神の教えや言葉のどの部分でも、破棄する、終了、捨てると言う事を教える人間の行為は、神が人に与えた鎧兜に自ら穴を開けて人を危険にさらす事を教える行為です。
LGBTQ法案も、神の言葉を破棄した、人を危険にさらす行為を招くそのものです。ローマ帝国が崩壊した理由は、LGBTQの内部崩壊、人を汚す、破壊する行為であり、命を物理的にも霊的にも
生み出さない神の目には死に匹敵する行為。
神の言葉は完全、神の言葉=聖書は聖霊により記されているのだから、神の言葉を大事にして生きましょう言いながら、その一方で今は恵の聖霊時代だから神の言葉を実際には生きなくて良い
それらは寓話、霊的な教えと言う重大な矛盾思想を考え直した方がいいのです。
ちゃんと神の言葉に基づき考えていくとその矛盾に耐えられなくなります。一体その人が作った教えって神に対して何を言って
いるのだろう?と。
その理由づけは、大元が神の言葉は縛り、呪い、律法、それから
解放するためにもメシアが来た!などと言う聖書にはない、西洋人の教えを信じている、その妨害のつまずきの岩が先ず存在しているのです。その教えを信じる場合、ヨハネが福音書の冒頭で
語る、神=言葉=イエシュアと言う意味をまるで理解していない事によるのです。神の言葉が変化するなら神も変化し、神の言葉が廃れるならイシュアも廃れます!と言う事になります。
律法と恵、怒りの神と恵の神などと、クリスチャンの世界では
でっち上げられた神学に基づき、神の言葉同士、神ご自身を対立させる教えが出来上がってしまったのです。
この翻訳上の問題、神の言葉を”律法”と訳したズレた概念、意識を植え付けられてしまい、多くのクリスチャンのサークルの間ででっち上げられた神学上の対立が出来上がってしまったのです。
キリストが来られたから、恵が人生の規定としての”律法”と
入れ替わったのであ〜ると教えているのが一般の異邦人クリスチャンの世界で教えられている事です。
さらに拍車をかける様にアメリカの神学校での定番の教科書に
その様な教えがされていて、皆がその異邦人が作った神学、
神の言葉を前と後ろを対立させる教えをがっちりしっかり根深く浸透させてしまったのです。聖書には書いてもない事を教えているのです。
この神の言葉同士を対立させる教えは、“律法対恵み”、又は同じ様な形態で呼ばれるものです。
これってウルトラマン家族の中での仲間割れ、敵である怪獣達を撃退するのにウルトラマン家族が一丸となっていたのが、いつの間にか家族内分裂、仲間割れ、家族間で攻撃し合う事になってしまったと言うのと同じです。
悪霊が悪霊を追い出せない!と言ってるのに、どうして神が
神の言葉=聖霊を撃退する様な教えをしているのか、不思議に
思って聖書だけに戻り考え直さないとならないのです。
神の言葉同士を、最初の75%と後の25%をある神学者は、
あたかも2つがお互いに相反するものとして、“恵み”の概念に対して”トラー”=律法と言い挑ませているのです。
これは次の様な供述の様に、問題ある神学的形態であるものなのです。
“キリストが来られて、恵みが人生の規定としての律法と取って変わった。“と。この様な教えを聞いていますよね。普通に。
このタイプの宣言は、多くの信者達にトラーに反対させる意識を与えた影響は絶大的な効果があったのです。現に皆が口を
揃えて同じ事を言い、”律法に戻るのか〜”などと言っているのです。
確かにもしトラー=神の言葉が、神の恵みに反するものだったら、それでは多分上記の宣言は真実と言う事になるでしょう。
でもトラー=神の言葉、教えは、神の恵みに反するものではないのです。
もしトラーに対して“律法”と言う、本来の意味に反した言葉を
“教え”と言うトラーに対する正しく適切な定義に人々の理解が
しっかりと根付いたら、上記した様なものすごく不適切で残念な表現と誤訳、そしてトラーは恵みに反しているなどと言うその様性質の文献ではないと簡単に気が付く事が出来るのです。
端的に言うと、トラー=神の言葉、教えは神の恵みに反したものではないのです。メシアが地上に来るまでの仮の教えや、一時的で後から無効になる様な教えでもないのです。
むしろトラーは恵みそのものの実態を教えているものなのです。
トラーは人が生きる詳細が書かれた完全版でもあるのです。
そしてトラーそれ自身が神の恵みを表現しているそのものなのです。本物の恵みに対する敵は神の言葉を誤ったアプローチで
取り扱う“律法主義”であり、神の教え=トラー自身ではないのです。
この部分をクリスチャンの世界では全く誤解し混同しているのです。
そして、恵みと律法、怒りの神と恵みの神、怒りの時代と恵みの
聖霊時代などと勝手な解説をしているのです。
神は永遠から永遠に恵みの神であり、許しに富、憐れみに富
許し富、愛の神!と紹介している事と矛盾した教えである!と
聖書に照らし合わせればクリアーに真実が書かれています。
そして異邦人の世界では、2世紀以降から、道徳的な教え以外は自分の自由選択で神の言葉を選り分けて生きると教えられているのです。
でも、神の言葉は、モラル=道徳、民法、そして神の子らの聖別を表す教えを分解して考えられない性質のものである!と理解しないとならないのです。全部で丸ごと!と最初から教えられているでしょう。イエシュアもトラー=モーセを通して与えられた父の教え=婚姻契約のどの箇所でも違反するならそれは父の教えは丸ごとで繋がっているから全体を違反したことになる!と言っているではないのですか?
シャバットを破る事は、モラル?民放?聖別に関しての違反?
全部にかかっているのです。なぜならシャバットを破る行為は死に匹敵すると神は人に教えているのです。その教えは道徳ではないならどうして死に匹敵するのでしょう?汚れたきよくない
清掃動物を食する事は、どうして聖別を破る事であると教えているのでしょうか?その血を食べるものは絶たれる〜仲間から外されると書いてあるのです。疫病を生み出す同時に聖別を破壊し
汚す神が最も忌み嫌う行為だからです。
神の教える教えの意味、真髄がそれを聞くその個人には通じてないから、神の言う意味が理解出来ないだけなのです。
神の教えを分解する思想は、人間の体のどれかの部分を指して
これは要らない、あれも不要と言っている、DNAを破壊している行為なのです。不具合が生じる。偽物と混じる。シャロームとは欠けが無い状態を表す言葉です。
神の言葉は全部揃って丸ごと、シャロームの状態になるのです。
私達神の子らが住まう天の現実が地上になる場所〜聖別された
生き方の中に住まう。神の中に実は住んでいるのに、その安全地帯を囲むフェンス=神の言葉を破壊すると言う事は、神の中に住まう安全、聖別を破壊されてしまう行為なのです。
境界線を破壊する〜聖別を破壊する行為だからです。
神の子らの生き方に合わない、相応しくない、反する生き方をしてもそれに全く気が付けなくなるのです。
神はモーセにモーセが見せられた天にある神の家そしてその神の家の建築の詳細〜神が言われた通りそっくりそのまま天にある神の家、神=言葉通りに建てなさいと言いました。神が言われた
通りの家でなければ、それは別物だからです。そして”聖徒達も
神の宮”=神の臨在が住まう宮なのです。だからその中には神の
性質にそぐわないものを物理的にも霊的にも頭脳にもどんな要素も取り入れる事は出来ない!クリスチャンも信じる人は天の祭司、神の宮と言うでしょう。では天の祭司、神の宮の定義の詳細を知らないとならないのです。キリスト?そうです。イエシュア=トラーなのです。トラーに神の宮、天の祭司の定義が記されているからです。神の宮、祭壇の上にはきよい動物しか捧げる事
は出来ない、それらを皆で食する事は出来る。汚れた動物は
神の宮〜聖別された人の体にも取り入れてはならない!と神が
教えています。
神の家、宮=神の言葉で造られている。人=神の言葉により造られている。事実を繋げて考える。私達は神の言葉で造られている。私達の成り立ち、DNA=神の言葉。神の性質に似せられている=神の言葉で語られる通りの性質に造られている。
イスラエルと境界線が敷かれている防御フェンスをハマス=破壊攻撃、悪が侵入し攻撃して来た様に、神の言葉を無効にすると
言う思想、行為は、安全網を自ら破壊する行為である事とは全く気がつかないまま、神は太古には面倒で厳しい、面倒な教えを
与えて、そしてメシアが来たから、難しくややこしい神の言葉を生きる事から解放されたのだ〜などと、神の伝える神の言葉が
何かに反するとんでもなくトンチンカンな事を言いながら、
神の言葉を曲げて理解をしていると言う事なのです。
大体神の麗しい教え、言葉を”面倒” ”律法” ”厳しい掟” ”するしないリスト” ”無用で一時的”と言う思考回路は、神と隔たりの中に居る状態に陥っているのです。夫とは物理的には一緒に居るけど夫の考えている事、言う事を知ろうとも聞こうともしない関係は、自分よがりの一方通行な関係です。人の言う事聞いてよ〜と
良く言いますよね。それは大事な事だからです。
神=言葉、同様でありその麗しさが見えない人が言う発言〜
律法に戻るのか〜と言う事だからです。聖書を読めば全く違う、彼ら預言者、聖書著者達が神の言葉を慕い、その麗しさを賛美しこよなくトラーを愛して生きれる事を感嘆して書かれているのに気が付きませんか?神の言葉を律法と言うならば、詩篇も箴言も律法となります。詩篇や箴言はトラーに記された知恵をどの様に実際に生きるのかの教えが書かれているからです。
律法と言う不適切極まりない不具合翻訳を全部頭から外して消して、神の言葉は”トラー”=教え、インストラクションと神が
伝えているヘブライ語で考え直す、正しく考える必要があります!
この”神の教えが厳しい律法、面倒”と異邦人は考えると言う事を
ユダヤ人が何と見ていると思いますか?2012年に初めて
イスラエルに行った時、私の教師でもある友人がエルサレムを
他の二人の海外から来ている人達と共に案内してくれて、エルサレムの神殿の広場に座って休んでいる時に色々話してくれたました。
”神の言葉を、面倒、厳しい、律法”その様にユダヤ人は考えない。なんで神の麗しい言葉が厳しい、面倒で無効になった律法
なんて言うのか、その意識からして神の教えや意識からずれている証拠でしょう。”と。
神の言葉は人を生かす、人の道を照らす光=イエシュアであり、
蜜の様に腹に甘く、麗しいと書いてる、それとは真逆の意識を
異邦人の世界では、神の言葉に対して持たされているのです。
大体”愛である、愛の生き方が何かを語る神の言葉”を厳しいおきて、するしないリストの律法!それを与えたのは過去は怒りの神であり途中で恵みの神に変身した神!と言う異邦人の中に植え付けられた教えの意識こそが、聖霊から出たものではなく、肉の目から見た異邦人思想の聖書概念であると全く気が付かないまま
1900年近くもその様なひどく破壊的で残念な教えがイエシュアを信じる異邦人の口、学者達から語られ続けてしまっているのです。
神からのラブレターと本気でそう考えて言うならば、聖書は最初から最後まで完全版として、手つかずで調和し、互いに相反する教えなど書かれていないと言う事実をまず、知らないとならないのです。最初の部分と最後の部分は同じ内容!!!しか書いてない。最後の部分がより優れた教えでもない。同じ事しか書かれていない。
キリストの到来により律法の効力は無くなった、律法から恵へと以降し、新しい教えの時代になったなどと教えられているのです。
しかも、使徒行伝は、教えが律法から恵に以降する過渡期の
途上の記録であり、神の教えは律法から恵みの違うものになったと言っていますが、それは聖書に記された事実では10000%
天地がひっくり返ってもあり得ない不真実な記述です。
先ず考えて下さい。1世紀福音書以降に記されている人々は、
ほぼほぼユダヤ人のイエシュア信者であり、少数の異邦人イエシュア信者しかいませんでした。パウロが諸外国に行ったのは、
そこには、既存のユダヤ人のシナゴーグが存在していて、そこに
異邦人が参加していたのです。
詰まり、最初から異邦人だけのグループなどはなかったのです。
異邦人だけで、しかもモーセの五書=トラー=神の教えを捨てて、人の教えが混ざったローマ西洋宗教の教えを生きる事に乗り換えた異邦人達、ユダヤ人達と完全決裂してその様な方向に走ったのは、バルコクバの乱の後の事なのです。ローマ帝国の迫害に
耐えられなくなり、ヘブライ聖書の教え=ユダヤ人が生きる教えと完全決別した!!!異邦人それが歴史の事実であり、神が歴史の途中で律法から恵へ、律法を捨てる恵みの教えを与えたからではありません。そう言う人が作った教え、フェーク情報を聖書学者の口から伝えられ続けて、教科書としても記され、教えられてしまった。進化論と同じなのです。
それが定番の教えになり非常識、あり得ない事、聖書に基づいたら神の言葉に反する事を教えられていても、それが聖書の事実だと思ってしまうのです。神の言葉の進化論が教えられているのです。異邦人の世界では。
続く