聖書の中には現代の様な西洋宗教ローマ教、カトリックや
プロテスタントと言う宗教団体の存在や、その宗教の教えや記念日などが記されていません。
使徒やパウロの書簡に記されている内容も、モーセの五書を否定したメシアが来られる以前は聞いたこともないトラーとは違う
新しい別の教え、現代の様な西洋宗教の教えなども全く無い。
イシュア信者達が日曜礼拝、イースター、クリスマスを祝った事なども聖書には1つも記されていません。
ヘブライは西洋、ローマではないのです。西洋宗教画で聖書に
登場する使徒が聖人にまつりあげられたり、それならば、
パウロが言う様に、私達イエシュアにある人全てが”聖徒”!!!
女神同様に礼拝されるマリア、預言者やイエシュアの頭の上に
輪っかが乗っている絵画があります。当時文盲の人が多い、しかも印刷機もないから書物など読まない。その人達に分かる様に
宗教画を描いたのです。でもそれをユダヤ人が見るとどう読み取ると思いますか?西洋宗教の神は、女の神がいて、鳩までいて
そして、太陽神のシンボルが乗っていると見るのです。
西洋〜異教神〜太陽神シンボルが絵画に挿入されているからです。
ヘブライが西洋ローマに変身させられて、ユダヤ人のシナゴーグがバシリカ(異教の寺)に変身したのは、2世紀以降の事なのです。そこにはユダヤ人は行かない、異邦人信者のみです!
1世紀、イスラエルや諸外国では教会と言う場所にイエシュア
信者達は日曜日に集まり、モーセの五書とは違う新しい教えを
していたと考えていませんか?でも、使徒行伝に記されている
内容、それ以降の書簡には、モーセの五書を教え、シャバットや
新月、過越や仮庵を祝った事しか書かれていないのです。
1世紀のイエシュア信者達は、ユダヤ人のシナゴーグで、シャバットごとに読み上げられるトラーを一緒に集い聞いたのです。
交わりは、全てユダヤ人のグループの中で行われたのです。
福音は最初から同じ1つ!神の業を信仰により受け取り新しく
生まれ変わる信仰義認も最初から同じ!
神の記念日を変えたのは、何も異邦人だけではありません。
人の犯す罪は、聖書に記されていて歴史の中で繰り返されているものなのです。
実際に分かりやすい具体例では、主の日は日曜日である!
これ聖書に記された教えではないのです。神のシャバット=週一度の聖日=主の日は、第七日目!これを第一日目!としたのは、
太陽神信仰が土台である異邦人、太陽の日、皇帝の日〜日曜日。
土着宗教の一般市民、ローマ帝国拡大の為に、市民に信奉支持
される様な宗教を国の宗教としたのが4世紀のローマ皇帝、
コンスタンチヌス。
西洋教父達が勝手に神の言葉を否定して自分たちの考える日を
聖日、主の日としたのです。
これと同じ罪をヤラブアムがやっており、それをヤラブアムの罪と読んで警告している事がずっと記されているでしょう。
1列王記 12:28-33そこには何が書かれていますか?
高き所の礼拝、混ぜ物の礼拝、神の言われた事ではない事を
混ぜる礼拝の事です。神が最も忌み嫌う、姦淫の罪と言われるのが混ぜ物の礼拝=高き所の礼拝なのです。
ヤラベアムは、どんな罪を神の前に犯しましたか?
1 2つの金の子牛を作りこれを『イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。
などと言っています。シナイ山の麓でイスラエルがやった
エジプトの習わしを混ぜて金の子牛を作り、そして神の祭りを
してイスラエルの神を礼拝した罪が繰り返されています。
罪は伝染し繰り返されるのです。
2 ベテルとダンにその子牛を設置 詰まりユダ=エルサレムにある神殿とは違う2つの場所に祭壇を設置。
3 レビ族ではない子孫を勝手に祭司に任命し
4 ユダで行う祭り(第7の月の15日=仮庵です)を
日程を変えて第8月の15日に変更!!!これを西洋宗教は日程だけでなく、神の祭りの中身自体を全部変えたのです。
5 ベテルの高き所の祭壇でレビ族ではない祭司により、
ヤラベアムが作った金の牛に対して犠牲を捧げた。
8月15日に変更した仮庵の祭りは、ヤラベアムが勝手に考えついた月〜日程であったとあります。それやってますよね。勝手に考えついた祭の数々。人造宗教はずっとこれをしています。
シャバットを、第七日目から第一日に人が変更。他の神の記念日
神が呼び出された聖日は終了と決めた。神は神のシャバット
呼び出し日は、婚姻関係の中にある”印”〜見に見える印である結婚指輪でありその日は人が思いついた日ではなく、神が指定した日と聖書には書かれているのです。ヤロベアム〜自分で思いついた日に神の記念日を変更。
これはヤラベアムの罪と神が言う同じ内容と全く同じです。
神が伝えてもない事を人間が勝手に考えて、神が伝えている事を
退けて行い続けて、それで神が喜ぶと考える。
自分で勝手に設置した祭壇に香を焚いたとあります。
タナック=神の教え=聖書の創世記からマラキを今も有効な変わらない永遠普遍の神の教え、言葉、契約である!と気がつかない場合には、神が伝えている罪が何かが見えなくなります。
神がイスラエルを代表として教えている内容は全て神の民に加わる異邦人に対しても同じ教えであるのです。
そして、この様に神の言葉を分断したり、削除したり、その様な
思想を取り除かないと、神の伝える教えはまっすぐには伝わらず曲がったまま変形し、創作の教えが出現し続けるのです。
パウロが諸外国で教えた事も100%モーセの五書です!
1コリント4章を読んでも、そこに記されている内容は、過越の祭りを祝う心構えが書かれています。その中で教えられている
”種無しパン”=マッツアを食べて”要らないものがそぎ落とされた”ハメッツ〜パン種が無い状態にされた復活の命を受けた事実通りで過越の祭りを祝いなさいとパウロがコリントの人に教えている事が記されています。
過越の祭の晩餐に関して1コリント5:6−8 11:20-29
その箇所には普段の日の集まりの話をしているのではなく、
過越の祭の晩餐の話であることは明らかです。
1世紀当時の人々もイエシュアが来られる以前と同様に、シャバットを主の日=聖日として第七日目に祝い、新月や、過越、種無しパン、初穂、シャヴオートやショファー、大贖罪日、仮庵を
祝い、イエシュアが教えられた同じ教え=トラー=モーセの五書=婚姻契約を教えて生きていた記録しか聖書には記されていないのです。
日本の歴史の中にも、いつの時からか旧正月を祝わず新正月を
祝う様になりました。どうして?どうして変わったの?明治維新以降?それは神の教えではないからどうでも良い事なのですが、
異邦人が2世紀以降神の教えや、神の記念日を変えたから、
今の様な教えや記念日、しきたりが異邦人クリスチャンの中に
伝統で定着して実践されているだけなのです。神がそうされたのではない!でも神の教えや記念日とは違うものなのなのです。
聖書には西洋宗教が作った教えや記念日は書かれていません。
それらは2世紀以降、異邦人達がイスラエルの神のオリジナルの教えや記念日を終了させて、独自に編み出した教えや記念日です。神がオリジナルに創作された記念日を却下し、人が作った記念日に取り替えたのです。人が作った記念日に変更しイスラエルの神が紹介している神が創造された記念日ではないからです。
神の記念日の全てが記されているのはレビ記23章、そこに
神の記念日の日程、祝い方などが全部記されています。
シンプルで永遠普遍の神の口から伝えられた事実なのです。
1世紀は日曜礼拝や、イースター、クリスマスは聖書に登場する人たちは誰一人として知らないし祝ってもいませんでした。
イスラエルの神ではなく、初代西洋教父達が、神のトラー=父の教え=イシュアが教えていたモーセの五書の教えを終わり!としたのです。イスラエルの神はそれを禁じているのです!神の言葉に付け足し差し引きするなかれ!とはっきり記されているし、
イシュアも同じトラーの警告をしました。マタイ5:17−19
しかも福音書以降に書かれている内容はモーセの五書の抜粋のみであり、聖書にはどこにもモーセの五書を否定、終了したなどと言う記述は無い、その事実を一体どう説明するのでしょうか?
更に福音書以降には、トラーを熱心に生きていたイシュア信者達〜使徒21の記録があり、パウロも100%トラーを支持し
生きている表明を神殿の儀式で、パウロはトラーを否定し、割礼を禁じる教えをしているなどの巷の噂から、それが根拠も無い嘘であると言う身の潔白を晴らしすためにナジル人の請願を神殿で動物のコルバンを捧げてしたと記されているのです。その意味は、パウロは100%トラーに忠実に生きていると言う証明を
公にした事実が記されているのです。
聖書の記述に照らし合わせたら、使徒行伝が、神の教えが変化する過渡期の教えが記されているなどと言う、嘘フェーク情報で
ある事はすぐに分かります。
メシアの処刑、昇天で、初めて贖い救いの教え〜福音が伝えられたと思い込んでいるから事実が見えないのです。太古からずっと
神は様々な方法を通して、預言書〜聖書に記された事、神殿の中で実際に体験的にイエシュアの贖いの血=子羊の血の意味を
教え続けて来たのです。同じ福音、同じ1つの方法〜救い〜イエシュアしか存在していないからです。
1世紀ユダヤ人イエシュア信者と少数の異邦人イエシュア信者、そしてメシア イエシュアを知らないユダヤ人達、彼らが生きていたのは、モーセの五書、祝っていた本物の主の日、聖日は、
シャバット、新月、春の祭り〜過越や秋の祭り〜仮庵の祭りだけだからです。1世紀のイエシュア信者達ユダヤ人、少数の異邦人はユダヤ人の会堂、グループ〜主にパリサイ派のグループに一緒に集っていたのです。パリサイ派の長老達が使徒15章でトラーを知らない異邦人信者達をどう仲間に受け入れるのかの、
取り敢えずの対処を考えたのがエルサレム会議として知られている事なのです。その提案は、パリサイ派の長老達でされたものなのです。
パリサイ派〜偽善者などと、とんでもない勘違いを教えられていますが、パリサイ派は当時庶民から信頼され尊敬されていた存在です。どのグループに属していても中には逸脱した考えを持つ人達が存在していました。特に”律法の行い” ”先祖の伝統の教え”と
言われる口頭トラーを実践するユダヤ人達がいたのです。
その少数の人とイエシュアが論議している事だけを取り出して、
全てのパリサイ派〜偽善者などと勝手に空想しているのです。
それならば、一部の日本人が海外で悪いことをしたら、全ての
日本人〜悪者とされてしまいます。
使徒5:43 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
5:35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、
1つ1つ誤解を解いて考えれば見えます。モーセの五書ではない、ユダヤ人の教え=口頭トラーの中の1つがエルサレム会議の中で語られた”割礼を施し”とあるのがそれです。
これはアヴラハムの割礼の話ではなく”ユダヤ人になる改宗儀式”
の事です。そして彼ら新参者に、トラー〜神の教えの全てを直ぐに理解せよと言うそんな要求は神の教えを知らない異邦人にはいきなり無理難題でしょう!神の言葉を全く知らないのだから、
少しずつシャバットでユダヤ人の仲間達とトラーを学べばいずれ神の教えが徐々に分かって来るから、猶予を与えて、取り敢えず絶対にやってはいけない事だけ理解してもらおう!
異教の神々の神殿で動物を絞め殺し汚れた動物を食べ、その血も食べ、異教の神殿娼婦と交わる、その様な事だけは絶対ダメだと取り敢えずユダヤ人の交わりに加わる上でわきまえてもらおう!そうではないと、汚れた行為〜神が禁じることを持ち込んだまま、ユダヤ人の交わりには異邦人を入れる事が出来ないからと
それだけをまず最初にしっかり理解してもらって取り敢えず、
仲間に入れよう!と言う提案をパリサイ派の長老達が打ち出してくれたのがエルサレム会議の内容なのです。
なんと言う寛容で知恵深い対処なのでしょうか!その様な記述の内容を正しく理解しないまま、”割礼は要らない!不要!異邦人は4つの教えだけ守れば後は神の言葉は不必要と書いてあるではないか?”などの浅はかな読み方をしたら、何がここで語られたのか理解出来ないまま、誤解し続けます。
使徒15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセのトラーを守らせるべきである」と主張した。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。
15:21 古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。
続く