神がするなかれ!と人に対して伝えて、その後実は今までの教えは無効になり、するなかれは”解禁”になりました〜!なんて神は1度も言っていません。これからも永遠にそんな嘘偽りなど神はご自分の言葉を否定して言いません。
人が勝手に神の言葉に対して言いたい放題言っているだけであることを忘れないで下さい。聖書に戻って考えれば分かります。
もし神の言葉の中身が変わると言うならば、その意味は、神に
造られた人間が変化、進化したと言う意味になるのです。犬が猫に変わり、カエルがネズミになるみたいに。神が創造された人間のデザイン、性質を神が話している〜、神の似姿に造られた人は神が聖であるから、その人達も神が伝える聖でなければならない。聖別とは、ぼんやりしていますが、ヘブライ語の聖別と言う言葉の意味は、”神の目的通り神の上に分かたれている”事です。
これは、割礼=境界線=聖別と全部同じ意味で繋がっているのです。神が伝える聖別とは、人が考える教えとは違う、この世とは境界線が敷かれている生き方である、それが聖別の本当の意味なのです
だから人間が勝手に定義した聖別は、自らきよめと書いてある
通り神の伝える生き方とは異なり、神の前にその聖別は何も意味がないものなのです。神は最初から神の言う通りにして!!!
とクリアーに人に伝えています。なぜ?神が横暴だからではなく
神が私たちの創造主〜デザイナー、設計者だからです。
そのお方が造られた人間の詳細を神が人に伝えているのに、人がそれを否定しても何も意味がないのです。人が否定しても神が創造された人間の構造は変わらない。
問題はいつも同じ。エデンの園の問題と同じ。神の言われる言葉を聞いて受け取り信じてその通りに生きるか?それとも、勝手に混ぜ物の教えを取り入れて、神の言う事とは違う事を生きるのか?本当は実にシンプルなのです。人は神の言う通りに生きたくない!と言う理由づけを見つけて、ただ自分の考えを生きたいだけなのです。それが自由、恵!などと勘違いしているのです。
恵を無駄にするとは、神の教えを生きない事であるなどと考えているから、神が伝える真実が見えなくなるのです。恵とは、受けるに値する何物もしていないのに、無償で受け取るものを恵と
ヘブライ語では意味するのです。そうです。
全ての人は、行いによらず、神の無償の代価=子羊の血は無償の譲渡で、恵を受けたのです。そして、その恵を受けた人は、その後、神の伝える教え言葉、インストラクション通りを生きる!
と神が伝えているのです。
この点をクリスチャンは多大に誤解し、自分に馴染みのない教え=律法=神の言葉を生きるのは、恵を無駄にする生き方だ!などと、意味もよく分からないまま言っているのです。
神の子らは神の子ららしく生きる。それを律法主義などと勘違いするのは、聖書を正しく読む訓練をされていない弊害なのです。
聖書に何が書かれているのか分からないまま、聖書とは違う事を教えられているからです。
しかも、ユダヤ人だけやれば良いと言う教えは、人種ごとに神は人を別種類の構造にデザインしているとでも言うのでしょうか?それ自体変な教えでしょう。イエシュアを信じるとは、これ以上
ユダヤ的な事はないことに気が付いていますか?イスラエルは
長男、イエシュアはイスラエルの大家族の長子、そのイエシュアに連なる人は皆イスラエルの大家族の一員です。イエシュアが人に神の言葉を破る様に教え、神が伝えた生き方とは違う聖別を破る生き方をしたとでも考えているのでしょうか?そうです。不適切な聖書翻訳や、間違った聖書解釈、注解を聞かされ続け、神の言葉を曲げて読み続け、永遠を一時的、暫定的と読み、7が1に
変化したなどと本当に信じていれば、聖書に目の前に書いてあっても、書かれている意味通りに読んでないので、神の言葉を誤解し続けるのです。でも実は、神の言葉が終了したと誤解、勘違いしているだけのことなのです。それは聖書ではない!
日本人もアメリカ人も同じ人間で、人種によりデザインや構造が違うのではない、皆同じなのです。
清掃動物は永遠に陸海空の清掃目的で造られた人が食するに相応しくないゴミ、糞、死骸を食べ体にウイルス、菌、寄生虫を体内にしっかり保存している、人間が食するものではない汚い動物なのです。私達神の似姿の人ではない事をそれらの動物の性質を
通しても人に教えているのです。
きよくない動物は同時に神の祭壇のコルバンとして神の前に捧げることのできない動物でもあるのです。きよい動物は神の祭壇に捧げる事が出来る動物、そして人が食するために創造された動物は、苦しまないで屠殺される構造の動物でもあります。
食するに相応しくない動物は、動脈が二本脳に繋がっていて、
古代は首を切って屠殺する場合苦しんでしまったそうです。
残酷な行為ですよね。
この食べるとは、エデンの園の神の言葉、蛇の誘惑と同じです。
エデンの園の中でこれ以外は!神が禁じた”知識の木”以外はなんでも食べて良い!と神が言われたでしょう。だから神が禁じた食べ物を敢えて食べるのは知恵のある生き方ではない事が分かる
はずなのです。他に食べれるものが山ほどたくさんあるのに、
どうして神が禁じたものを神の言葉に逆らい敢えて食べたいのか?理由は簡単。それが自分の慣れ親しんだ好みの生き方だからです。それらは異教神文化に根付いた皆が普通にする生活習慣だから。でもそれらは神の教えによれば、口には甘く腹には苦く、神の前に聖別を汚す忌まわしい行為である!と神ははっきり人に伝えています。あなたは汚れたもので身を汚してはならない。
わたしが聖であるから、あなたも聖でなければならないとはっきり伝えています。
この聖句、よくクリスチャンも引用しているでしょう?
でも、古い箇所は終わった〜と言うのです。でも福音書に記されている聖書箇所は100%モーセの五書、それに付随する預言書
諸書のみであることに気が付いて読んでいますか?
どの聖書の箇所で、どんな内容、文脈から語られている言葉なのか、福音書以降の中に引用されているトラーの原文をそのまま読んでみれば良いと思います。レビ記11章。申命記14章。
でも律法は廃れた〜と人の教えを信じる場合、自分の身を汚して神の前に忌み嫌われる行為と言われる言葉を読んでも聞いても、自分には今は無関係の教えであると認識するから、何も感じないし、無感覚状態。神の前に何が罪であるのか分からない状態になってしまっているのです。罪とは何も道徳的なことだけではないのです。聖霊の宮、神の宮、とクリスチャンも言うでしょう?
神の宮の定義の全貌はモーセの五書に記されているのです。
聖霊の宿る宮であるのに同時に汚れたきよくない動物を取り入れて食べて、きよくない生き方、聖別を破る生き方をする、
これ神の前に大矛盾な行為なのです。
申命記14:1 あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。
<異邦人でもイエシュアを通して同じ贖い、救いを受けて神のもとに取り戻されたら、誰でも主の子供なのです。>
死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。
また額の髪をそってはならない。
14:2 あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。
主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、
自分の宝の民とされた。
14:3 忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。
人の生きる事全部、衣食住も網羅して神は人にどの様に生きるのか、教えています。親も子供に教えるでしょう。同じ事を。
生きるとはそんな複雑な事ではないからです。
ズレ〜神のデザインした通りから外れること=的外れ=罪!で
ある。神のデザイン通りの生き方ではない!それらは人を破壊する行為でもある、周りにも害をもたらす行為である!と教えているのです。現にその通りです。アダムとハワがした事で何が起きましたか?彼らの行為=神の言葉を無視した行為はその後の
全人類に何をもたらしましたか?
一人の人は、全ての人と繋がって影響するのは、人は一人の人
=アダム=土=アダマから神に造られた事実があるからです。
アダムとハワが神が禁じられたものを食したから、確実に全人類に対して死を招いてしまったのでしょう。そしてその結末が今日の人々に至るまでずっと影響しているのです。食べると言う行為が破壊が忍びこんできた。たったのそれだけ?
神に禁じられた物を食べただけで?嘘〜?
そして、神に言われた”食べ物ではない!”と言うきよくない動物を食して、今まで環境になかった、ウイルス、菌を人の体を通して外へ撒き散らして、実際に肉体的にも周りの人を破壊することになったのです。それが疫病、死を実際にもたらした。
聖別とは、道徳的な教え以外で、イスラエルの神の言葉を理解しない人には全く通じない神の教えです。それが何?て事くらいにしか思えないからです。
そして、それらの食べ物で神の宮である人、聖霊が住まう
身を汚してはならないと神に言われても、今は関係ないさと
ふと待てよ?神は何を言っているんだろう?と立ち止まり考える機会も自分に与えないまま、神の教えを突っぱねる場合には、
神の教えは当然の如く理解など出来ない、分からないままになるのです。でもこの食べ物の教えの中で深い真理を神は様々に教えているのです。食べるとは人が生きる基本です。
何を食べて、何を食べないか?何を取り入れ、何を取り入れては
ダメなのか?神の言われる通りを物理的にも霊的、精神的、全ての領域に於いて吟味して注意深く生きよ!と教えているのです。
そして天から降るマナ、命のパンとイエシュアが言われた、人は神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより生きる!と言われているのに、
まさか、トラー=父の教え=モーセの五書の教えが自分に関係
あるとも考えもしないのです。イエシュアは100%トラーを考え、語り、教え、生きたお方であることに気が付いていますか?
イエシュアは父の教え以外しない!と言われたのは、モーセの
五書に記されたこと以外の教えなどしない!と言っているのです。
しかもイエシュアが神のトラーを生きたからもう終了!と言う、本当にそれ変な教えです。お手本を示すなら、人が生きることを教えるはずでしょう。もう要らない教えを生きて教えたとでも
言うのですか?本当に人の教えは考えれば考えるほど神が伝えている言葉=聖書と全く矛盾する不思議な教えです。
マルコ7:19やローマ 14:2-3 に書かれた事をクリスチャンの世界では本当に誤解、勘違いして解説していますが、大原則、
1世紀のイエシュアや使徒や当時のユダヤ人の中で、食べ物と
言ったらレビ記11章で教えられている”人の食べ物”の事であり神が禁じた食べ物を食べ物であると言う認識もないし、それらの
汚れたものを食するのは、神の前に忌まわしい行為であると、
神の言葉から皆理解していた人達の事が聖書には記されているのです。きよくない動物も昇天以降は、食べて良いなんて話は
1つもしていないのです。もう一つ勘違いしている箇所、なんでも食べて良いと言う幻をペテロが与えられた!などと勘違いして解説がされている箇所が使徒10:10−35です。
これは又別の時に、まとめて書きます。食規定が変わったと
クリスチャンが解説する箇所の全部、本当は何が書かれているのか再検証すれば事実が見えます。とにかく、神は神の言葉を否定し矛盾し、変化、進化、変更、削除、付け足しすると言う非聖書的な前提を土台にしながら聖書を考え続けるから、福音書以降は
モーセの五書とは別の教え=自由、恵、キリスト、聖霊の律法になったなどと考えているのです。メシア昇天以降、神の言葉は
1つも変わってなどいません!そんな教えを異邦人が編み出して、伝え続けたから、今その様な思考回路で聖書=神の言葉の方を曲げた創作の教えが語られてしまっているのです。
聖書に登場する1世紀の人達、当時のイエシュア信者達は、
現代の異邦人クリスチャンの様に、きよくない動物を食するなんて1度も思いつかない、考えつかないし、その様な事をしようなどとも実際していなかったのです。昇天以降、神殿が存在していて、パウロがナジル人の請願を神殿で行った時、豚を神の祭壇に捧げたのだと考えますか?神の祭りの時に、きよくない動物が
神殿の祭壇で捧げられたのですか?そんな事天地がひっくり返ってもあり得ない事なのです。イエシュア昇天以降、神殿が消えて
動物のコルバンも祭壇に捧げられるのが終了したなどと考えていたら事実が見えなくなります。
続く