてしまっている弊害がある!と言う事をまず
知って、聖書に書いてある意味通り忠実に読んで下さい。
国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエル。
このガマリエルはパウロのトラーの大先生である、ラバン ガマリエルなのです。どうして、なぜパリサイ派のトラー学者が尊敬されていたかと言うと、パリサイ派は人々に取って温厚であり
親切、そしてトラー=神の教えを厳しい掟の様に教えなかったからです。
どう言う事かと言うと、例えばある人は、誰かが亡くなったら
その日は喪に服すので、自分も風呂に入らないものであると決めている、心地よい靴を履かないなどと教えるとします。
でもパリサイ派のガマリエルの様な教師は、人の体をいたわるのが大事だから、今夜はあったかい風呂に入り、心地よい寝床で
寝ましょうと言うのです。
この違い、分かりますか?無意味な教え、修行の様な教えを人が作り、人に厳しい事を課する事がない。だからイエシュアはある
一部の人達に、あなた方は人に生きる事ができないことを要求して、これが伝統の言い伝えの教えの事ですが、自分たちは何もしない!と言って戒めている下りがあるでしょう。
しかも、その人達は神の教え〜トラーとは違う、人が編み出した
教えをやらせていたのです。
神の教えではない事を勝手に人に要求しない、それだから当時
パリサイ派は人々に尊敬され信頼されていた!と言う事が書いてあるのです。クリスチャンの世界で教えられる偽のイメージ
パリサイ派偽善者とは違うでしょう?
クリスチャンは、”負えないくびき”などと聞くと、即座に
古い律法〜モーセの五書!を生きる事だ〜などと誤解しますが、全く違います!
イエシュアが”わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い”と言われたのは、申命記30にある通りの事をイエシュアが
言ったからです。
30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
群れの中には色々な考えや立場を取る人も同時に居るのです。
その中でも逸脱した思考回路の取り締まり隊みたいな輩が
あなたの周りにもいるとします。そう言う人達がイエシュアに議論をふっかけて来た事が記されているから、一部のパリサイ派、サドカイ派、サドカイ派のパン種とイエシュアが話しているのを誤解しているのです。
その様な一部の人達の、モーセの五書とは逸脱した考えを人に押し付ける人達の事を、イエシュアが警告しているだけなのです。
事実使徒15章で、イスラエルの神の教え=モーセの五書に記された事を何も知らないまま、イエシュアを信じていた異邦人達、
汚れた行いを信じた後もし続けても、それが神の前に罪だとも分かっていない異邦人を、パリサイ派の長老達は、ある条件を出して温厚にも受け入れよう!としたのです。
異邦人を受け入れるに当たって、とりあえず、神の教えを何も
知らないまま、神の子に相応しくない聖別を汚す生き方をしているからそれらは絶対にやってはならないことの4つを提案したのです。
1汚れた動物を絞め殺し、2異教の神々の祭壇にその汚れた動物=豚などを捧げて食べ、3その血を飲み、4異教の神殿娼婦と
多産を請い願う儀式をするために交わる事!これだけは、イエシュア信者=イスラエルの神の大家族のメンバーとして絶対にやってはならないと言う事をまず最初に知ってやめてください!と提案したのが、エルサレム会議なのです。その後、毎週シャバットにパリサイ派の会堂でトラーを学べば、やがて神の教えが分かってくるから、寛容に待とう!と言う提案をしたのです。
使徒15:21
とんでもなくこの使徒15章の内容を勘違いして解説していますよね。クリスチャンの世界では。ユダヤ人はその様には読みません。
異邦人はこの4つだけ守れば、後は神の教えなど生きなくて良いからなどと解説しています。いや〜ここで禁じた汚れた動物も
守らないまま今もずっと食しているでしょう異邦人は。15章ではその様な、きよくない動物を食するなら、神の子らと一緒の
食卓では交われないよ!と言っているんですよ。意味を読み取ったら、ずれた考えや行動をしている事に気がつくものです。
ちゃんと聖書に書いてある内容を読み取らないとならないのです。神の前に忌み嫌われる行為を行う!そんな事イエシュアを
信じた人はしてはならない!神に対しても仲間に対しても忌まわしい行為であると言う事を、異邦人が理解していないのは、神の言葉を捨てたから=はじめの愛=モーセの五書に記された婚姻契約の中にある生き方をやめたから!と黙示録の警告に書いてある通りの事をして来たからです。
黙示録2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
<ヨハネはローマ帝国が読んでも意味が分からない隠語で話しているのです。今の世界と同じ。この言葉使ったら削除されてしまうので、仲間内で通じる言葉で動画を出したり、ブログを書くことをしていますよね最近は。それが黙示録のヨハネの隠語で書簡を書いている意味なのです。”はじめの愛”とは、モーセの五書=シナイ山で与えられた婚姻契約の事、トラーの事を話しているのです。最初の信じたあの愛の事、あの感情なんて言う事など一切ヨハネは考えてない、話していません。
ユダヤ人ならヨハネが”はじめの愛”と言ったら、シナイ山で与えられたトラーである!とはっきり理解してヨハネの黙示録を
読んだのです。どうして隠語で話しているのでしょう?
そうです。ローマ帝国は、モーセの五書=ユダヤ的な顕著な生き方をする人々を迫害処刑したからです!イエシュアを信じるから、異邦人も殺されたでしょう。>
1世紀当時のイスラエルでは、ユダヤ人はパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などその様な人々が存在していたのです。
そのグループしかないのです。イエシュアを信じた人達は、
ナザレ派と呼ばれましたが、彼らは既存のパリサイ派の群れで
集っていたのですよ。しかも、ナザレ派は、タナックに記されたメシアがイエシュアであると知っていた違いだけで、モーセの五書=トラーを周りのユダヤ人と同じ様に生きていたのです。
シャバットを祝い、新月、祭りを祝い、男の子が生まれればもちろん!割礼を施し、きよい動物を祭壇に捧げ、そして食していた。神が禁じるきよくない動物など一切食べよう、食べ物だとも考えてないのです。
当時は、パリサイ派が大多数で、その中のユダヤ人の多くがイエシュアを信じたのです。異邦人イエシュア信者なんてほんの極少の数なのです。諸外国でも同じです。ユダヤ人の群れの中に少数の異邦人が交わっていただけです。パウロの書簡を読めば分かりますが、彼らはシャバット、新月、祭りを祝い、同じ様にトラーを生きていたのです。パウロはトラーを教えに諸外国に行ったのです。
続く