異邦人クリスチャンの世界で誤解されている、混同して理解している教えが多々あります。信じるだけでいいのです!
行いは関係ありません!そうです。義とされる事を行いで獲得
しようとする思考回路、行動はずれています!と言う事です。
人が義とされる、神が永遠の中から命の代価を払い、イエシュアの贖いの血で買い戻した事実を人は行いや努力でその実態を決して受け取る事は出来ないと言った方が分かります。
義とされる事を行動や行いで受け取ることは不可能です!と言うべきです。
行いは関係ない〜と言う時に、信じて義とされたら、神の言葉を
生きる必要はなくなったので、聖霊により生きましょうと
それらしく聞こえる様で実は意味が不明な解説をしているのです。
聖霊=言葉であると聖書に記されている事実を知っていますか?
神=言葉=聖霊=イエシュアは一体である神が伝える事実を知っていますか?
神の言葉を生きることは、聖霊そのものの実態を生きると言うことであることを知っていますか?生きることはキリスト=キリストイエシュアの実態を生きる=トラーに記された神の性質を
生きる!と解説しているのです。
聖霊は昇天以降ある部分は壊死して機能不可になったとでも考えているのでしょうか?
イエシュアがトラーのどの部分でも違反するとは、全体を違反しているのと同じ!と言われた意味を理解していますか?
神の言葉は、体丸ごとと同じ、異邦人が解説する様に分解など
出来ません!!!
義とされる事は行いにはよらず、信仰による。神に義とされ
新しくされた人は、神の言葉を生きる!と神が教えているのです。これ混同してはならないのです。
そして、古代のユダヤ人は行いにより義とされる事を神から強いられていたなどと誤解しているのです。まさか〜!!!そんな事
聖書の中には記されてさえもいません!聖書を誤解して読んでいる、特にレビ記など誤解した前提〜動物の血で仮の許しが古代は与えられていた!と言う教えです。まさか〜!
神はそんな事最初から教えてなどいないからです。
動物の血は一時的にも永遠にも人の罪など一切消す効力などありません!と神は伝えています。そして、エルサレムの神殿、それ以前は移動式ミシュカンの祭壇の上でしか、動物を捧げられない事に気が付いていますか?それならば2000年前まで神に回復される人、罪赦される人は、世界の中で極少数、エルサレム付近に住んでいた、又は祭りの時にエルサレムに上れた人だけが得ていた仮の許しだとでも言うのでしょうか?随分けち臭い神像ですよね。それ。聖書に記された永遠から永遠に同じ、許し、憐れみ慈愛と恵みに富、人を瞬時に許し重荷を取り除いて下さると
神が説明されていることとは全く違う教えです。
全部が辻褄合わない教えである!と聖書を書いてある通り人の教えのプリズムを通さずに読めば分かります。神は最初から仮の
許しを動物を通してなど与えてなどいないからです。
地上に作られた神の家=神殿は、天に存在するそっくりそのままモーセが神から言葉を受けて、神の言葉通り=青写真通りにそれを地上にそっくりそのままを再現する様に言われました。
その事からも分かる様に、人は勝手な考えで勝手な神の家を自分の頭の中に作り上げてはならないのです。
神の言葉が伝える通りを聞いて、その通りを生きる!この基本がごっそり抜けているのが、神の教え=言葉を終了した!と教える教えなのです。
過去も、現在も未来も誰一人!!!!人は自分の努力で神の元に
戻れない、義とされない、復活の命=新しい人=聖霊を内側に
受ける事は可能ではない!!!!
そして、贖われて救われた人は、神の教え=言葉を生きる!
人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きるとか、トラーに記された神の教えを生きる!と言われているのに、救われたら
神の言葉は廃れたので無用になったと人の教えを信じて、神の言葉を全く誤解していませんか?
しかもユダヤ人、古代の人はこれこれあれこれをして、罪赦されていたなんて考えている、その考えや教えこそが、神が伝えて
いる事実から全く外れて、ズレている!と言う事にまず気が付いてください。古代も今も未来も、神の教えを生きて罪赦され
義とされる人など誰一人いません!と言う聖書の教えに戻らない限り、人の教えに覆われてブレインフォグが消えないのです。
時代別、人種別の別の神の教えや福音や救いの方法はこの世界に
存在しません!と言う重大な前提!神が人に伝える大前提を揺るがさないで考えないとなりません。その事実をはっきり知る。
では、異邦人クリスチャンの世界で主に教えられる誤解されている部分は、神の言葉を生きる事〜努力、律法主義、信じるだけでいいのに余計な事する必要はない!!などと言う様々な教えが混在し混同しているのです。神の教え、言葉とは全く違うのです。
神に贖われた事実〜信仰により受け取り義とされる事実!と、
信仰により義とされた人=キリストの花嫁になった人は
その後どう生きるのか?神の伝える性質通り、神の言葉、教えを生きる!と言うこの2つ違う契約の意味、教えの中身を一緒くたにごっちゃに混同して、正しく理解していない、神が伝える意味をその通りにはっきりして汲み取っていない、読み取っていない教えられていない事が問題なのです。
1がなくては2は無い。婚姻関係に入らない人には婚姻後の共同生活同じ教えを生きるは無い。最初にアヴラハムの契約=義とされた事実を受け取らない人には、次の2は与えられていません。
義とされた人々、キリストの花嫁となった人達が、その後シナイ山で神との婚姻関係に入った生き方を与えられ、それを生きる
事、神の家に共に住まう事に招かれた!この事実をはっきり
区別しないと見えてこないのです。
誰でも、もし神の前に行いにより義とされる、何かを獲得する
認められる、赦される、その様な思考回路で生きていれば、
それは神との隔たりの外の中、エデンの外の隔たりの中に閉じ込められてしまう状態になります。
信仰により義とされるとパウロが創世記から解説した意味は
以下です。
創世記15章に、アヴラムが神との契約を交わすシーンが記されています。そこには、動物が2つに裂かれて、互いに向き合う様に置かれ、その真ん中には通路があるのです。
そして、この契約は両者がこの通路を通り、互いにこの契約の
内容を破り違反する時には、この割かれた動物の様になります!と言う事を認め宣言するのです。でもアヴラムが創世記15章で
交わした契約は、どの様に行われましたか?二つに裂いた動物の上を、野鳥が狙い飛んできたのを追い払った後日が暮れて、
アヴラムは眠りに落とされます。そして、主はアヴラムに約束されました。
まだその時はアヴラムの名前のままでした。そして、他国〜
エジプトに400年間住まう事、そこから出てくる事、そして
イスラエル、カナンの地に戻り、そこを所有する所有権を与えたと神が言われました。この出来事の前にアヴラムは、”シャレムの王であり大祭司でもあるメルキゼデク”と会います。この大祭司は、父母もなく、家系図がなく生まれもないと記されている不思議な存在です。イエシュアはこのメルキゼデクに属する天の大祭司である事も紹介されています。
眠りに落ちたアヴラム、そしてこの二つに裂かれた動物の間を
通られたのは、”神”ご自身だけです。それがたいまつの火で表されていますが、この火はのちに荒野の40年、神の臨在が目で
見えた、雲の柱、火の柱、神が天からミシュカンの祭壇に下した”火”でも表されています。
この15章でのアヴラムへ交わされた契約、契りを結んだ儀式は、神の一方的譲渡!クリスチャンの世界で言われる”信じて義”とされると同じ事を表しているものなのです。
信じて義とされる。それは神が一方的に与えた譲渡契約、神が言われた事、イエシュアの業を信じて受け取るだけ!それです。
ローマ4:8なぜなら、聖書=トラー=モーセはなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
パウロは、創世記のアヴラハムに与えられた契約を土台に、
義が確立している、信仰により受け取り義と神から認められた!
と語っているでしょう。パウロが勝手に思いついて、後から
ルターが信仰義認を発見したのでは無いのです。最初から
トラーに信仰義認が記されている!そして、アヴラムの前の
ノアも神の義を生きていた!!どうしてノアが神の同じ義=
イエシュアの業で新しくされた人を知り生きてたのか、その詳細は記されていないだけで、聖書で語られる”義”ツエデクとは、
同じ意味の義!イエシュアの贖いの血を通して得る”義”を語っていると言う重大ポイントを理解しないとならないのです。
仮の義、仮の許しも、仮の福音や、仮の救いも聖書には無い
概念であり、それが異邦人の思想だからです。太古から語り継がれた同じ福音!!!!と書いてある通りです。道は1つ!イエシュア=救いの方法もは1つ、福音、贖いも1つ。
信仰により受け取り義とされ復活の命に預かった。人の努力や
行いでは得られない。
先ずそれが最初に存在するのです。それが存在しなければ、神との関係の中に入る事はない、誰も父の元に来る事はない!と言う事と同じ事をここで最初から教えられているのです。
神がなされた業、それを無償で提供されている事を信じて受け取る以外、人は新しく生まれ変わる事はない、人の努力で新しく
生まれ変わり、聖霊を得る事は出来ない!その事実は最初から
同じなのです。先ずこれが大きな1点です。
次にクリスチャンの世界で混同している教えがあるのです。
それは、信仰により信じて新しく生まれればそれでもうおしまい!と考えている事です。
でも神は人の教えとは違う事を教えているのです。
信じた人達、異教の神々から主が命の代価を支払い贖い出された人々、鎖を切られ本物の主人=神の元に戻った人達はどの様に
生きるのか?と言う次の契約がはっきりと存在しているのです!
義とされる〜アヴラハムの契約。義とされ花嫁にされた人達は
モーセの契約の中に招かれた!神の家に共に住まう花嫁の共同体として。それを神の家族と言うのです。
聖書の重大事実を見逃して花嫁にされた人の生き方を昇天以降は自由に放棄して良いんだよ〜などと言っているのが異邦人の世界の教えなのです。
この契約=シナイ山で与えられた婚姻契約を生きる事をクリスチャン達は、昇天以降は無効になったと言っているのです。
又は人の考えで仕分ける、自由選択で人が選ぶ、今はいつでも
安息日として良いなどと、神が1度も言っても無い事を言っているのです。この契約は譲渡契約ではない、宗主国契約〜婚姻契約であり無条件ではない、条件付きの契約なのです。
モーセの契約はアヴラハムの契約と性質が全く異なります。
条件付き!あなたがもし神に近づき、神と親しい関係に留まりたいなら、あなたがそう願うなら、それならばキリストの花嫁とされた人は神が伝える聖別された生き方に留まる生き方をしなくて
はならない。それが命だから。それが安全な生き方だから、
それが神の似姿に造られた人の本来の生き方、あなたそのものの性質だから!と教えている、その意味を全く曲げて、
聖別から外れた生き方が奨励され、自由〜なんでも良い〜聖霊に導かれて神の言葉なんて関係ないから〜などと言うのです。
でもそんな事神が言ってなどいないのです。
続く